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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

鵜呑みと垂れ流し

2020-01-23 16:31:24 | 文化

>285268 日本のメディアの欺瞞性は世界有数、それゆえに国民は意識転換が必要。 >猪飼野 ( 50歳代 営業 )  13/12/19 PM06 【印刷用へ】 >イギリスの新聞「インディペンデント」紙では、日本政府が「原子力関係の情報は、特定秘密なので公表できないかも」と発信した事を紹介。
>こんな危険な重大発言を、マスコミがほとんど批判していない事の問題を指摘。

批判精神の欠如している日本人は危険ですね。

>そして、最新2013年の世界報道自由ランキングで、日本のマスコミは53位とマスコミの事実報道が遅れていると認定されている事を紹介した。

わが国のマスコミは、大衆への大量的な伝達の役に立っていませんね。だから53位でしょうね。

> <インディペンデント紙 11月26日からの引用>リンク~~~~~~~~
>■Japan's media is already compliant > 「日本のメディアは既に迎合的」との指摘も 

日本人には批判精神がない。だから、日本人は、常になれ合い迎合的ですね。

>森内閣府特命担当相は、11月に行われた国会での審議中に、原子力発電所に関する情報も特定秘密に指定される可能性があることを認めた。>テロリストに情報が渡る可能性があるというのが理由である。

テロリストは困りますね。

>指定作業の大部分を担当するのはエリート官僚たちだ。>法案に反対する者たちは、日本の主要メディアの多くは既に批判精神に欠けていると言う。

日本人には批判精神 (critical thinking) がない。だから、批判精神の存在を高く評価する伝統もなければ教育もない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。非現実 (考え) の内容は、文法上の時制 (tense) のある文章により文章化される。非現実の世界は、それぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) になっている。人生の始まりにおいては、これらの三世界は白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって各人はその内容を蓄積させている。この内容は世界観 (world view) と呼ばれるものである。考えの内容は人それぞれである。’あるべき姿’もその中にある。自己の世界観 (非現実) に従って現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を示したことになる。だが、日本語文法には時制がないので、日本人は、自己の世界観を持つことができない。そして、批判精神に欠けている。だから、わが国の主要メディアはエリート官僚の示す内容をただ垂れ流すしか方法がないのである。

>ジャーナリズムの監視機関である「国境なき記者団」が発表した最新の世界報道自由ランキングにおいて、日本はほかの先進民主主義国やリトアニア、ガーナよりも下位となる53位に位置している。

そうですね。国境なき記者団の評価はリーズナブルだと思えますね。

> <以上引用>~~~~~~~~・~~~~~~~~~
> 確かに、ウキペディア「世界報道自由度ランキング」リンクで53位だ。
>しかし、一方で『日本国民は、メディア信頼度<鵜呑み度>が世界一』リンクと言うように、マスコミ内容を鵜呑みする傾向がある。

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要がない。楽ちんである。正解は一つに限られている。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。話の内容を納得する為には文法に従って文章を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常努力を要する理解というものはしないで過ごしている。
理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度と理解は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度の内容は聞き手の勝手な解釈によるものであるから、現実 (文章) 直視になっていない。話し手にも忖度の責任はない。話の内容に食い違いが生じていても議論にもならない。ただ、忖度の主は孤立する。
鵜呑みも現実無視である点で忖度と変わりがない。騙された場合には、ただ ‘相手を信じた’ として被害者は自己の正当性を主張する。相手を信用する前に論理的に結論を得た形跡はまつたくない。ただ、気分・雰囲気による行き掛かりの結果であることが多い。全国民を挙げて知的な努力が足りないと言えるであろう。国民の知的水準はまことに危険な状態にあると言えますね。

>メディアが事実を発信しないという問題指摘も重要だが、国民が事実を見極める(≒マスコミのうそを見破る)という意識転換がより必要だ。

そうですね。意識転換が必要ですね。
現在の状態は、グリム童話の‘オオカミと七ひきの子ヤギたち’ の話に似ています。子ヤギたちはオオカミの ‘しわがれ声’ や ‘黒い足’ を現実の内容として問題にしていますが、本当にオオカミが悪いのは子ヤギたちを丸のみにするという意思 (非現実・考え) であります。目先・手先の内容に囚われて、非現実 (考え) の内容を放置する人たちは浅はかだと言わざるを得ません。我々も非現実 (考え) の内容を想定内において、思慮深い人間になる必要がありますね。


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跳ぶ

2020-01-23 00:04:13 | 社会
(略) 
>  最初のうちは、ただぼーっと見ているだけです。>自然をぼんやりと観察している。     

そうでしょうね。

>でも、そのうち、何かの弾みで、子供の目がきらりとする瞬間がある。>それは「パターン」を発見したときです。

新発見があったのですね。

>  自分の前に展開しているランダムな自然現象の背後に、実は法則性があるのではないか・・・というアイディアが到来したときに、子供の目がきらりと光る。>そういうものなんです。

そうですね。自己の世界観獲得の始まりですね。

>一見するとランダムに生起する事象の背後に数理的な秩序があるのではないか、という直感が到来する。

直感は洞察力ですね。

>雲の動きでも、虫の動きでも、波の動きでも・・・ずっと観察しているうちに、そこに繰り返しある「パターン」が再帰しているのではないかというアイディアがふと浮かんでくる。>そうするといきなり集中力が高まる。

そうですね。興味津々ですね。

>もし自分の仮説が正しければ、「次はこういう現象が起きるはずだ」という未来予測が立つからです。>果たして、その予測通りの現実が出来するかどうか・・・子供だって、そのときは息を詰めるようにして、次に起きることに意識を集中させます。

ご成功を祈ります。

>>学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。>>目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。

そうですね。科学に関する考えは、科学哲学になります。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

>>おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。

新発見ですね。めでたいことです。
外人は、 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン) と言っていますからね。

>>論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。>>それが「跳ぶ」ことです。

‘跳ぶ’ とは、自己の世界観を延長することですね。

>  でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。

そうですね。日本人は、意気地なしですからね。優柔不断・意志薄弱であることが常のようです。

>ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。>彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がない。仕方がないので、無為無策でいる。ここでとん挫する。
  ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)
意思は未来時制の文章内容であるから、文法に時制 (tense) というものが必要です。しかるに、日本語の文法には時制がない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>  今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。

それは、意思がないということでしょうね。だが、日本人には意思はなくても恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて意地・根性・大和魂とするのがわが国の習慣であります。これは、精神主義ですね。
 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇) 

>自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです。

日本人には、意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
意思は文章内容になっているので意味があるが、恣意はバラバラな単語のままで存在し文章にならないので意味がない。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
日本人には、意思疎通が無くて恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。
対話が無くて、談合 (腹の探り合い) がある。
意思決定 (理性判断) が無くて恣意決定 (盲目の判断) がある。
説明責任が取れなくて過ちの処理にけじめがつけられない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

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