畑中先生が逝去されてから早ひと月たった。新聞報道によれば、政府は22日の
閣議で、5月24日に90歳で死去した声楽家で文化功労者の畑中良輔先生に正
四位と旭日重光章を贈ることを決めた、という。
『レコード芸術』7月号p162に國土潤一さん(昭和31年生。54年芸大声楽科卒、
59年同修士課程修了)の「追悼畑中良輔先生」が掲載されていた。一部を引用
させていただく--
そのレッスンの厳しさは、畑中クラスの友人たちが口を揃えて言うことであった。
いわく「エンピツが飛んできた」から「楽譜が飛んできた」まで。不勉強を許さな
い厳格さがある一方で、その生徒たちは「ブルちゃん」、「ブル先生」と呼んでい
た。(もちろん、ご本人を前にしてではなかったが・・・・・・)。それは何よりも、そ
の厳しさが生徒たちへの愛であることを、彼らが知っていたからであろう。
そう先生の厳しさはわれわれを高めようとする、われわれのための厳しさ(--
「苦悩を通じての歓喜」)だった。「愛ある(徹底した)厳しさ」といってもいいのか
もしれない。先生ご自身、ご自分に厳しく、「死ぬまで勉強です」とおっしゃって
いた。
同じく7月号には、喜多尾道冬さんが、F=ディースカウが5月18日に他界した
と思ったら、畑中先生がその6日後に亡くなられ茫然となった。これではまるで
殉死ではないか、という趣旨のことを書いておられる。
毎月20日発売
7月7日(土)畑中良輔先生お別れの会(主催;青の会、実行委員長;中村健、喪
主;畑中貞博)は午後2時より青山葬儀所において行われる。
発起人の中に畑中先生の2級上の栗本尊子さん(メゾ)、同期の戸田敏子さん
(メゾ)--二期会創立メンバーのお名前があった。
当日は千人以上の方々が会葬(参列)されることだろう。その方々一人ひとりに
畑中先生との個人的な(--具体的な)思い出があるにちがいない。
私の、畑中先生の思い出は、それら全体から見れば何千分の一だろう。しかし、
それは、他の方々と同様、ウソのない思い出である。
畑中先生に直接教えを受けた者はクローズの状態となった。これから私も含め、
それらの人々(生き残り?)は減っていくだろうが、先生の教えは永遠に教えつ
がれていくことだろう。
昭和49(1974)年、ワグネル男声第99回定期演奏会打ち上げパーティーの席
だった。最後に、我々卒業生で先生方にサインをおねだりした。
(今でも)何事も遠慮深い(--「思慮深い」ではありません(笑)。念のため。)私
は、当時先生方にもいつも遠慮していた(--今から考えればいい意味でもっと
甘えてもよかったカナ?)が、みんなが先生に群がる中、本当に思い切って畑中
先生に「お願いします」と当日のプログラムを差し出した。先生は一瞬私を振り
向かれ、私の顔を確認されるやいなや無言で万年筆をスラスラと走らせた。
そこには「五年!!心からの音楽を作って来ましたね。君にはいろいろお世話に
なりました。畑中良輔 定演の日」(*)とあった。先生は当時52歳だった。
(*)今がら振り返っても、私には過分なお言葉に恐縮してしまう。
このブログには書いてこなかったが、平成21(2009)年2月12日(木)、畑中先
生87歳の誕生日に、日比谷通り沿いの東京會舘で「畑中先生の芸術院会員を
お祝いする会」が開かれた。ワグネルOB合唱団なども出席、畑中先生の指揮
で「タンホイザー」大行進曲を歌った。
元NHKの後藤美代子さんから「今日はどうしても直接お祝いを申し上げたいと
鎌倉から来られました」と紹介があり、当時95歳の吉田秀和さんが便箋を片手に
祝辞に立たれた。大意は次のようなお話だったと記憶している。
声楽家はどちらかというと・・・・・・(ここでかなりの間があり)、知能指数の低い
方が多い(会場大爆笑)けれど、畑中さんはそれと違って、若い頃から知的な
ところがありました。
昔から何か企画するということもやっておられ、日本歌曲の紹介にも力を入れ
てこられたが、いつだったか「青の会」の皆さんで15年にわたってシューベルト
歌曲の連続演奏会をおやりになったことなど大変感心させられました。
その間、畑中先生の、やや下を向かれ、目を伏せて、吉田秀和さんのお話を聴い
ておられたお姿が今でも印象に残っている。
その日、畑中先生はシューマン「献呈」を歌われたのではなかったかしらん。
→関連ブログ「ヴォイストレーナー 泉忠道の宴」
ちなみにその翌月3月24日(火)には「(三浦)洋ちゃんを偲ぶ会」がサントリーホ
ール小ホールで開かれたのだった。
最後に「畑中先生の思い出」で目に留まったブログに一つ二つリンクを張らせて
いただこう。
→「ふん・・・子供ね・・・」
→「畑中先生がご逝去されました」 「畑中先生追慕」
* * * *
6月21日(木) 18時30分よりOB合唱団、仲光甫さんによる「尾崎喜八の詩か
ら」の練習。仲光さんは最初から暗譜だが、歌う方もだいぶ譜面が落せてきた。
前にも書いたかしらん、仲光さんはお若いが「優秀」だ。誰もが認めるだろう。
その年齢にかかわらず「優秀な」(音楽性にあふれた)指揮者で歌えることはま
ことに幸せである。
今のワグネルOB合唱団は、あくまで私の個人的意見だが、久しぶりの参加でも
「あ、来たの」という、わりとオープンな感じがいい。--私は出る以上は全出席
を目指しているが、それとて強制的な感じでないところがいい。
平均年齢65歳(以上?)のOB合唱団は
・声が出ない
・リズム感が悪い
・滑舌が悪い
・暗譜力が弱い
・ブレスが浅い
ということになりがちだ(--すべて私のことかな(笑))が、本番ははたしてど
うなることだろうか?
6月24日(日) TopKさんのご紹介により、新宿西口浪花屋鳥造において、
OB合唱団のTopパート会が開催された。現役ではないが、7月1日のOB六
連に向けての「決起集会」である。
出席は、卒業ベースでS37年からH15年までのOB11人。先輩、後輩のワグ
ネル体験談に興味深く耳を傾ける。(*)ブル先生の思い出話に花が咲いた。
当日知ったが、この日の出席者で木下先生、畑中先生お二人に5年間ご指導
を受けた「幸せ者」は私だけだった(笑)。
OB六連にTopはナント20人以上がオンステするという。
(*)
・ワーグナー「タンホイザー」、「オランダ人」の夏合宿中、先生が怒って帰られ、
それから3か月以上練習に来られなかった話。
・北村先生をおだててワグネルOBで合唱コンクールに出場。てっきり金賞だ
と思ったら、銅賞だった話。
・高校時代、労音の公演で歌劇「夕鶴」に運ず役の畑中先生を観たが、主役
は忘れた話 等々
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一般的に「ソーシャルメディアを利用する注意事項」なるものがある。
当ブログでも個人的なテーマが多いが、匿名であれ、知りえた内輪話(オフレコ)
などは載せない、個人的なアップの正面の写真も(了解を得た場合は別として)
掲載しないのが当初からの原則である。
ブログに限らず、「公私の区別」とか「プライバシー」を尊重したいものである。
また「クラシック、オペラなどを聴く際のマナー」というものもある。
・携帯電話の電源はOFFに
・隣の人とおしゃべりしない
・演奏中に飴を出さない(包装紙の音が意外とうるさい)
・帽子を脱ぐ
・前に乗り出さない、むやむに動かない
等々、常識的なことだが、プログラムに書いてある場合も多くなりつつある。
--根本的にはいずれも個人の「品性」の問題なのかもしれないが・・・・・・。
こう書いていると小泉信三さんを思い出す。
<青葉区すすき野を歩く>6月17日
横浜市と川崎市の境目 です
虹が丘から渋谷駅行きのバスが出ている
<6月の花>
紫陽花(アジサイ)が多いかな いずれも筆者撮影
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多田武彦は「蛙」「柳川風俗詩」「雪明りの道」「雨」「富士山」「草野心平の詩から」「尾崎喜八の詩から」と7曲歌いました。ブル先生の「富士山」は感動的でしたね。残るは「東京景物詩」「わがふるき日のうた」を歌いたいです。
土曜日には一緒に歌えますね。楽しみにしております。0B合唱団も100人体制になりそうです。
ブル先生にサインのおねだりをした記憶がありません。
また、そのときのプログラムに先生のサインはありません。
最初にサインをいただいたのはそれから10年後、「演奏
の風景」という御著書を出版されたとき、その発送作業を
今川のご自宅でお手伝いしたことがありました。「お前に
も1冊上げるよ」とおっしゃってサインをして下さった。
'84 3月24日の日付が残っています。
さらに20年近くを経て、先生の指揮でブラームスの「ジプ
シーの歌」と「愛の歌」のCDが発売された。購入したての
そのCDを携えて藤沢市民会館で開かれた先生のオペラ
講演会の楽屋に押しかけ、サインをしていただきました。
2002年1月18日の日付があります。齢50歳を目前とした
ふてぶてしいおっさんである自分も、先生の前に出ると
初めて先生にお会いしたときのウブな少年に戻って、
どぎまぎしながらCDを差し出したものです。
あのときの、少年時代の先生のお歳はまさしく今の自分と
同じ49歳だったのだ、と思ったことを懐かしく思い出します。
そのCDには私の名前に続けて「歌は心 心は歌」としたた
められています。
「尾崎喜八」の難しさは、以前どこかにも書いたかもしれませんが、漢語の多いこと、叙景的な詩でありながら、その行間に詩人の想いが歌われていることでしょうか。
たしかに「高雅な、憂鬱な老嬢たちが朝から白いワルツを踊っている」だけ読むとナンジャラホイですね~。多分、雪が軽く舞っているのでしょうか。それにしてもコウガ、ロウジョウは歌詩を読みながら聴かないと分からないでしょう。
ともあれ明日、明後日の2日間、全力を傾注いたしましょう!
「東京景物詩」は私も歌いたい!です。
あの時、群がった人たちはいったい誰だったのでしょう(笑)。
それはさておき、やはり一人ひとりの中にブル先生は生きていますね~。
先生は何事に対しても、ウソのない「思い」の強い方だったのではないでしょうか。