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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

瀬口清之氏  

2022-04-19 17:07:52 | 文化

 

>JBpress   >低賃金に安住した日本企業、末路は国際競争力の低下   > 瀬口 清之 2022/04/19 06:00

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>1.日本の1人当たりGDPの相対的低下  > 日本は国土も小さく資源もない、優秀な人材だけが国の支えである。  >以前はこの言葉をよく耳にしたが、最近はあまり聞かない。  

 

優秀な人材とは、昔は手先の器用な人の事であったが、今では頭脳の冴えた人の事ですね。人間に対する価値観が変わりましたね。       

 

> 1990年代、日本の1人当たりGDP(国内総生産)はOECD(経済協力開発機構)加盟国中23位だった。 >これは日本人の能力が高いからだと信じられていた。 

 

手先の仕事だけでは世界の市場に進出するのは難しくなりましたね。   

 

> しかし、2010年代以降はずっと20位前後で低迷したままである。 > IMF(国際通貨基金)世界経済見通し(202110月)のデータに基づいて日本の1人当たりGDPの推移を見ると、1990年を100とすれば、200015120101742020155。 > 1990年代は5割伸びたが、2000年以降20年もの間、ほぼ横ばいである。 > この間、中国は1990年を100とすると、2000274201012972020303030年間で約30倍となった。 > 同様の比較方法で韓国を見ると、20001862010349202047930年間で約5倍となっている。 > 日本の1人当たりGDPOECD諸国、あるいは東アジアの中韓両国と比較して、相対的に低下しており、しかもその低下幅が大きいことが分かる。  

 

そうですね。日本は太陽の上る国から太陽の沈む国に変わりましたね。   

 

>2.「ゆとり教育」後の長期的学力低下  > 人材に関して言えば、人材を育成する教育面でも日本の相対的低下が目立っている。 > 日本は1980年代に詰め込み教育批判が高まったことへの反省から、1990年代に入ってから、「ゆとり教育」の実践へと舵を切った。 > 具体的には、1992年に公立学校の週休2日制を導入、1996年には学習指導要領の改定により学習内容を削減した。 > しかし、その直後からOECD諸国内の学習到達度調査(PISA)の順位が低下するなど学力低下が指摘されたため、徐々に「ゆとり教育」の見直しを図ってきている。 > 2018年のPISAの結果を見る限り、科学や数学面では回復が見られたが、読解力の低下には歯止めがかかっていない。  

 

がり勉による暗記力は読解力とは違いますからね。 現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。だから、ご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。文は文法に従って理解しなくてはならない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  

思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。日本人には自分自身の考え (非現実) がない。非現実の内容は日本人にとって嘘になる。誰も嘘つきにはなりたくない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)  

 

> また、大学についても、日本から米国の一流大学・大学院への留学生数が大幅に減少したこと、日本の主要大学の世界ランキングが長期的に低下傾向にあることなどが指摘されているなど、日本の高等教育水準も相対的低下が指摘されている。

 

そうでしょうね。日本人は無哲学・能天気であって英米流の高等教育には馴染めませんからね。   

 

>3.日本企業の学歴軽視  > こうした学力低下は日本企業の学力軽視が背景にあると筆者は考えている。  

 

そうですね。日本人は序列社会の序列人間ですからね。序列順位に関する競争は激烈であっても、学問 (哲学) には縁のない人たちばかりですからね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

[序列人間] 日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。    

[名誉ある地位] 我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

> 中国、韓国などは上記のような所得水準の大幅な向上を支えに、高学歴社会へと急速に変化し、米国一流大学への留学生も大幅に増加した。 > その結果、大卒人材のみならず、欧米主要大学での博士課程修了者も大きく増加している。 > 中国では中央政府機関、北京市・上海市・深圳市等地方主要都市の政府機関、主要な国有・民間企業に関しては、新規採用の前提が博士課程修了者であり、少なくとも修士課程修了者以上であることが就職審査の最低条件となっている。 > 大卒は書類選考の段階ではねられる。  

 

そうですね。 大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

> 日本企業は依然として大卒が採用の中心であり、博士課程修了者のための採用基準や給与体系の整備が遅れている。 > 博士課程修了者を採用する場合、修士課程修了者の基準に合わせて年齢分を加味するケースが多く、高い専門的能力を考慮したハイレベルの処遇制度はほとんど存在していない。 > 修士課程修了者と博士課程修了者では専門知識のレベルが異なるほか、修了までに要する時間とコストも大幅に異なる。 > それにもかかわらず、両者を同等に処遇していれば、優秀な人材を採用できないのは当然の帰結である。  

 

そうですね。日本には高度な職業人という考え方がない。ハイレベルは年功序列的に見たハイレベルでしかない。その質の違いは理解されていない。

しかし、海外では高度な職業人は大学院の教育で生まれるのである。我が国では医師でさえも大学院教育 (医学校) で育てられていない。     

 

> 欧米の一流グローバル企業では、マーケティング、研究開発、ITシステム、会計・税務、統計など、様々な分野で高度な専門知識が求められるようになっている。 > このため、博士課程修了者の高度な知見がなければ、グローバル市場での激烈な競争についていけなくなるのは明らかである。 > 世界中の超一流企業が技術開発でしのぎを削るシリコンバレーにおいて、米国、中国、インドなどの研究者の存在が目立つが、日本人は少なく、日本企業の存在感も軽い。  

 

グローバル市場においては我が国の研究者も企業も力不足ですね。   

 

> 以上のように、欧米の一流グローバル企業との競争では、日本人の学力低下の影響が深刻化しつつある。 > しかし、当事者の日本企業に危機感は乏しく、この問題に真剣に取り組む姿勢は見られていない。

 

井の中の蛙大海を知らずですね。物事に対する理解力の不足ですね。      

 

> それは博士課程修了者レベルの高い専門性の必要性を理解するリーダーが企業内部に少なく、この問題の重要性を認識できていないことが一つの要因と考えられる。

 

そうですね。日本人は無哲学・能天気ですからね。英米流の高等教育の価値は理解できませんね。       

 

> こうした専門性の高い人材を軽視する経営姿勢が日本企業の競争力を長期的に低下させ、日本の1人当たりGDPの低迷が続いている要因の一つになっていると見るべきであろう。

 

そうですね。起死回生を図るには知的な価値に焦点を当てるべきですね。      

 

>4.日本企業の低賃金  > 人材に関するもう一つの重要な問題は、一般の従業員の賃金水準が低く抑えられていることである。 > 一定の利潤を得ている企業は賃上げを実施できるはずである。 > しかし、多くの日本企業はそうせずに賃金上昇を抑制し、高い利益率を確保して株価の安定を図り、収益拡大の恩恵を株主に還元することを重視している。> 一方、従業員は賃金を低く抑えられ、消費の抑制を余儀なくされ、日本全体の内需も伸びない状況が続いている。 > これではいつまでたっても日本経済は回復しない。

 

日本企業の重視に偏りが見られるということですね。   

 

> これと似た企業行動の問題がもう一つある。 > 大企業がサプライヤーに部品等を発注する際に、厳しい価格引き下げを要求してコストを引き下げ、収益を確保するケースが多いという話である。 > この結果、サプライヤーの利潤が拡大せず、その従業員の賃金も低いままである。 >これもまた内需低迷の原因となっている。> 日本の経営者が自社の従業員やサプライヤーを株主と同等に重視すれば、賃金が上昇する余地が拡大するのではないだろうか。 > 立場の弱いサプライヤーへの圧力を用いて値下げ要求し、その恩恵にあずかって完成品の価格を抑えて競争力を確保するのは、サプライヤーに対する軽視である。> 自社の従業員同様、サプライヤーの努力も適切に評価し、付加価値に見合った価格設定で購入し、最終製品の価格に反映させるべきである。

 

そうですね。これも日本企業の重視に偏りが見られるということですね。     

 

> それでも最終製品が売れるようなマーケティングを行うのが最終製品の大企業メーカーの責務ではないだろうか。 > 多くの企業経営者はお客様重視というスローガンを掲げて、コストが上がっても製品・サービス価格を据え置くことを企業努力としてセールストークにしている。 > しかし、多くの場合、顧客、経営者および株主はその恩恵を受けるが、従業員やサプライヤーは犠牲になっている。  

 

最終製品の大企業メーカーは知的判断に力を注ぐべきですね。わが国の従業員やサプライヤーは下と見られているのでしょうね。序列社会においては、下に行くほど割が悪くなります。犠牲は下が払うもの。       

 

> 毎日の仕事の中で職場の仲間とともに熱心に業務改善に取り組み、品質改善、生産性向上等の成果をあげているにもかかわらず、それに見合った賃金引き上げは見送られているのが実態である。 > 製品・サービスの付加価値を定義し定量化することは難しい(財務指標から機械的に算出することはできるが、それは真の付加価値を示しているとは限らない)。 > それを価格の上で的確に表現するのはさらに難しい。 > 日本国内市場の規模は拡大せず、市場競争も厳しいため、価格引き上げにも売り上げ増大にも限度がある。 > 値上げによる売り上げ減少のリスクを恐れて、企業がチャレンジを回避するケースも多い。 > したがって、一般的には日本国内市場にとどまっている限り突破口が見つからない可能性が高い。  

 

井の中の蛙では困りますね。  

 

> 海外市場への進出には優秀な人材が必要である。  

 

そうですね。我々日本人は国際人になる必要がありますね。    

 

> 海外市場のニーズを的確に把握し、高度な技術を駆使して市場ニーズを満たす研究開発を行い、生産性向上によりコストを削減する。 > これらを実現する優秀な海外人材は、多くの場合博士課程修了者である。 >優秀な人材を使いこなす経営者が世界中の従業員を幸せにすることができる。  

 

そうですね。我々日本人にも英米流の高等教育が必要ですね。      

 

>5.人材重視の経営に必要な基本理念 > 一般に賃金はコストであり、低い水準で安定していることが望ましいと考えられている。 >しかし、視点を変えれば、賃金は従業員の生活を支える糧である。 > 低賃金は従業員を苦しめる。  

 

これは高賃金・高物価の社会ですね。先進国並みになりますね。      

 

>本来従業員を家族のように大切にするのが日本企業の美徳である。 > その美徳を実践しようとすれば、顧客への販売価格、株主への配当、従業員の賃金、系列企業からの部品等購入価格等の望ましいバランスを考えなければならない。 > しかし、これに関する明確な答えは経済理論からは得られない。  

 

人徳が必要ですね。   

 

> 中国古典の「大学」はこうした問題を考える際に「物に本末あり」と説いている。 >「本」は人として進むべき道であり、「末」はそこから得られる成果である。 >「本」から始めれば、「末」を得ることができるが、逆は成り立たない。 >「末」=成果を得ることを最優先に考えて行動すれば、人の道を踏み外し、中長期的には周り人たちの協力が得られなくなる。 > 物事を考え、実践する時に、順序をわきまえれば人の道に近づき、得られるべきものが得られるようになるということである。 > 企業経営において、利益や株価の上昇は「末」である。これらを得たいと思うのであれば、まずは「本」からスタートし、顧客、従業員、サプライヤーを大切にすべきである。

 

そうですね。皆が大切な人たちですね。人間そのものが本で、それ以外が末ですね。         

 

> その基本理念をしっかりと念頭に置き、個別の製品・サービスごとに市場環境に合わせて適切なバランスを考え、実践する。途中で経営環境が変化すれば、状況に合わせて柔軟にバランスを調整する。> こうした努力を継続することにより、次第にバランスの取れた経営を実現できるようになる。 >これが中国古典の説く優先順位の発想である。 

 

中庸の徳のようなものでしょうね。何事も極端に行くのは良くない。  

 

> この考え方は、前段で述べた博士課程修了者の処遇についても、後段の一般従業員の賃金についても当てはまる発想である。 > この基本理念に基づいてブレない経営を実践する日本企業が増えれば、企業の競争力は高まり、賃金上昇とともに日本全体の内需も増大し、日本経済の復活が実現する筋道が見えてくるはずである。 > 激動の時代だからこそ、時代の荒波に流されないよう「物に本末あり」の理念の支えが必要である。  

 

そうですね。本を正さず末に拘るのは良くないですね。   

 

> それを土台に、博士課程修了の高度な人材も一般従業員もともに大切にする日本企業がグローバル市場で活躍することを期待したい。   

 

そうですね。日本人は学問を大切にすべきですね。

語り始めた者は、徹底的に言い切れ。 (タルムード ロシュ・ハシャナ編)  

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)    

 

 

 

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