かやのなか

あれやこれやと考える

ゾンビとポー

2021-08-02 00:46:38 | 映画
ポー評論集を読み返す。「詩の原理」「某氏への手紙」が示唆に富む。
いま私が「脚本」をどうしても書けない理由はこれかな?というものが書いてあった。
スリはやる価値がない行為なのになぜ大昔からスリ行為はなくならないのか? 登場人物の言葉が真実らしいか? 扱うテーマは正しいか? 結論はもっともらしいか? そのような事に縛られるから何も書けなくなる。特に、自分ではない第三者の言葉を創造することをおこがましいと感じる、一見謙遜するような気持ちの裏には、正しいことを書かなければという強迫観念と、脚本は正しいことを書くべきものだ、わたしはそれができるはずだ、という二重三重に傲岸不遜な姿勢がある。

それから、いまさらながらDay of the Dead「死霊のえじき」をみる機会があった。(前二作は随分前に視聴済み)
この時代特有のグロさ満載のスプラッター映画なので、ゾンビの食事シーンは画面がやたら赤い。
脚本的には、入りでクーパー少佐が既に死んでいて、墓に埋められているところがよくできている。下手に予算があると、この辺のゴタゴタしたくだりも無駄に膨らませられて物語に入れてしまうところだけど。Wikiを読むと予算削減の結果ストーリーの規模を大幅に縮小したらしい。
ウォーキング・デッドでもゾンビそっちのけで濃密な人間ドラマを展開しているけど、原典の方も鬼気迫っていた。いやカット割りが少ない分、より濃かった。まぁバタリアンみたいなのも好きだけど。よく観るとアメフト選手みたいなゾンビや花嫁衣装着たゾンビも写り込んでいて、きっちりおふざけも入っている。
ロメロのゾンビ三部作の最終話にあたるわけだけど、ゾンビとは何か、どうしてこの世界にゾンビがもたらされたかを登場人物が語るシーンがあって興味深かった。ゾンビは神様から人類への絶縁状なのかしら。でもゾンビはロメロから人類みんなへのおもちゃ兼問いでもあるので、まだまだ遊ぶ余地がありそう。

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