ほぼ衝動☆日記

戦略コンサル修行中~東京の中心でコソコソ暮らすのにはもう飽き飽きです・・・

基本に戻る良書

2010年12月29日 00時10分41秒 | よみもの
弊社のパートナーに薦められて読んだ本。

コンサル稼業に携わる者にとって当たり前のことが書いてある。びっくりするような目新しいことは何もないかもしれない。
しかし、実際に自分がきちんとできているか自省したいときに、何度でも戻ってひもといてみたい、そんな良書だと思うのでぜひ僕もお薦めしたい。


イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
安宅和人
英治出版
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キャーキャー・スイッチ

2010年12月24日 20時42分53秒 | よみもの
もう今年も仕事納めで、早く家に帰ってきて、ものすごく久しぶりにテレビの音楽番組なんか観たりしていると、ものすごく似通ったアイドルグループがものすごく似通ったパターンで歌って踊っている姿に感慨深いものがある(おっさんみたいなことを言うがAKB48を初めてまともに観た)。

人間の欲求はそんなにたくさんパターンなんかなくて、なんとなく優しい気持ちになって、なんとなく爽やかに元気づけられる歌が流れてさえいれば、まあワンパターンでも別に良いということなのだろう。
そういう意味で、アイドルとポップグループのみなさんは、本来持っている生の負の感情を押し殺して、ひとびとがキャーキャー言うために歌って踊るわけだ。ひとびとのキャーキャー・スイッチを押している限りはスポンサーのみなさんもごきげんというわけである。よくCMにも使われるわけだ。

それ自体は別に大いに結構なことだし、そういう歌も何回か聴く分には悪くないのだが、生々しい傷や悲しみが感じられない歌というのは聴いていてまったく心に残らないものだ。振り返ってみると、僕が飽きずに何年も聴いているのは心の傷や悲しみをさりげなくえぐりだしたものが多い。さもなくばKaraのダンスを観ていたほうがまだ良い。

前置きが長くなったが、昔はキャーキャー・スイッチを押しまくっていたのに、みごとに人間の傷や悲しみを表現できるまでに成長した素晴らしい役者に、ディカプリオがいると僕は個人的に思う。
この映画では特にそうで、映画の脚本、演出、役者どれをとっても近年まれにみる傑作と言いたい。


インセプション Blu-ray & DVDセット (初回限定生産)
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ
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自浄作用

2010年12月19日 21時47分55秒 | よみもの
中途半端な税制の改革だとか、政策にまったく関係ない政界再編の動きだとか、鬱になりそうなニュースがつづいているが、ふと、最近の日本の問題の根源は、政治でも経済でも自浄作用が働かないことにあるのではないかと思う。

通常は何か問題が発生すれば、それを解決するための代替案や代替システムが示され選択されるわけだが、昔と異なるのは、いかなる選択であっても国内の利害対立が以前よりも避けがたいものとして存在し、そもそも選べないし、選んだとしてもどちらかを選択した場合の利害調整を柔軟に行う機能が失われているのだ(利害調整できないから選べないのかも)。

ヴェネツィア共和国が、一個人のリーダーに頼らず集団指導体制のまま1千年にもわたり環境変化に対応できたのはなぜだろうかと考えてみたが、結局のところ全体のパイを増やすという線に合意しえたためではないかという思いに終始する。

というわけで別に解も無いわけだが、読み物として非常に面白いし、長続きしうるコミュニティというものの要諦を見る気がする。


海の都の物語〈1〉―ヴェネツィア共和国の一千年 (新潮文庫)
塩野 七生
新潮社
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ノスタルジー

2010年12月12日 23時01分40秒 | なんとなくフッと
最近凋落している日本のテレビ番組はノスタルジーにひたってばかり、とイギリス人(Economist)に揶揄される今日このごろ。
僕自身も「坂の上の雲」を見ながらこれを書いているわけだが、いったい何のノスタルジーにひたっているのだろうか。

とふと考えてみると、たぶん、世間で言われているように、貧しくても「明日が今日よりもよくなる」という希望に満ちた時代ということのほかにも、人々が誇りを持って日々生きることに対してノスタルジーを感じているのだろうと思う。まあいろんな人の見方があるので一概に決め付けることに何の意味もないのだが、少なくとも僕はそうかもしれない。

まあ仮にそうだとして、いまの世で人々が誇りを持って生きていけるために必要なのは何だろうかと考えると、先週述べたような健全な大きな目的に向かうストーリーの中で自分自身を位置付けるということであり、毎日少しずつでも自らの選択や働きによって自分ないしは周りに成長や進化を及ぼしていることが実感できる、ということだろう。

ノスタルジーをとおして自らのストーリーの再構成と再強化をしているのだとしたら、まあ揶揄されてもいいじゃないか、と思うわけである。
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ストーリーの細分化

2010年12月05日 20時55分12秒 | よみもの
たいへん月並みな趣味ではあるが、村上春樹は好きな作家のひとりである。
特に、世界を新しい枠組み(ストーリー)にもとづいて再構成する取り組みに純粋に興奮させられる。

特に、最近は「自分が属すことができ、他人と共有できるストーリー」が失われている(というより限りなく細分化・個人化している)と思うし、そうしたコミュニティでシェアできる健全なストーリーを取り戻そうとするのは、人間としてとても自然なことなのだと思う。それが悪い帰結をもたらすこともあるわけだが。

そのようなことをふと日曜の夜に考えたきっかけは、ネットのニュースの最近のあり方である。
ネットでどんな情報もシェアできるいまのような世の中にはたくさん情報があるようでいて、どこかの個人が勝手に表明した感想や編集方針が、あたかも真実であるかのように大手ポータルサイトに以前よりも頻繁に掲載されるようになった。それは時には商業的な目的、時にはイデオロギー的な目的で発信されている。

個人が情報を発信できるのは大いに結構であるが、ごく限られた情報に基づいて、スポーツ新聞的な情緒的なとらえ方が、あたかも社会全体で共有すべき情報として蔓延する状況には辟易とさせられる。だって、僕のブログの記事がyahooのニュースに掲載されたりしたら「何じゃこりゃ」とみなさんなら思うでしょう?それと五十歩百歩だということだ。

少し前まで、Generation Y(最近の若者)が、ネットの世界に埋没しながら自分の居場所をごく身の回りの家族や「仲間」にのみ求めていることに対して、Sanitizeされた心地よい自分のComfort zoneから出られない人たちとしか思っていなかったが、最近になって理解できる気もする。世の中で共有できる理解や幻想(大きなストーリー)が失われている中で、自分自身がありありと信じられる手近な人間関係という小さな確実な世界(小さなストーリー)をつかもうとしているだけなのだろう。

それはそれでいいのかもしれない。だけど、細かく切り刻まれて、あちらこちらで飛び地状態になった世界から、相互排他の精神ではなく、オープンな相互理解が生まれてくることを心から願うばかりだ。


夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
村上 春樹
文藝春秋
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