牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

10月21日(日) 「牧会学 慰めの対話 ①」  E・トゥルナイゼン著 日本基督教団出版局

2012-10-21 13:47:38 | 日記
 トゥルナイゼンもボーレン同様20世紀を代表する実践神学者の一人。
 「牧会学」の第一部「牧会の基礎づけ」を読んだ。今日の引用は全部第一部からの引用。ちなみに第二部のタイトルは「牧会の本質と形態」、第三部のタイトルは「牧会の完成」。


 本からの引用。「牧会が教会にとって必要なのは、神の言葉を、個人に伝達するためである。、、、、、神の言葉は、さまざまな形態で伝達されることを、求めるのである。」 「牧会とは、教会の説教において、一般的に、つまり、すべてのひとびとに告げられた福音を、特殊な形で、個人に伝達することである。」 「牧会とは、説教とならび立つ、対話の形で、個人に福音を伝達するものであり、それは、説教者、もしくは教団の一成員によってなされるのである。この対話、このような福音の特殊な伝達を、それにふさわしく取り扱うのが、実践神学の、ひとつの、特殊な学科となるのである。」

 説教者と聴衆の間にはどうしても距離が生まれると思う。その距離を縮める努力が牧会の働きと言えるであろう。


 
 本からの引用。「牧会とは、個人を、神が彼を捨てることを欲しておられないがゆえに、説教と聖礼典へ、すなわち神の言葉へと導き、教会の一員とし、そこで彼を養うことを目標とする、ひとつの手段である。このように理解されるとき、牧会は、聖化と訓練の一行為であり、これによって教会は、その見える姿において、建てられ、生き生きと保たれるし、個人は、自分の霊的な怠惰と破滅から救われ、守られるのである。」
 「牧会とは、人間の魂についての配慮である。しかし、牧会で取り扱われる人間の魂とは、単に、人間の中の霊的なものというのではない。聖書に従って理解するならば、魂とは、神の呼びかけのもとにある、肉体、「魂」、そして霊より成る、人間の人格的全体のことである。神の前における人間の実存を認識することの基礎は、イエス・キリストが人となられたことにある。それによっておのずから規定される牧会の課題は、神のために、全人間を聖化するということである。」

 牧会の働きは、神の言葉を個人に届けることによって、一人ひとりが全人格的に癒され、回復され、聖化されていくことである。



 本からの引用。「牧会は、万人にあてはまる宣教を、ひとりの人間の生へと携えて行ってあげるのである。その時、牧会は、常に、個人的な人間に向かい、その人間のために努力する、対話の形態を取る。」 「その内容からいえば、神の言葉とは、罪に対する恵みの言葉である。したがって、牧会の告知の内容は、イエス・キリストによる、罪の赦し以外にありえない。神の解放の恵みが、牧会において、伝えられなければならない。」

 説教は説教者が一方的に神の言葉を語り、罪の赦しを宣言するが、牧会は対話を通して神の言葉と罪の赦しを伝えていく。



 長いが本からの引用。「一九世紀の末ごろ、魂の生活のより深い認識を求め、魂への配慮と養いを求める叫びが高まってきた。、、、、魂が無視されたとき、魂は病気の誘発者となってこれにそむいた。、、、この単純な事実を確定したのは、心理学者たち(フロイトとユング)である。「宗教的生活の退勢と並行して、神経症の患者が、目だってふえていったのではないかと、わたくしには思われる。(ユング)」 このことは、次のようなことをいおうとしているにほかならない。近代的人間の精神状態の不安定さ、その神経の衰弱、世界観的な根拠のなさ、混乱、そこから生じてくるひどい神経的な錯乱状態の原因は、人間の魂の生活が、内的なささえを欠き、明確さも力も欠いているというところにあるのである。もとより、これらの心理学者たちよりもずっと久しい以前に、父クリストフ・ブルームハルト(牧師)のように、人間生活を深く見抜いて、知っていた人が、「多くの病気の根は、赦されざる罪にある」と明言している。われわれは、精神医学者の主張とくらべて、その表現における区別に注意しなければならない。ブルームハルトもユングも、ふたりとも、その時代の、魂がくだかれてしまい、病んでいる人間という、明らかに共通の問題を持っている。しかし、ユングが神経症の患者について語り、「精神的実体としての魂」を考察するのに反し、ブルームハルトなどは、赦されない罪について語り、その際、肉体と魂をそなえながら、神から遠ざかっているというその存在の総体における人間を見ているのである。彼は、病気と罪との間の関連を見る。彼もまた、人間に魂の生活が内在すること、この魂の生活が、放任されたままに、病気の源となり、場所となってしまったことを知っている。だが彼はまだ別のこと、つまり、この魂の病的存在は、全く他の「病気」、すなわち、罪の病の兆候にすぎないものであることをも知っているのである。したがって彼は、ただ魂の苦しみを取り去ろうと試みることによっても、結局、人間を助けることはできないこと、人間全体、肉体と魂をそなえた人間、その存在の総体における人間が、罪の赦しのもとにおかれることによってのみ、これが助けられるものであることを知っているのである。」

 二一世紀に入った今も人間の状態は根本的に変わっていないと思う。科学がいくら進歩しても人間の心は変わらない。いやむしろ病んできているのではないだろうか。牧会は、人間の全存在(霊と魂と肉体)、全人格に関わる働きである。人間は神に愛されている存在である。と同時に罪人として、罪の赦しを必要としている存在である。罪の赦しがイエス・キリストによって与えられる、ということを説教と対話を通して伝え、神の恵みによる解放を体験してもらうのが牧会である。