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人生ブンダバー

読書と音楽を中心に綴っていきます。
現在は、暇に飽かして、日々更新。

山本夏彦『私の岩波物語』 吉野源三郎と『世界』 (長文)

2020-05-03 05:00:00 | 読書

山本夏彦(1915-2002)はかなり読んだ。このブログでも比較的早
く取り上げている(→こちら)。

今でも私の本棚には十数冊並んでいる。

「戦後史」を調べて、久しぶりに『私の岩波物語』(文春文庫)を
読む。
本書は、数年前に文春学藝ライブラリーから新版が出ている(→
ちら
)。初出は『室内』昭和62(1987)1月号~平成5(1993)年4
月号。

「私の岩波物語」
「講談社少々」
「筑摩書房の三十年」
「佐々木茂索と池島信平」
「中央公論と改造そして文庫」
等々、出版業界の歴史を垣間見る話が興味深い。

山本夏彦のおもしろさは、本質を「言い切る」ところにある。私に
はなかなか真似ができないのだが(笑)、いわく、
 わが国の知識人は明治時代までは明治天皇崇拝で、大衆と共に忠君愛国だったが、
 大正以後そうではなくなった。知識人ははじめ大正デモクラシーに、次いで社会
 主義に傾倒した。

これにいささか関連し、山本は別のところで
「親不孝は大正時代に始まった」
と書いている。


4/18のブログ「竹内洋『清水幾太郎の覇権と忘却』」(→こちら
で、初代編集長吉野源三郎と『世界』(岩波)の話を取り上げた。
ウィキペディアもご参照→こちら

山本の「私の岩波物語」には、私の知らなかった話をもう少しハッ
キリ書いてある。少々長くなるが、以下に引用する。
 岩波茂雄は戦争中一度倒れたが、回復した。戦争が終わったらさあこれからは自
 分たちの天下だと息吹きかえした。安倍能成も敗戦と同時に同志と共に総合雑誌
 の発行を思いたった。すなわち「世界」である。・・・・・・「世界」は安倍能成を主
 幹に吉野源三郎を編集長に、その年(注:S21年)の十二月に創刊された。はじ
 めは保守的な雑誌として出たのである。すぐ売り切れた。・・・・・・吉野源三郎は明
 治三十二年生れだから小林勇より四つ年上で、大正十四年東大哲学科を出た。予
 備役陸軍歩兵中尉だったころ共産党の同調者として軍法会議にかけられ、懲役二
 年執行猶予四年の刑をうけた。

 ・・・・・・「世界」は初めはよく売れた。安倍能成、和辻哲郎では古いから吉野源三
 郎は徐々に執筆陣を若くした。オールドリベラリストに原稿を頼まないで、新進
 気鋭の論客に頼んだ。気鋭の論客というのは左翼または進歩的文化人のことだと
 はすでに言った。安倍以下の老人は自然去って「心」という雑誌に拠ったが、も
 う読者とてはなくいつ終わったか私も知らない。
 
吉野源三郎はかくれ共産党員で、岩波の社員の四割は党員またはシンパだといわ
 れていた。・・・・・・

 安倍能成が文部大臣になって去ったあと、吉野は名実共に「世界」の編集長とな
 り、折から左翼全盛の時代に乗じて編集よろしきを得たから「世界」は売れに売
 れた。返品はなかったから、この時はまだ小売書店は事を荒立てなかった。その
 全盛時代は昭和三十五年「六十年安保」までだろう。「世界」は全面講和を主張
 して、単独講和と対立した。ソ連中国の両大国だけを除いた講和は単独ではない
 のに単独と称し、再び三たび大戦を誘発すると国民をおどし「世界」は増刷に次
 ぐ増刷をした。



『世界』の昭和26年10月号(講和問題特集号)には100人ばかりの
人々が寄稿したが、その大多数がサンフランシスコ講和条約を望ま
しからぬとするもので、小泉信三ほかごく少数のものが、この条約
の成立に賛成だった。これに対して小泉信三は次のとおり強烈な
「カウンターパンチ」を放った(『文藝春秋』昭和27年1月号。小
泉信三「再び平和論」の抜粋)。
 『世界』が、全面講和論者または中立論者の同人雑誌の如き特別号を出そうとす
 るなら、それは固(もと)より自由であって、何人もこれを妨ぐべきではない。
 (『世界』の十月号は多く読まれて重版したということであるから、これを同人
 雑誌と称するのは、数字的には不似合であるが。)けれどもそういう企画と知れ
 ていたら、私は無論これに参加しなかったであろう。『世界』の編輯者がよく承
 知している通り、私は違った意見を持っているのである。・・・・・・

 然るに、出来たものを見ると、そういう方針で編輯せられたものではなく、甚だ
 しく偏った意見を集める特輯になっている。あの号を見ると、私などの講和に対
 する意見は、非常に小さい少数者の意見のように見えるけれども、事実、日本の
 知識あり教育ある階級全体の意見が、彼処(あそこ)に表明された通りであると
 は考えられない。もしまた『世界』の編輯者が、日本の真に良心ある知識人は、
 あの号に執筆した人々のみであり、誰がそういう人々であるか、誰がそうでない
 かを知るものは『世界』の編輯者のみであるというなら、それは僭越であり、私
 自身もその人選に与ることを潔しとしない。しかし、私のよくその人柄を知って
 いる編輯者は、無論そんなことを考える筈はない。然らば、あの執筆依頼の人選
 は何を標準にしてなされたものであるか。私はそれを知りたいと思う。



私もハッキリ記憶しているところだが(私には当時選挙権はなかっ
たが。)、昭和44(1969)年の年末総選挙(第32回)で、佐藤栄作
(当時首相)は、
「かねて、日米安保では戦争に巻き込まれると批判する勢力があっ
たが、(この20年間)戦争には巻き込まれなかったではありません
かっ」
と、街頭で声を張り上げ、演説していた。
結果、自民党は300議席(20議席増)の大勝、社会党は90議席(51
議席減)の大敗となった。
その後、日米安保は(なんなく?)自動延長となる。

それからほどなくして、あれほど強固に反対していた中国も、日中
国交回復にあたって日米安保には反対しなくなった。中国は日米安
保よりソ連が怖くなった?


これらも「戦後史」の重要な一コマと言えるのかもしれない。



山本夏彦『私の岩波物語』(文春文庫)★×5

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黒岩さんからピュンピュンと「緊急メッセージ」が送られてきた。



オーストリアなどでは虫除けに置かれている。


久しぶりの(?)ケーキ





合成写真かとも思ったが・・・・・・はたして?


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