東京藝術大学は昨年が創立130周年だった。昨年、その藝祭2017企画
の一つ「東京音楽学校に響いたうた」を聴いた(→こちら)。
東京藝術大学では橋本先生を中心にアーカイブ(ス)の整理が進んでい
る。
昨年、7月30日には「戦没学生のメッセージ~戦時下の東京音楽学校・
東京美術学校」のイベントが開催され、戦没学生の作曲した作品が演
奏された。
7月22日(日)、「戦没学生のメッセージⅡ--シンポジウム 今『学
徒出陣』をどうとらえるか」が東京藝術大学音楽部内第6ホールで開催
された(13時~16時)。
<基調報告>「史料の発掘と実態解明はアーカイブスから」
大石 泰 (東京藝術大学演奏藝術センター教授)
戦没音楽学生の作品を「音」として再現する。彼らが生きていたこと
の証としたい。
橋本久美子(東京藝術大学音楽学部大学史史料室非常勤講師)
戦時中に在籍した学生のデータ(在籍者数、応召数、戦没者数等)を
整備している。統計データの説明。
<パネリスト報告>
1.制度的側面から見た「学徒出陣」
西山 伸 (京都大学大学文書館教授)
昭和2年「兵役法」と中学以上在学中の徴収延期の推移。
(個人的感想)当時の制度、議論を整理したもので、大変おもしろく、
勉強になった(!)。戦前の徴兵制度と「国防」との関係をあらため
て研究するのもおもしろいかもしれない(当時の人々にとっては「常
識」だったのかもしれないが・・・・・・)。
2.学徒出陣をいま問うことの意味-九州大学を事例として-
折田悦郎 (九州大学人文科学研究院教授・大学文書館副館長)
九州帝国大学の歴史。戦時中の学部別徴集者数。学徒出陣。戦後の学
生運動
(個人的感想)学徒出陣当時のお話はおもしろかったが、戦後の学生
運動・米軍ファントム機墜落事件にどう繋がるのか分かりにくい?九
大の歴史には違いないが・・・・・・。
--休憩--
《戦没学生の作品演奏》
鬼頭恭一 無題(アレグレット イ短調) pf.田中翔平
A-B-A形式。まさしくイ短調の響きといえるかしらん。きっち
りした演奏。
村野弘二 小兎のうた Mez.山下裕賀 pf.松岡あさひ
山下さんの素敵なMez.の「声」は昨年の藝祭でも聴いている。村
野さんの伴奏譜もすばらしかった。
3.戦時高等教育の思想と実践
片山杜秀 (慶應義塾大学法学部教授)
戦前、戦時中の言論雑誌(コピー)等を史料として読む。
(個人的感想)当時の「時勢」がいくらか理解でき、おもしろい。
4.学生と戦争
佐藤道信 (東京藝術大学美術学部芸術学科教授)
東京美術学校~東京藝術大学美術学部の歴史上の大事件--1.東京美
術学校騒動(1989)、2.関東大震災(1923)、3.第二次世界大戦、
4.大学紛争、安保闘争(1960年代)
1925年「陸軍現役将校学校配属令」→軍事教練(学校教練)
(個人的感想)美術学校には2浪、3浪はざらにいるという話がおもし
ろかった!(私の父も中学卒業後、美術学校を受けるために浪人して
いた)。「今でも60歳を過ぎた人が受験して、時々入ってきます。や
はり芸術は忘れられないんですね~」とのことだった。
戦時中(とくに第二次大戦中[昭和16~20年])と大学(とくに東京
音楽学校、東京美術学校)を「理解」する一助となる興味深い話だっ
た。
質疑応答では、ご本人いわく昭和20年生まれの女性が、いくらか興奮
気味に「戦後の生まれですが、毎年8月の(終戦の)時期になると苦し
くなります」と述べておられたが、何を質問したかったのかしらん。
以下、まったく「個人的なメモ」・・・・・・
・当時の「学徒」は、同世代の5%~7%程度?
・大学生は戦場に行かなくてもよいのか、という「世論」?
・それが「出陣」する意義は?
・当時の欧米の(大学生)実態は?
西山京大教授(55)に紹介いただいた史料に興味深いものがあった。
S15(1940)/2/13第75回帝国議会質疑(要約)
北昤吉(民政党) 現在、ドイツでは法文科の学生には徴兵猶予の
特典を奪っている。これは相当考慮すべきではないか。
畑俊六陸軍大臣 文教ということが国家存続のために欠かせない
ので、徴兵猶予の制度を廃することは考えていない。
*北昤吉は北一輝の弟。
S16(1941)/11/19第77回帝国議会質疑(要約)
小泉純也(民政党系) 学生生徒の徴集猶予期間の短縮は遅きに失
したのではないか。ドイツでは、20歳から22歳まで兵役に就く2年
間は学業を中断している。農村の青年から言わしめれば、悠長すぎ
るのではないか。
木村兵太郎陸軍次官 在学徴集延期制度を中止することは影響が大
きいので、在学年短縮、卒業繰り上げという措置を執った次第だ。
*純也氏は純一郎氏の父だ。
農村出身の兵隊と都会の学生という構図?
(ネット検索によれば)
米国では、昭和16(1941)年の真珠湾攻撃後、大学生の志願兵が殺
到したという。だとすれば、ことさら「命令」による「学徒出陣」と
いうものがなかったことになる。
西山教授は、『きけわだつみのこえ』(岩波文庫等)では、「平和へ
の訴え」を取り上げているが、必ずしも学徒兵の多数がそういう考え
を持っていたとは限らないのではという趣旨の、個人的「仮説」を披
露されていた。同書は戦後の反戦・平和運動に「利用」された?
(参考)「学徒出陣」→こちら。
8:14 新聞をおろすのに一苦労
8:15 いつの間にか仮設トイレがなくなっていた。
10:15
10:18 公園を清掃する奉仕団 お疲れ様です。
10:19
10:32 あざみ野
11:03 表参道
11:29 上野着
11:30
11:31
11:32
11:38 東京文化会館前
11:39 国立西洋美術館
11:41 森を抜けて
11:42
11:45 向こうは国立博物館
11:49 旧池田屋敷表門
11:49
11:49
11:51 国立博物館黒田記念館
11:52
11:53 東京藝術大学音楽学部正門
11:53
11:53
正門を入った所で撮影していたら、守衛さんから、これですか?と「戦
没学生のメッセージⅡ」のリーフレットを見せられ、「あ、そうです~」。
11:54
11:55 レオニード・クロイツァー→こちら
11:55 右が伊沢修二→こちら
11:55
11:56
ポスター「戦没学生のメッセージⅡ」は「昭和18年9月長岡の旅館で
くつろぐ東京音楽学校の学生たち」という写真。これは、畑中良輔先
生、中田喜直さんと同年代の、今でいう「コンパ、飲み会」の写真だ。
なぜ長岡の旅館?とずっと思っていたが、長岡における「山本五十六
元帥(S18/4/18戦死)讃仰演奏会」後の一コマであると知った(→
こちら)。
畑中良輔先生(当時21歳)は昭和18年9月の半年繰り上げ卒業だから、
その直前だ。
こうして写真を見ると、みんな二十歳過ぎの若者で、今の大学生と変
わらない。しかし、当時は、現在と違って、卒業すれば兵役、出征が
待っていた。
あらためて整理すると、畑中良輔先生(→こちら)は、
大正11年2月生まれ
昭和14年3月、門司中学校卒業
昭和15年4月、東京音楽学校入学
昭和18年9月、東京音楽学校卒業
である。まさに戦時中の音楽学校生活だったと言えるのかしらん。
11:57 まだ開いてない。
11:58 こちらもクローズ状態
12:00
12時30分開場予定だったが、あまりに暑い(猛暑!)ので、「どう
ぞロビーまでお入りください」と入れてくれた(感謝!)。
12:08
12:09
12:19
12時20分、会場のホールがオープンになる。
12:22
14:24 休憩時間 写真パネルを見入る人々
14:25 同上
畑中先生、中田喜直さんの同期の寄せ書き(女子学生を含む)
14:26 同上
16:14 終了後、パネリストの先生に人が集まる。
出口に、以前木下記念スタジオでお会いした仲辻(真帆)氏(信時潔
の声楽作品などを研究しておられる。)がおられたので、
「いや~、おもしろかっったです。お忙しそうだったので橋本先生に
ご挨拶できませんでしたが、よろしくお伝えください」
と言って退出した。
16:19
16:19
16:21 上島珈琲の喫茶店 いつも混んでいる。
16:22 旧奏楽堂 リニューアルが済み、秋にはオープンする。
16:23
16:23 上野公園の森
16:27
16:28
16:34
16:38 銀座線上野駅改札口
16:41
16:48
16:50 フランスパンを買う。ウ・マ・イ!
16:55
17:01 半蔵門線三越前
17:53 鷺沼で急行に
17:58 あざみ野着
18:13
18:14 夕日が映える。
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