かやのなか

あれやこれやと考える

悲劇喜劇 2019年5月号

2020-05-12 23:58:48 | 
雑誌「悲劇喜劇」の2019年5月号を読む。冬に神保町で100円で叩き売られていたのを買っておいたものだ。ちなみにそこの書架には「悲劇喜劇」が8冊程置かれていて、年代は2015年頃〜2019年頃までと比較的新し目だった。うち4冊を適当に選んで買って帰ったが、そこそこの戯曲を8本読めて400円なら安いものだと思う。逆に、定価で買ったあげく、早々にこの本屋に売り飛ばした人は、後悔しなかったのだろうか。悲劇喜劇は定価で1,445円もする。まぁ私みたいに古本屋を巡回してめぼしい台本を探すような貧民からすれば、その調子でどんどんお読み捨てくださいと言うだけですが。

収録されているのは蓬莱竜太氏の「消えていくなら朝」と根本宗子氏の「クラッシャー女中」。消えていくなら朝の方は、この雑誌の名前を冠した「悲劇喜劇賞」なるものの受賞作として掲載されている。
「消えていくなら朝」は、Twitterの方でもつぶやいたが、2分に一度のペースでムカついて本を壁に投げたくなる。別にこれ自体は批判ではないです。蓬莱氏お得意の、煽り合うための会話が上手くいってるので、つられてムカッとさせられてる。つまり台詞の掛け合いが上手いからです。しかし、いつも思うんだけど(といっても生で観た蓬莱氏の芝居は、モダンスイマーズ1本観だけです)この人の書く家族の会話は本当にいつも(私が触れた2本中2本、という確率で打率10割としてるだけです)逆にリアリティがないというか、家族というものを露悪的に描いて、で、それが何なんだろう? って感想に帰結してしまう。こっちは批判です。家族にしろ兄弟にしろ、実際はもっと、なんていうか他人以上に遠慮しあって生きていかなきゃならない面があって、その折り合いに苦労している人が世の大半だと思うんだけど、そこをすっとばして、まぁわざとすっとばしてるんだろうけど、お互いをあけすけに罵り合う姿に、一体今更何を感じろっていうんだろうか。これがやれりゃ、苦労はねぇよ、みたいな。まぁ、言いたいことを言いまくって、やっぱり崩壊しちゃう様には、スカッとジャパンみたいな爽快感もなくはないけど。私は今のところ、スカッとジャパン以上の深さを感じることがあんまりできない。
「クラッシャー女中」の根本宗子の芝居も去年観ていて、それは「今、できる精一杯」というタイトルだったが、このクラッシャー女中も内容的には「今、できる精一杯」とあまり変わらず、なるほどこの作家の基本フォーマットはこれなのか、と2本並べてみて理解する。いや、もちろん他にもバリエーションがあり、たまたま似た2作に先に知ったのかもしれないけど。生まれながらにヒモ気質な男と、コンプレックス爆弾みたいな女。あと年増女がなぜか性的に場をかき回す。明るく楽しい鬱、っていうんだろうか。全員が全員に依存しあっていて、大人らしい大人が一人たりとも出てこないのも根本宗子の特徴で、若い人には、世の中のこういうふうな捉え方が、すごく馴染むんだろうと思う。あんまり年長者を信用してないっていうか。考え方がクリーンすぎて逆にまぶしいわ、と思わんでもない。昭和の人間は、そもそも始めから他人に期待とかしてないからな。いちいち裏切られた!と騒ぎすぎな気もする。とはいえ、私は性格がひねくれてるうえにルサンチマンを抱えているので、大体の作品はこなくそと思いながら読むのだが、わりと面白く読んだし、最後静かに終わるところなんかは、精一杯の芝居よりも良かった。まぶしかった。一つ腑に落ちなかったのが、この主人公は、サークルクラッシャーと呼べないと思うんだけど、私の中のサークルクラッシャーの定義が間違ってるんだろうか。