かやのなか

あれやこれやと考える

闇を恐れること

2015-08-22 20:52:31 | 
ツイッターで知りましたが、今日はブラッドベリの命日だという。
レイブラッドベリは私が人生で一番影響を受けた作家の一人かもしれない。

中学生だか高校生だかではじめて読んだ短編集「刺青の男」は衝撃だった。
恐ろしくも不思議で、詩的で、センチメンタル。
キラキラ輝く透明な清流、だけどその成分は毒。みたいな文章にのめりこんだ。
そのあと、「ウは宇宙船のウ」「10月は黄昏の国」「太陽の黄金の林檎」と読んでいった。
なにぶんアマゾンもKindle もない時代の話で、さらに私の田舎にはそもそも本屋がなく、町立図書館には町誌みたいなものしか置いてなかった。


余談ですが、小学校の図書館でアルセーヌルパンシリーズに出会った私は、中学校に進学してさてどんな本が置いてあるだろうと期待に胸膨らませていたのに、入学してみたら図書室は管理人不在の倉庫になっていて開館すらしていなかった。
しかし泣き寝入りはしない。1年生か2年生のとき、図書室の掃除係になったのをいいことに、(図書室の掃除当番になる=サボれる、みたいな認識ができあがっていた)同じ班の仲間を巻き込んで大掃除を敢行し(よく面倒くさがらず付き合ってくれたなと思う。気のいい人たちだった)教師に直談判して図書室のリニューアルオープンまでこぎつけたのだから、当時の私の本に対する情熱と行動力はすごかった。あの時点で一体何年放置されていたんだろう。書棚の「にんじん」の上にホコリが1センチ積もっていたのを覚えている。
結局中学校は三年生のときに移転して図書室も新しくなったので、今思えばひょっとしたら旧校舎の図書室は移転のために閉鎖されたままになっていたのかもしれない。だからって中学生にとって貴重な1分1秒だ。そこにある図書室を利用する権利がないことが、当時の私はどうしても許せなかった。

ただ中学校の本屋にはブラッドベリは置いてなかった。
年に1、2回母親の実家の岡山に帰省するときが唯一の都会の本屋に行ける機会だったので、帰省するたび必ず岡山駅前の丸善に連れていってくれとせがみ、創元SF文庫と早川文庫の本棚を回ってブラッドベリの本を見つけては、まさに鑑定士のようにそこから1、2冊を厳選して購入し、実家に持ち帰るという感じだった。
そして次の機会まで何回も何回も同じ本を繰り返し読み返すという、今から思えばなんと健気な読書生活だったことか。
そんな感じで、代表作の「火星年代記」を手に入れられたのはわりとあとの方になってから。数年越しに火星年代記を読めたときは、興奮というよりも「やっとか・・・」みたいな変な感慨を覚えた。

こんなに好きなブラッドベリなのに、まだ全作読み切れていない。
理由は、年をとったり読書環境が広がったおかげで他の作家の本も読むようになったということが一つ、もう一つは、彼の本は文章表現がとても独特で翻訳者の手腕に出来がかなり左右されるので、とても最後まで集中して読めない本がいくつかあること。
おかげで外国文学を日本語で読むときはまず翻訳者から選ぼうみたいな認識ができた。小笠原豊樹訳「太陽の黄金の林檎」、宇野利泰訳「10月はたそがれの国」 は何回繰り返し読んだかわからない。はじめて星新一を読んで、まるでブラッドベリからプロットだけ抜き出したものを読んでるみたいだった。つまり私にとってブラッドベリの魅力は、展開とか構成ではなく、その文章による物語の演出力なのかなと思う。

今日久々にブラッドベリを本棚から引っ張り出して読んでみて、自分がここに描かれている闇の恐ろしさをしばらく忘れていたことに気がつく。
そのこと自体が恐ろしい。

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