牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

10月18日(木) 「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」 亀山郁夫著  光文社新書

2012-10-18 23:11:47 | 日記
 
 10月の初旬に「カラマーゾフの妹」(高野史緒著)と「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー著、原卓也訳)を一気に読み、それから今日「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」を読んだ。

 「カラマーゾフの兄弟」は世界文学の最高峰と言われている本だ。文庫で上・中・下と読んだが、物語が進むほど楽しく読むことができた。誰が父を殺したのかというミステリーの要素があり、クライマックスでは法廷がある。でもやはり文学の最高峰にしているのは、神の実在(ゾシマ長老の説教)と神の不在(イワンの「大審問官」の詩)、善と悪、キリスト教か革命かなどというテーマを扱うドストエフスキーの独特なキリスト教的世界観であろう。(フョードル・カラマーゾフが父であり、ドミートリーが長男、イワンが次男、アリョーシャが三男である。)

 さて「続編を空想する」であるが、一番感じたのはやはりドストエフスキー自身に続編(第二部)を書いてもらいたかったということだ。二部構成で考えていたが、第一部を書いてドストエフスキー本人が死んでしまったのだから仕方がない。そこで著者は続編(第一部の時から13年後)を様々な資料を参考にしながら空想する訳である。

 本からの引用。「 「第一の小説」で、けりが付いたのは、フョードル・カラマーゾフ殺人事件、つまり現実の「父殺し」の問題だけであった。そしておそらく「第二の小説」で、より象徴的な、第二の「父殺し」が行なわれることになるという想定は、けっして無理のないものと思われる。 」

 ここでの第二の父殺しとは「ロシア皇帝殺し」のことである。第一部の物語としての大きな流れは「父親殺し」であったが、第二部の物語としての大きな流れは国民の父ともいえる「皇帝殺し」になるであろうと著者は空想(予想)している。

 また本からの引用。「 「第二の小説」では、コーリャが「第一の小説」ドミートリーのように表舞台に立つ。、、、、、、つまり、「第二の小説」における「物語層」のストーリーは、コーリャの皇帝暗殺計画と、それにかかわるアリョーシャの人間的「成熟」の物語となる。 」
 
 第一部から第二部への物語の流れが父殺しから皇帝殺しになるように、私は思想的なテーマの流れではゾシマ長老の死から、父なる神の死(否定)になると思う。ただドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」の最初に聖書のヨハネの福音書12章24節を書いている。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 一粒の麦はイエス・キリストのことを指しているが、第一部の設定ではアリョーシャは20歳なので、第二部は13年後なので33歳ということになる。イエス・キリストは33歳で十字架に架かって一粒の麦として死なれ、全世界において大きな実が結ばれた。そのようなことをドストエフスキーはアリョーシャに期待しているのではないか。イエス・キリストの12弟子たちは政治的な革命による救いをイエス・キリストに期待していたが、イエス・キリストは弟子たちの考えとは全く違う十字架という形で神への信仰による救いを成し遂げた。第一部の最後でアリョーシャの前に12人ほどの子供たちが登場している。この12人(特にコーリャ)がロシアを政治的な方法すなわち皇帝暗殺という形で救おう変えようとするが、アリョーシャはイエス・キリストのように犠牲になってキリストによる救いを通して神の実在を示し(これがドストエフスキーの信仰だと私は思う)、ロシアを変え救おうとするのではないか、と私は希望を込めて第二部の続編を空想する。ドストエフスキーは偉大な作家なのでそんなに単純にはしないだろうが、、、、
 父殺しで裁判があったように、皇帝殺し(未遂で終わる可能性大)でも裁判が行われ、その中で第一部の父殺しが誤審に終わった判決の真相も第二部で明らかにされていくのだろう。