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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

吉見俊哉氏  

2024-07-18 17:19:08 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >「理系は文系より役に立つ」と考える人が決定的に見落としている視点   >吉見俊哉によるストーリー・   >12時間・   

>即時的なメリットを追求しがちな現代において、「大学は役に立たない」という意見も少なくない。   

 

そうですね。   

 

>そんな、世の中の言説と空気に東大名誉教授が答えた。   

>本稿は、吉見俊哉著『さらば東大 越境する知識人の半世紀』(集英社新書)を一部抜粋・編集したものです。   

>理系学部は役に立っているか?   >学部と就職は対応していない   

>――先生が『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)で、「文系は役に立つ」と言いきられたことには異論はありませんが、しかし実際に目の前にいる文系学部の学生にとって「大学が役に立つ」とはどういうことか、やはり考えてしまう現実もあります。   

> ほとんどの学生にとって、大学は「大卒」の資格や就職に使える「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」を得るために行くところになっているかもしれない。   

>そんな彼らが「高い学費を払っても、大学で学問に触れられてよかったな」と思えるためには、どうすればいいんでしょうか。   

>吉見 今の質問に答える前にひとつ聞いておきたいのですが、では、理系ならば大学教育は役に立っているのでしょうか?   

>――おそらく世の中では、そう思われていますね。   

>文系より理系のほうが就職もよい、と。   

>吉見 しかし、1990年代末からですが、工学部の学生が大学で学ぶ分野と実際に就職する職場の分野が全然対応しない傾向が顕著になっています。   

>就職後、専門を活かせているかという点では、文系のみならず工学系も大学で学ぶことがどんどん役に立たなくなっているのです。   

> それでも国の政策では、「役に立つ」人材を育成するために、大学で先端的なデータサイエンスや理系の教育をもっとやれと言っていますね。   

ITやデータサイエンスの教育を大学教育に導入すること自体に私は反対ではないのですが、しかし、だからといってそれで本当にそれらの教育を受けた学生が、その教育を活かす職に就けるわけではありません。   

 

高度の職業人には絶えざるリスキリングが必要ですね。   

 

>昔のプログラマーのように、教育が技能研修的なものにしかならない可能性もあります。   

 

大学教育を職に生かすためには職業教育をする学校が必要ですね。   

 

> 要するに、そうしたことが必要だとしても、それが大学の本領ではないのです。   

>私はAIが人間の知的想像力を超える日がくるとはまったく思いませんが、しかし比較的複雑な事務労働のかなりの部分は、これからAIに取って代わられるでしょう。   

>専門知識の比較的単純な応用力だってコンピュータは人間を凌駕するはずです。   

> そうした技術革新にあわせて社会基盤が整備されていけば、かなりの職種がたしかに消える。   

>そんな未来がもうすぐ先に見えてきているときに、「役に立つ」知識とはいったい何なのでしょうか?    

>本当は、「すぐ役に立つ」特定の先端技能を身につけさせるために大学があるのではありません。   

 

そうですね。  

 

>「目立ちたくない」学生たち   >その理由は生育環境にあり   

>――おっしゃることは、よくわかります。   

>ただ、ずっと東大の大学院で教えてきた先生にはわからないかもしれませんが、学生たちにそういうたくましさを身につけてもらおうと、たとえば議論する力を鍛える機会を増やしたり、自由に発表する機会を作ったりしても、「目立つのは嫌だ」「意識高い系に見られたくない」と思っている学生には伝わりにくいんです。   

 

そうですね。雉も鳴かずば撃たれまいですね。   

 

>吉見 つまり、吉見の大学論は高踏的すぎてエリートでない大学生には役に立たない、という批判ですね。   

>しかし、今、言われた「目立つのは嫌だ」「意識高い系に見られたくない」というのは、その学生の知的能力がどうかではなく、高校までにその学生がどう育てられてきたかに由来するのではないですか?   

> つまり、ここ30年間くらいの日本社会、そして教育全体に問題があって、その結果、多くの大学生からチャレンジ精神のようなものが消えてしまった。   

> 実際、おっしゃられた大学生の間でのたくましさの喪失は、エリートも含めて広がっている現象だと思います。   

 

日本人には意思が無い。自立性、自発性が無い。優柔不断・意志薄弱である。     

 

>直感的には、高校段階までの教育で、たとえば「国語」を「演劇」に変えてしまうとか、「社会」をフィールドワークに変えるとか、大学入試を高3の夏に前倒しし、高校と大学を実質的に連続化するとか手をいろいろ打っていくことで、ごく普通の大学生がもっと積極的になっていくようにする方法はあるはずです。   

> あるいは今、世界で注目を集めている全寮制のミネルヴァ大学のように、オンライン教育を徹底させつつ、世界各地に学寮を用意し、それらの学寮のある都市を学生たちにめぐらせていく。   

>それらの都市で学生たちをNGOだとか、インターンだとかに参加させ、現実の問題状況に直面させていくというのもひとつの方法でしょう。   

 

求めよさらば与えられんですね。 (自ら積極的に求める態度が必要であるという事)  

 

> 私は大学生が積極的になるために、専門的な知識が必要だとはまったく思いません。   

>彼らが学ぶことに積極的になれないのは、社会的に困難な問題状況に直面する、あるいはその中に身を置く経験が少なすぎるからでもありそうです。   

>キャンパスや教室よりも都市の路上のほうが学びは多い   

>――かつての日本の大学にも、学生の溜まり場的な場所がたくさんあって、そこで知的なコミュニティが成立していたのだと思いますが、今の大学は建て替えなどできれいになった一方、そうした空間がほとんど排除されてしまっています。   

> 一応、カフェやアカデミック・コモンズといった、学生たちが自由に何かをするためのスペースが用意されてはいます。   

>でも、今の大学生は本当に忙しくて、学内でコミュニティを作る時間がそもそもありません。   

>昔の大学生と違って、大学にはよく来ているし、授業にもきちんと出席するのですが、とにかく現代の日本の大学生は忙しい。   

 

そうですね。日本人には意思が無い。日本人の勉強には何事にも上からの指示・指導が必要ですね。   

やって見せ 言って聞かせて させて見せ 褒めてやらねば 人は動かじ (山本五十六)     

 

>吉見 わかりました。   

>――えっ、何がわかったんですか。   

>吉見 どうすれば学生たちにとって大学が役に立つものになるか、ということです。   

> まず、キャンパスから溜まり場になる場所が消えていっていることを憂うなら、みんなで大学の外に出て行けばいいではないですか。   

>どうして大学のキャンパス内部、それから教室にとどまることにこだわるのですか。   

> 私は、教室やキャンパスよりも都市の路上のほうが、大学生たちが学べることはよほど多いと思います。   

>それから、学生たちの忙しさを軽減するには、科目の数を圧倒的に減らさなくてはなりません。   

>とにかく、日本の大学は科目の数が多すぎるのです。   

 

そうですね。日本人には意思が無い。日本人の勉強には上からの指示・指導が必要である。   

 

>『大学は何処へ』にも書きましたが、学生たちの「忙しさ」を解決するためには、学生が履修する授業の科目数を今の半分以下に減らさなければならないということです。   

>今、大学1年生だったら1週間の履修科目数は10から14科目くらいでしょう?   

>――1年生だったら、20科目ぐらい取っている人もいます。   

>今の若者はコスパ意識が高いし、そもそもまじめなので。   

>吉見 世界のどこにも、大学でそんなにたくさんの科目を同時に履修させる国はありません。   

>明治以来、知識の効率的な注入を軸にカリキュラムを設計してきたから、その習慣から抜け出せていないのです。   

 

そうですね。日本人は他人の受け売りが仕事ですからね。   

 

> 学生の学びの実質を軸にするなら、1学期の履修科目数は6科目を超えるべきではありません。   

>半分どころか、現在の3分の1です。   

>それを少人数でする仕組みにしていけば、今よりはるかに実質的な教育ができます。   

> 大学教育はそもそも、多くの日本の大学で制度化されているような広く浅い学びではないことを、改めて確認するべきです。   

 

そうですね。我々日本人には思慮深くなるための励みが必要ですね。      

 

>教師と学生の密な関係を築き、知的トレーニングをしていくには、1学期につき1科目を4単位以上にし、それぞれの科目で1週間に23回、授業が開講される。   

> 現在のゼミのような科目が並ぶ仕組みにすべきなのです。   

>そうすれば、学生は集中的に深く学ばざるをえなくなる。   

>同じ教員と学生がともにする時間は現在の3倍近くになります。   

>こういうカリキュラムになると、大学の「科目履修」の意味が大きく変わりますね。   

>カリキュラムの構造化を、形式的に示すのではなく実質的に組織することになるでしょう。   

 

そうですね。日本人の文化には形式があって内容 (実質) が無い。   

 

>学生にとって「大学が役に立つ」は大学が提供するコンテンツの問題ではない    

>―おっしゃる通りですが、それをやるためには少人数教育のための教室の数がもっと必要になりますし、海外の大学のように訓練された院生などの補助教員から成るTA(ティーチングアシスタント)もいないといけません。   

> そういうコストをかけられない大学も多いでしょうし、もともと博士課程の院生が少ない大学ではTAの確保が難しいことも考えると、結局、東大のような大学でないと無理なんじゃないでしょうか。   

 

高等教育には金がかかりますね。   

 

>吉見 いやいや、東大は一番難しいでしょうね。   

>現実にはいろいろな問題があって、簡単にはいかないのはわかっています。   

>でも、たとえばTAの問題にしても、大学間の横断的な連携を強化していけばなんとかなるはずです。   

>私たちは、科研費の共同研究は大学を越えて、かなり横断的にやっていますよね。

> 同じように、博士課程やポスドクの若手研究者の初期キャリアについても、大学横断的な仕組みを作っていくべきです。   

 

そうですね。   

 

>それぞれの大学が、タテ割りタコツボでやっていける時代ではありません。   

 

我が国のような序列社会の序列人間には難しいかもしれませんね。その上思考を停止していますからね。      

 

>その発想をやめなければ、日本の多くの大学は18歳人口の急激な減少に対応できず、潰れていくでしょう。   

> 研究だけでなく、教師も、TAも、そしてとりわけ学生も、複数の大学に所属して、自分が探究しようとするテーマにしたがって大学や学部、指導してくれるシニアの先生方の間を渡り歩いていくべきなのです。   

> その際、忘れてならないのは、学生にとって「大学が役に立つ」というのは、大学が提供するコンテンツの種類の問題ではないということです。   

>大学が、特定の専門知識によって社会の「役に立つ」という認識には誤りがあります。   

 

そうですね。   

 

>そうではなく、大学はそれ自体が一種のパフォーマンスなのであって、知的演技力のある俳優たちを育てているのです。   

>優れた俳優は、さまざまなジャンルの知識の体系を自分のものとして演じていくことができます。   

> 上演論的に言えば、個々の授業はもちろん、大学のカリキュラム全体も一群のドラマの集合体です。   

>ドラマというものは時間を構造化することによって成立しているパフォーマンスですから、大学において時間がどう構造化されているかが重要です。   

> そのドラマの上演において、学生たちは決して観客ではなく俳優です。   

 

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、わが国は世界の中に在って、世界に属していない。高踏派の住民の住む孤高の国か。 

 

>大学という知の舞台において、学生たちはまだ新米の俳優ですから、彼らが自分たちでシナリオを作り、演じられる俳優になっていくためには手助けが必要です。   

>その役割を果たすのが、大学教員なのです。