地球の宝さがし

~ 彷徨の回顧録 ~

ポタラ宮~チベット自治区

2020-09-30 14:26:04 | 旅行

ポタラ宮は1642年、チベット政府成立後、チベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に建設された宮殿。

ラサは標高約3,650mにあり、チベット語で「神の地」を意味するチベット仏教の聖地。

ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語に由来という。

内部の部屋数は2000ともいわれ、政治的空間の白宮と宗教的空間の紅宮とに分かれる。

チベット動乱(1956~59年)に際し、中国政府により接収され、今は博物館として位置づけられている。

ダライ・ラマは、チベット仏教の化身ラマの名跡。

大海を意味するモンゴル語のダライと、師を意味するチベット語のラマとを合わせたものという。

現ダライ・ラマ14世は、1959年に発足したチベット亡命政府の長を務めていたが、2011年3月に引退。

現在は、チベットにおける精神的指導者。

西寧とラサを結ぶ青蔵鉄道が2006年に開通し、観光ルートとして一躍スポットを浴びるようになった

私が訪ねたのは、鉄道開通間もない頃。

航空機でラサに入ると、多くの人は高山病に罹ってしまい、

ポタラ宮への長い階段を登り切れないと聞き、鉄道利用を選んだ。

乗車駅はゴルムド。

折角の機会とばかりに、西安と敦煌への寄り道をした。

10年ぶりの西域の玄関口は様変わりであった。

兵馬俑は第4坑まで発掘が進み、銅製馬車は立派な展示ケースに収納されていた。

簡易な建物に収められているものの直ぐ脇に立って記念撮影が出来たことを懐かしく思い出した。

当時人気者の西安動物園の白いパンダも天国に行ったという。

コンクリートによって補強された敦煌莫高窟は、岩盤の風化に必死に耐えているようだった。

青蔵鉄道は、最新式の技術が結集されているという。

永久凍土の上への鉄道線路や、高所での気圧変化に対応しうる車両の導入など。

航空機メーカーのボンバルディア製で客車の気密性は高く、客席には酸素チューブを取り出せる。

最高地点が海抜5072 mともなると流石に空気が薄く、列車内では沈黙している人が多くなってくる。

持参した高度計は正確な指示数を表示した。

それは、列車内の気圧と車外の気圧とは変わらないということを意味する。

案の定、トイレの窓は解放されており、客車の気密性には疑問符が付いてしまった。

ラサ市内は、マニ車を片手に参拝する人々を多く見かける。

マニ車の中には経典が入っており、クルクル回すことで経典を読んで功徳を積んだことと同じになるお手軽な仏具だ。

中心部のバルコル(八角街)の買い物も時計回りの一方通行だ。

大昭寺(ジョカン寺)では、五体投地をして、祈りをささげる人々で溢れている。

雪頓節は、中国の民族自治区チベットのラサで開催される祭。

祭の名称の「雪」は「ヨーグルト」、「頓」は「宴会」を意味し、

もともとは修行僧にヨーグルトを供する宗教行事だったという。

現在は宗教と娯楽が結びついたイベントのようだ。

テブン寺の雪頓節は、タンカを岩山の中腹に掲げる。

タンカは、主にチベットで仏教に関する人物や曼荼羅などを題材にした掛軸。

早朝、まだ真っ暗闇の中、多くの人が集まって来て、岩山を目指す。

只管、高みを目指す。

タンカが広げられる場所は、定かでないのだが、

前を歩くこと達は、きっとそれを知っているのだろうと信じて後についていく。

暫く、歩き続けると先がつかえて、前に進まなくなった。

仕方がないので、そこで待機することにする。

そこが良い場所なのか、そうでないのかは、さっぱり分からない。

日が昇り始めようとした時、タンカが開帳された。

岩肌の上を、絨毯のように丸められた状態の巨大な織物が、

クルクルと回りながら姿を現した。

何処からともなく、大きな歓声が上がる。

太陽が姿を現わし、その光がタンカを照らし、一年ぶりの姿が眩しく光った。

ラサの観光スポットとしては、問答修行で有名なセラ寺や夏季の避暑地のノルブリンカも興味深い。

郊外へ行けば、紺碧の色が輝く高山湖も魅力的だ。

その一方、市内を行進する人民解放軍の兵士の姿には、やはり心穏やかではない。

 


タクラマカン砂漠~新疆ウイグル自治区

2020-09-29 10:29:49 | 旅行

タクラマカン砂漠は、新疆ウイグル自治区のタリム盆地の大部分を占める砂漠。

名称の由来については諸説あるが、ウイグル語で、「入ると出られない」という意味とか。

西安からカシュガルに至るシルクロードは、このタクラマカン砂漠の北側を天山南路、

そして南側を西域南道が通る。

近年、タリム盆地の油田開発が進められ、砂漠を南北に横断する砂漠公路が開通した。

現在、鉄道の建設も進められている。

タクラマカン砂漠は、その多くが土砂漠で、いわゆる砂砂漠は少ない。

しかし、風によって運ばれた砂は一か所に堆積してしまうため、

砂漠公路の沿道には植栽帯が整備されている。

植物の生育に不可欠な水は、一定区間ごとに設置されたポンプ小屋により提供される。

その小屋には、維持管理を行う管理人が常駐しているが、周りには何もない所のため、

住み込みのご夫婦がこの任にあたるという。

砂漠には、「胡陽」を見掛ける。

「生きて千年、枯れて千年、倒れて千年姿をとどめる」と言われ、

暑さ寒さに強く、水の少ない過酷な環境でも生育する植物だという。

ところが、燃料として利用されるあまり、近年は随分と減ってきてしまったとか。

ここのラクダはフタコブラクダ。

北アフリカ周辺のヒトコブラクダに比べて身体は小さめだが、寒暖差に強いのだという。

夏には気温40℃近くまで暑くなるが、冬にはマイナス30℃にまで低下する。

この厳しい環境で生き延びるために特別な適応力が発達しているようだ。

この辺りの石窟にも、仏教壁画が多く残されている。

敦煌の莫高窟に比べたら、保存状態が芳しくないが見応えがある。

クズルガハ千仏洞やキジル千仏洞は、漢の時代以降から8世紀ごろまでの石窟。

「クズルガハ」は「赤い嘴のカラス」という意味。

この遺跡の近くに、クズルガハ烽火台という前漢時代の遺構がある。

烽火台は、連絡のために烽火(のろし)を焚く所。

「キジル」とは、ウイグル語で「赤い」という意味。

この一帯の赤い岩肌にちなんだものとか。

夏の観光には、道端で売られているハミウリは欠かせない。

炎天下の中でも、甘くて瑞々しいコレに齧り付けば生き返る。

ガイドは、露天を見かけるたびに車を止めて、売れ具合をチェックしている。

砂漠の横断ドライブには格好の燃料補給。

この辺りの食堂にも、ビールが用意されている。

ところが冷えていない。

どうやら中国の人たちにとっては、冷たいものは、身体に悪いと考えられているようだ。

カシュガルが近づくと、ロバ車を見かけるようになる。

ポブラ並木とロバ車の風景は、観光写真の絶好のターゲット。

長閑な雰囲気が漂ってくる。

バザールに行くと、ロバ車置き場が指定されている。

言ってみれば、専用駐車場だ。

採れた作物を売りに来て、必要なものを買って帰る。

一仕事を終わった後にロバ車置き場に戻ると、御主人を見つけたロバは、

ちゃんと出発の準備を催促するように、移動してくるのだという。

我々のように、車を駐車場のどこに置いたのか忘れて探し回ることない。

カシュガルの町並みは、イスラムの世界が溢れている。

レンガ造りの古い街並みには生活感が漂う。

露天の買い物も楽しい。

焼きたてのナンは一つ1元。

夕方になるとケバブのお店も準備を始める。

見ているだけで楽しい職人街では、日ごろは見かけない品々が並ぶ。

楽器屋さんに入ると、オヤジさんが一曲演奏してくれた。

モスクの前では、ウイグル帽のオジサンたちが屯している。

その一方で、公安や人民解放軍の兵士が行進する。

街には、漢人とウイグル族とが仲良くしようと訴える看板がある。

そんな中で、漢人のスルーガイドとウイグル人の現地ガイドが言い争っていた。

なかなか根が深そうである。

数年後、再び、カシュガルを訪ねた時、街は往時と様変わりしていた。

迷路のような旧市街は取り壊され、新しくなった町並みは、かつての人懐っこさが失われつつあった。


サイクルリキシャー~バングラデシュ

2020-09-24 11:54:55 | 旅行

サイクルリキシャーは、自転車の後ろに人が乗るスペースがある簡易タクシー。

明治後期にアジア各国へ日本の人力車が輸出され、「リキシャ」の名前が根付いていたもの。

バングラデシュでは、奇麗に装飾されたものを多く見かける。

サイクルリキシャーは「生活の糧」であると同時に、仕事をしていることの「誇り」であることを象徴しているように思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バングラデシュは、世界で最も人口密度が高いアジアの最貧国。

人口は世界第8位(1億6千万人)。

イギリスからの独立後、東西パキスタンが分離成立したが、

印パ戦争を経て、東パキスタンがバングラデシュとして独立(1971年)した。

バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。

近年、豊富で低廉な労働力が注目され、製造業が多く進出し、新興国としての期待が高い。

ベンガル湾に注ぐガンジス川を有し、豊富な水資源と肥沃な土地が魅力。

バングラデシュの国旗は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表している。

この地域は、熱帯性モンスーン気候に属し、6月から9月にかけて雨季が到来する。

洪水との引き換えに肥沃な土地を手にしていると言いつつも、デルタ地帯の生活は過酷だ。

バングラデシュ全体でも、激しい雨により国土の3分の1に及ぶ浸水被害が出るという。

この地域に足を踏み入れると、高床式の住居を目にする。

燃料に使う牛糞の日干しも生活の中に溶け込んでいる。

流行の言葉でいえばバイオマス燃料といった所だが・・・

自然の猛威に立ち向かわず、その恩恵に感謝しつつ、ともに暮らす。

こんな言葉を当てはめるのが精一杯だ。

カワウソ漁は、日本の鵜飼に通じる所があり興味深い。

クルーズ船に乗ると淡水に生息するカワイルカが飛び跳ねるのを見ることが出来る。

街は、人・人・人で溢れている。

どうしてこんなに人がいるのかと考えてしまう。

よく見ると、仕事をしている訳でもなさそうな人達を多く見かける。

空き地には市場がたつ。

列車の線路の上でも平気だ。

いつ来るとも分からないが、来たら退けば良いと位にしか考えていないようだ。

この活気がバングラデシュの潜在能力なのだろうか。

この迫力は、世界の都市の中では特異な部類に属するのではと思い巡らす。

この国には、マイクロファイナンスという制度が定着している。

家畜の仕入れやサイクルリキシャーの調達など、

チョッとした商売を始めるための資金を無担保で貸し付けている。

誰でもが働く機会を作り出す仕組みが用意されている。

特に、債権回収の仕組みがユニークだ。

隣組のような組織が構成されており、所属員の返済状況を皆で見守る仕組みである。

これによって信用が担保されている。

少しばかり居心地が良くないと感じる気もするが、財産が何もない所からでもスタートできるのだから、致し方ないのかも知れない。

バングラデシュへの旅は、人の多さを体感するために思いついたものだが、

テラコッタの遺跡・建築群は想像以上のものであった。

タラコッタはイタリア語の「焼いた (cotta) 土 (terra)」に由来する。

プティアの大ゴヴィンダ寺院は、バングラデシュに残る数少ないヒンズー教寺院。

ラーマーヤナの説話や民衆の日常生活などが描かれている。

バーゲルハットのサイト・グンバズ・モスクは、ムガル帝国期以前のバングラデシュ最大のイスラム都市遺跡。

モスクの名称は、60のドームを持つモスクという意味。

パハルプールの大塔は、ベンガル地方に栄えたパーラ王朝が8世紀末に創建した仏教寺院の中央施設。

大塔の周りには、多くの僧坊が囲み、基壇には神々や動物の像により装飾されている。

道すがらレンガ工場(作業場?!)に立ち寄った。

素焼きレンガに適した土壌が採取できる場所に、

採掘、水との調合、日干し、素焼き、保管・出荷をレイアウトし、

周辺の労働者を集めて製造しているようだ。

機械と言えるようなものは一切なく、ただひたすらに、

単純作業を繰り返しているようだ。

レンガの型に嵌めて乾かす作業は、一日中やっても数百円程度とか。

近い将来、バングラデシュの潜在能力が開花し、未知の可能性が具現化することを期待したい。

 


シギリアレディ~スリランカ

2020-09-24 09:01:34 | 旅行

シギリアレディは、セイロン島中央部に位置するシギリアロックの中腹に描かれたフレスコ画。

劣化が進み、現在は18体が確認できるが、かつては500体もあったという。

シギリア遺跡は、5世紀にカッサパ1世によって建造された王宮跡。

カッサパ1世は、クーデターにより父親から王権を奪取(477年)するが、弟のモッガラーナの攻撃を受けシギリアは陥落(495年)し、王は自害する。

堅牢な高さ約200mの台地上の岩峰に王宮を建設した背景には、姻戚間の壮絶な王権争いを垣間見る。

スリランカは、1948年イギリスからセイロンとして独立。

1972年には仏教を準国教扱いにする新憲法を発布し、国名をスリランカに改称した。

シンハラ語で、スリは「輝く」ランカは「島」を意味するとか。

1983年から2009年まで、シンハラ人とタミル人との民族対立を端に発する四半世紀にわたる内戦状態にあった。

その後は、豊富な観光資源を目指して、多くの観光客が訪れるようになる。

私が訪ねたのは2013年。

日本とスリランカの交流を推進しているスリランカ人にお目に掛かったのがきっかけ。

時期は、ペラヘラ祭りが催される夏。

ペラヘラ祭りは、各地で行われる行列型の祭りで、スリランカ中部キャンディのものが最大。

昔は、ヒンドゥー教の神々を祀る祭祀であったとも。

電飾されたゾウやタイマツを持ったダンサーなどの群が街中をねり歩く。

そして最後には、仏歯を納めた舎利容器を背に乗せたゾウがやってきて、皆でお祈りを捧げたところでお開きとなる。

さながら、ディズニーランドのエレクトロパレードのようだ。

仏歯は、文字通り「仏様の歯」。

普段は、仏歯寺の中に収められているのだが、お祭りの時だけは、象の背中に載せられて、

街を巡回する。

スリランカは象の国。

幹線道路を走っていると、道路わきに屯している象を見かける。

象の孤児院もある。

親を失った子象を育てている。

毎日、時間になると川まで水浴びに向かう。

このシーンを見るために観光客が集まる。

アジア象の性格は大人しく、仲間との連携も得意で、働き者であることが良く分かる。

ただ、檻があるわけではないので、逃げてしまわないようにと、足に鎖が巻かれているのが、

何とも痛々しく感じてしまう。

石造りの遺跡群も見応えがある。

ポロンナルワはスリランカ北中部州にある中世の古都。

1017年から1255年までスリランカの首都であった。

露天の石積みの遺跡は自由に立入ができるため、観光する側にとっては好都合なのだが、

遺跡の修復・保存の観点からは課題がありそうだ。

ダンブッラにある石窟寺院もなかなか。

この周辺には80以上の洞窟があるという。

石窟の中には、釈迦とその生涯に関連した多数の聖像や絵画が残る。

釈迦像やスリランカ王、ヒンドゥー教の神像も祀られている。

壁画の面積は2100㎡にもなる。

精緻な技法に思わず目を見張ることになる。

街を歩くと、お店の看板などに描かれた数多のシンハラ文字が飛び込んでくる。

シンハラ文字は渦巻状になっているのが特徴で、女子高生が書く丸文字を連想させる。

基本的な文字は54種類存在しており、そのうち母音18個、子音は36個だという。

少しは勉強してみたい気もするが、文字の違いを区別できるようになるまでには時間が掛かりそうだ。

お土産は、やっぱりセイロンティー。

セイロンティーはスリランカ産紅茶の総称で登録商標されている。

スリランカは世界のお茶の生産のうち約10%を占めるという。

お茶畑を訪ねたが、働いている人達の生活はかなり貧しく、

カメラを向けると愛想を振り巻く余裕は全くない。

怖い顔をしてチップを求める姿が気になった。

上流社会では、ハイティーを楽しんでいる一方で、高温多湿の中で働く労働者との格差は大きい。

紅茶文化の重層的な構造は如何ともし難いようだ。


サファリ~ケニア

2020-09-17 12:01:06 | 旅行

サファリは、スワヒリ語で旅行のこと。

国語辞典には、「特にアフリカへの猛獣狩りの旅行」とある。

しかし、サファリツアーとなると、「快適な専用ホテル」で寛ぎつつ、

「自然保護地区におけるアニマル・ウォッチング」を楽しむ旅行という感じであろうか。

もちろん、猛獣狩りは厳禁。

快適なロッジに泊まり、美味しいものを食べ、お湯のシャワーをあびて、窓からの景色を楽しむ。

そして、涼しい時間帯に、おもむろにサファリカーに乗って、動物を探しに出かける。

ガイド兼ドライバーが、遥か遠くにいる動物を見つけると、その名前を告げる。

指し示す方向に目を凝らすが、全く見えない。

望遠カメラを覗き込むと、何やら動いているものを確認する。

彼らの目の良さに驚嘆する瞬間だ。

サファリツアーのお目当ては、ビッグファイブ。

ビッグファイブとは、バッファロー、象、ライオン、ヒョウ、サイのこと。

これに遇えたら、ラッキーということになる。

ドライバーは、常にほかのサファリカーと連絡を取っている。

お目当ての動物の情報が入れば、そこに急行する。

木の上で居眠りをするヒョウの下には、サファリカーの先陣争いも。

観光客のカメラアングルに気を使って、割り込むケースもしばしば。

動物の前に位置取りをすると、暫くは沈黙の時間が続く。

動物の視線や振る舞いなどなど、シャッターチャンスが訪れるのをひたすら待つ。

動物同士が、睨み合っているときは、何かが起こる瞬間を待つことになる。

誰しも肉食動物が獲物を捕まえるシーンを目撃したいのだ。

でも、なかなか願い通りにはいかない。

ドライバーが「sawasawa?(=OK?)」と聞く。

「sawasawa!(=OK!)」と答えると、次のスポットへと動き出す。

ビッグファイブだけでなく、チーター、カバ、ハイエナ、ダチョウ、キリンも迫力十分。

イボイノシシの行進は微笑ましく、

シマウマ、ヌー、インパラの群れも絵になるシーンを演出してくれる。

マサイ族の村に行くと、奇麗に着飾って迎えてくれる。

土で作られた家の中を案内してくれる。

いろいろと説明を聞いたが、どうも生活感が感じられない。

ホントにここに住んでいるのかは怪しい限りだ。

サファリのホテルは、それぞれが村と契約しているようだ。

言ってみれば、観光マサイ村。

普段は、ホテルで働いていそうだ。

狩りだけでは、生計は立てられないのだから仕方がない。

踊りも踊ってくれるし、ピョンピョンと飛び跳ねてくれる。

跳躍力は流石だ。

一通り出し物が終わると、いつの間にか準備されているお土産屋さんが待ち構えている。

装身具の類だが、あまり出来栄えの良いものはない。

どれでも1ドルのようだが、購買意欲が湧かない。

仕方がないので、お土産用に持っていたポールペンと交換した。

それを見ていた周りの子供たちが集まってきた。

いつの間にか、10本のボールペンは、10個の首飾りに入れ替わった。

100円ショップで買った「中国製10本入りボールペン」は、

損したのか、得したのか、今でも良く分からない。

雨季のサファリは、あまりお奨めできない。

雨は、ずっと降っているのではなく、スコールのように降る。

降り始めると、一気にバケツをひっくり返したように多量の雨となり、

降り止むと、何事もなかったように、青空が広がる。

しかし、道路はドロドロとなり、アチコチにスタックした車が、脱出しようともがいている。

最終日に、ナイロビ空港に向かう日もスコールに遇った。

この時は、半端でなかった。

丘陵地から流れ出た水が、未舗装の道路に流れ込み、思うように前に進まなくなった。

道路も渋滞が始まり、対向車とのすれ違いも容易ではなくなった。

渋滞を予想して、早めにホテルを出たのだが、刻一刻と時計の針が進んでいく。

ドライバーも何とか先に進もうと、時折、道から外れて、少しでも前に進もうと奮闘したが、

捗々しい成果は得られなかった。

半ば諦めていると、渋滞の原因となっている所に到達した。

何と、大きなトレーラーが泥濘に嵌まって、大きく傾いたまま、そのまま放置されていた。

ヤレヤレ。

飛行機には、ギリギリ間に合った。

これで、日本に無事帰れると安堵した。

それのつかぬ間、簡単にはいかなかった。

搭乗したら、直ぐにトイレに駆け込んだ。

朝食として渡された弁当がどうも怪しい。

あまり火が通っていなかったようだ。

その後、成田に着くまでトイレを往復。

帰宅後、病院に行き、「ケニアで・・・」と伝えたら、笑われた。

笑い事ではない。

抗生剤を処方してもらったら効果覿面。

爾来、未開の地には、抗生剤を持参することにしている。