地球の宝さがし

~ 徘徊老人のボケ防止 ~

チャイティーヨ・パゴダ~ミャンマー

2020-09-15 15:35:51 | 旅行

チャイティーヨ・パゴダは、ミャンマー南部モン州にある重要な巡礼地のひとつ。

落ちそうで落ちない金箔に覆われた巨岩の上に、パゴダが載せられている。

パゴダは仏塔のこと。

この岩は女人禁制。

男(?!) であれば、入口でお布施を出すと金箔を分けてもらえる。

ペタペタと岩に張り付けて、お願い事をする。

夕日に映えて金色に輝くパゴダの神々しさに、満願成就は間違いなさそうだ。

夜のお参りには、パゴダ近くの宿を確保する必要がある。

山の上へ通じる道は狭く急なため、途中で車を乗り換える。

一言でいうとトラックバス。

トラックの荷台に板が渡してあり、それに腰掛ける。

馬力があり急坂を勢いよく登っていくが、乗り心地は決して良いものではない。

トラックで、一頻り登るが、まだ、終着点ではない。

そこからは、徒歩。

大きな荷物は担ぎ屋さんにお願いできる。

歩くのは嫌だという人のために、駕籠屋さんもいる。

道は、舗装道路を外れて、階段のある山道を言った方が近いという。

ところが、道の両側には、お土産屋さんが並び、かえって賑やかだ。

気合を入れなおして登りきると漸く宿についた。

驚いたことに、後から行くと言っていたガイドが先回りしていた。

どうやら、観光客に歩いてもらって、担ぎ屋さんや駕籠屋さん、そしてお土産屋さんの

雇用を確保しているようだ。

駕籠屋さんは、お店の前でしばしば休憩して、何か買うまで前に進まなかったという。

商売繁盛となるよう、いろいろ工夫をしているのが伺える。

ミャンマーの人々にとって、パゴダは、お釈迦様の住む家。

従って、パゴダに入るときは履物を脱ぐ。

ミャンマー観光は、必然的にサンダル履きがお奨め。

脱ぐ場所は建物の入口ではなく、パゴダの敷地境界。

そこから裸足で行かなければならない。

砂利敷の所は、足の裏が悲鳴を上げる。

お参りをして戻ってくると、ちゃんと脱いだままの状態で残っている。

盗む人はいないのだという。

決して経済的には豊かな国ではないが、仏教に帰依するミャンマーの人々の心の豊かさを痛感する。

ミャンマー中部の町バガンに行くと、無数のバゴダが大地の続く限り広がる光景に出くわす。

パゴダを建てることが「最大の功徳」され、輪廻転生により訪れる来世への願いが込められる。

イスラム教徒にとってのモスク建立と同じかもしれない。

そうしたことから、バガンには、数えきれない程のパゴダがあるのだという。

朝夕に赤く映える仏塔群は、ミャンマー観光のハイライト。

その日は、真っ暗闇のなか、ホテルを出発した。

バゴダの上に登って、日の出を見るのだという。

バガンは内陸に位置するため、朝の冷え込みは半端でない。

人気のスポットがいくつかあるようで、周りのパゴダの上にも観光客が登っていた。

ところが、その日は待てど、暮らせど、朝日が昇ってこない。

どうやら雲の中に隠れたまま、陽が昇ってしまったのかも知れない。

暫くすると、皆パゴダを降り始めた。

当方は、折角来たのだからと、粘りに粘った。

寒いわ、腹は空いてくるは・・・

半ば諦めた頃、一気に空が赤くなり太陽が顔を出した。

ほんの短い時間ではあったが、パゴダの赤いシルエットをカメラに収めた。

将に、待てば海路の・・・だった。

ミャンマーの見どころは、このほかにも沢山ある。

バガンのアーナンダー寺院。

ここの仏像は、どの位置から見ても視線が合う不思議な目を持っている。

インレー湖に行くとインダー族に会える。

彼らは、足で船を漕ぎながら漁をする。

シュエズィーゴン・パゴダは金ピカの巨大パゴダ。

日本のテレビでミャンマーが紹介されると、ここの映像が登場することが多い。

ちょうど結婚式が催されていた。

街で見かける人々は、タナカと言われるものを頬に塗っている。

原料はタナカの木で、化粧ではあるが、日焼け止めの効果もあるとか。

子供も大人も誰でも顔に塗っている。

街の何処でも、小さい小枝を束ねたような状態で売っている。

お土産として買って帰ることも考えたが、貰った方もどうしたものかと迷うところ。

私が、訪ねたのは、2012年。

ミャンマーが、政治的な転換に向けて大きく動き出した年。

今では、ミャンマーの国家指導者となったアウンサンスーチー女史は、「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘。

長らく軟禁状態にあったが、2012年4月に行われた連邦議会補欠選挙で当選を果たした。

それまでの軍事政権下で、経済的な発展が遅れ、当時は、最大都市ヤンゴンの町でも、近代的な建物はほとんど見かけることはなかった。

農村部では、貧しい生活を送らざるを得ない状況を垣間見た。

今後、成長するアジアの国々の一員として、豊かな国へと成長していくことを願ってやまない。

 

 


ワハーン回廊とパミール高原~タジキスタンからキルギスへ

2020-09-14 14:24:40 | 旅行

ワハーン回廊は、アフガニスタン北東部に位置する東西に細長く伸びた渓谷地帯。

タクラマカン砂漠を通って東西を結ぶシルクロードの一部。

玄奘三蔵やマルコポーロも通ったという。

北はタジキスタン、東は中国、南はパキスタンに囲まれるアフガニスタン領内の要衝地。

19世紀にロシア帝国と英領インド帝国との衝突があり、当時のイギリス・ロシア両大国間の利害関係から、この地域が緩衝地帯として国境線が引かれた。

地政学的に重要な場所にも関わらず、厳しい気象と険しい地形から、

国内の政治情勢や内戦などの影響が及ばないエリアでもある。

訪ねたのは2015年。

本当は、アフガニスタンに行きたかったのだが、

治安は頗る悪く、容易に国境を越えることは当面難しそうである。

そこで目を付けたのが、北東部国境沿いのこの地域。

隣国から覗いて、その雰囲気だけでも感じ取ろうと考えた。

インチョンを経由して、ガザフスタンの首都アルマトイで一泊。

翌朝、再び飛行機に乗り、タジキスタンの首都ドゥンシャンベへ。

直行便はないので致し方がない。

折角なのだからと、市内観光をして英気を養った。

中央アジアのナンを相変わらず美味しく頂いた。

泥炭地から出土した木彫りの涅槃仏は、かつては仏教が栄えていたことを物語ってくれる。

次の日からは、4WDに乗り換えての長距離移動を開始した。

先ずは、山越えのルート。

幹線道路沿いの空き地には、屋台が出ていた。

ドライバー向けに軽食を提供してくれるようだ。

子供たちが集まってきたので、物売りなのかなと用心したが、

商売っ気は全くない。

写真を撮って見せてあげたら、逆に喜んでくれた。

峠を通り過ぎると、デコボコの道は、一本調子の下り坂となった。

一頻り走ると、国境のパンジ川が見えてきた。

対岸は、アフガニスタンだ。

急峻な山岳地域を流れる川は、思いの外、水量が多く茶色く濁る。

見るからに国境を越えることは容易ではなさそうだ。

ワハーン回廊から流れるワハーン川とゾルクル湖からのパミール川が合流しパンジ川となり、

タジキスタンとアフガニスタンとの国境沿いを流れる。

タジキスタンのオルグからキルギスのオシュを結ぶ道路は、パミールハイウェイと呼ばれ、

パンジ川沿いのタジキスタン領側を辿る。

この道を遡れば、ワハーン回廊で暮らすワヒ族の生活習慣や文化に接することが出来る。

この辺りには、旅行客向けの宿は殆どなく、やや大きめの民家に泊めてもらう。

子供たちが横で寝ていても驚いてはいけない。

ガイドとドライバーは、庭のベンチでゴロ寝をしていた。

注意をしなければならないのはダニ。

地元の人たちは、刺されても何でもないらしい。

日本人にとっては、暫くの間、痒みを我慢する日々が続く。

パミールハイウェイは、1931年に旧ソ連が領土南端に軍を送る目的で建設した軍用道路。

ハイウェイは高所通る道路の意味で、高速道路では決してない。

舗装されていないばかりか、崩落している個所もある。

案の定、大型のトレーラーが崖下に横転してしまい、困り果てているドライバーを見かけた。

そんな所にも関わらず、自転車に乗った欧米人とすれ違った。

このデコボコの坂道を一体どこまで行くのだろうか。

子供たちの笑顔は、どの村に行っても底なしに眩しい。

毎日、クタクタになるまで、お手伝いと遊びに明け暮れているのだろう。

勉強も、もちろん大切なのだが、生活していくために必要なことが、もっと沢山ありそうだ。

対岸のアフガニスタン側に学校が見えた。

手を振ったら、応えてくれた。

建物の中から、後から後から出てきた。

女性ばかりなのだが、一体どういう施設なのだろうか。

やはり皆、愉快そうに笑っていた。

エネルギーに満ち溢れているように感じた。

ホルグから標高を上げコイ・テゼック峠(4,272m)を越えると、そこはキルギス族の世界。

標高3,500~4,000mの高原にはユルトが点在し、キルギス帽の人々の姿を見かける。

紫外線が強く、湖の色は半端なく青い。

道は平坦で、真っ直ぐに伸びている。

いつの間にか、立派な舗装道路に変わっていた。

マルガブ(3,560m)は、小さいながらも市場があり、質素なモスクがある川沿いの風光明媚な町。

設備は十分ではないがホテルもある。

日本のODAで整備した井戸もあった。

この経緯を知っているのか分からぬが、近所の親子が水汲みに来ていた。

公共のサウナがあるというので行ってみた。

日本と違って洗い場が狭く、汗をかくことが主たる目的のようだ。

国境のキジルアート峠(4,282m)を越えるとキルギスに入る。

サリタシュの宿は、農家の母屋。

食事場所はユルトの中。

宿の御主人は人が良さそう。

奥さんは、牛の乳しぼりの最中であった。

この村からは、レーニン峰(7,134m)を望む。

ソ連から、独立した現在は「クーヒガルモ」に改名された。


サハラの目~モーリタニア

2020-09-11 14:47:52 | 旅行

モーリタニアは、アフリカ大陸の北西部に位置する大西洋に面した国。

国名はアフリカの地中海岸に位置したベルベル人の古代国家マウレータニアに由来。

日本では、タコの輸入元として知られる。

日本の技術支援により蛸壺によるタコ漁が盛んになったもの。

日本のタコの産地である明石沖の海底の形状が類似しているのだと聞く。

しかし、食べる習慣はなく、全量輸出に回わる。

現地のガイドがバーベキューの具材にと・・・どこからか調達してきたが、

「何でこんなモノを食べるのか?!」と不思議がっていたのを思い出す。

モーリタニアの内陸部には、サハラ砂漠が広がる。

世界最大の砂漠で、南北1700kmに亘り、アフリカ大陸の3分の1を占める。

サハラは、アラビア語で「何もない」という意味。

ところが、「何もない」はずのサハラ砂漠であるが、

古くから交易のルートとして利用されていた。

西アフリカ内陸部は豊富な金資源やサハラ以南の地域の奴隷と、

地中海沿岸の塩などが交易の対象。

8世紀には幾つかの交易ルートが確立されたという。

モーリタニアのエリアでは、ワダンやシンゲッティが交易の中心地。

シンゲティには図書館もあったという。

モーリタニアのこれらの隊商都市から更にサハラ砂漠の奥に進むと、

サハラの目と呼ばれるエリアがある。

グーグルマップの衛星写真を見ると、渦巻き状の地形がはっきりと映る。

その場に行ってみても、地上目線からでは、単に荒れ果てた砂漠地帯が広がっているだけだが、

標高100~200mほどの高台の中に、同心円上に標高100mほどの山が幾重にも重なっている。

当初は隕石の衝突によるクレーターと思われていたが、調査の結果、長年の風化や浸食によるものとか。

イスタンブールで飛行機を乗り換えて、モーリタニアの首都ヌアクショットに向かう。

ところが、行先表示はセネガルの首都ダカール。

セネガルは、モーリタニアの南に位置するため、

一旦、通り過ぎてから、戻ってくる飛行ルート。

ダカールでは、一旦下ろされた。

席に戻ってきたら、先に、セネガル人のオジサンが座っていた。

搭乗券を見せてもらったが、何と、同じシート番号表示。

これは、ビジネス席にランクアップか?!と期待したが、

エコノミー席には十分余裕があって、ささやかな期待は、すぐに当てが外れた。

セネガル人の肌は、本当の黒色。

大きな目を白黒させる笑顔に、親しみと愛嬌を感じた。

首都ヌアクショットのホテルで一泊した翌日から砂漠地帯に入る。

内陸部は、宿泊施設は整っていないため、当然としてキャンプ泊の行程となる。

苦難の旅路かと言えば、そうではなく、砂丘地帯のキャンプは格別で、設備の良くない宿に比べたら遥かに居心地が良い。

自然の営みを肌で感ずることができ、人間自身もその中の一つの分子でしかないことを確認する。

日が昇り、日が沈み。

月もまた、毎日形を変えながら顔を出す。

砂漠の風紋は風まかせに変化し続け、美しく見せることを楽しんでいるようだ。

砂漠の灌木帯の日陰でランチをとっていると、村人たちがやってきた。

砂漠で拾った石ころを並べて、お店を開き始めた。

ガイドに聞くと、この辺りの遊牧民だという。

ただの石ころだと思われたものは、昔の石器や化石のようなものらしい。

近くの大岩には、北アフリカでよく見かける壁画が描かれていた。

昔は、この辺りも湿潤な気候であったかもしれない。

ガイトが、いらなくなった空のペットボトルを分けてあげていた。

貴重な水汲み用の入れ物になるのだという。

砂漠地帯に入って4日目。

ようやく今回の旅の目的地「サハラの目」に到達した。

サハラの目は、期待した通り?! 地上からは何も分からなかった。

帯状の丘陵帯は確認できるものの、ただただ岩石の多い砂漠が広がっていた。

カメラに収めたが、それがそれと分かるようなシロモノにはならなかった。

そこに、ロバに乗った遊牧民の親子がやってきた。

「こんな所にも、人が住んでいるか」と絶句した。

ガイドは、数日たったフランスパンを分けていた。

こちらのフランスパンは気候が乾燥しているので、

美味しさそのままで、何日も保存できる。

砂漠には、砂漠の良さがあるようだ。

キャンプ最終日は、ガイドが、ヤギの丸焼きを振舞ってくれた。

こちらではヤギは御馳走だ。

途中で寄り道して、生きたヤギを仕入れてきたらしい。

一頭3000円位だとか。

ご相伴に預かって、必死にかぶりついたが、

手がべとべとになるだけで、食べ所は殆ど見つけることが出来なかった。

少ししか手をつけられずに、申し訳なく思っていると、

本当の目的は、ドライバーさん達への労いだったようで、安堵した。

もちろん、彼らは完食した。

朝起きたら、カラスがたくさん飛んでいた。

砂漠の中に放置された個体が、真っ黒になっていた。

まだ、食べる所は残っていたようだ。

近くに、骨だけになった子供のラクダが横たわっていた。

はからずも最後の姿のあり様を確認することとなった。

街に戻る道すがら、ソドムのリンゴを見つけた。

ソドムのリンゴは毒を持つ果実がなる植物のことで、触ると手が被れてしまうという。

その由来は、旧約聖書に出てくる背徳の街ソドムと、

禁断の果実と称されることもあるリンゴの掛け合わせだとか。

これを見つけると、砂漠に来たことを実感する。

旅の終わりが近づくにつけ、次の砂漠の旅に思いを馳せる自分を見つけた。


ウスチュルト台地~マンギスタウ/カザフスタン

2020-09-11 10:20:37 | 旅行

カザフスタンは、カザフ人の国。

1991年「カザフスタン共和国」としてソ連から独立。

人口の約7割はカザフ人が占めるが、ロシア人も2割を構成。

カザフスタンには、遊牧民の国のイメージがあるが、

石油・天然ガス、石炭などに恵まれた資源大国。

マンギスタウは、カザフスタン西部のカスピ海沿岸の州で、

内陸部には、ウスチュルト台地が広がる。

この台地は、カスピ海からアラル海までに亘って広がる砂漠地帯で、

今回の旅のターゲット。

このエリアの大地の形成過程は、かつて地球に存在したテチス海にまで遡る。

テチス海は、約2億年前に始まるパンゲア大陸の分裂により生まれた

ローラシア大陸とゴンドワナ大陸に挟まれた海域で、

地中海から中央アジア・ヒマラヤ・東南アジアにまで広がっていた。

カスピ海、黒海、地中海は、このテチス海の名残で、

大陸移動により550万年前に陸地に閉じ込められたもの。

この地球規模の大陸の形成過程で、マンギスタウに神秘的な景観が出現した。

インチョン空港を経由して、カザフスタンの首都アルマトイまでアシアナ航空を利用する。

中央アジアへのアクセスには欠かせないルート。

翌朝、カザフスタンの航空会社エア・アスタナでカスピ海に面した州都アクタウヘ。

アクタウは、石油・天然ガスの天然資源とともに水産資源の基地でもあり交通の要衝。

活気に満ち溢れており、行きかう人々の笑顔が絶えない。

出会った学生たちは、皆、着飾っており、学校イベントの一環だという。

海岸沿いの公園には、多くの家族連れで賑わっていた。

快適なホテルで一泊した後は、翌日からは5日間のキャンプ生活が始まる。

最初の絶景スポットは、ウスチュルト台地のボスジラ。

夕陽に赤く映える奇岩と影。

やがて訪れる満点の星の世界。

日の出とともに、暗闇から出現するシルエット。

時間とともに変化する色は無限。

それを表現する言葉は見当たらない。

台地におけるキャンプは、決して飽きさせることがない。

砂漠の移動は要注意。

4WDの作った轍に陸亀が屯する。

ドライバーは、わざわざ車を停車させて、一匹ずつ摘まみ上げては、

通り道から離れた所へと放り投げていた。

炎天下の砂漠には日影がないため、轍の作った日影の居心地が良いのだろうか。

次のスポットは、シェールカラ。

シェールはライオン、カラは城。

横から見ると、ライオンが横たわっているように見える。

ここで地元民のライダーにお目に掛かった。

こんなところで人に合うとは・・・と、お互いカメラを向けた。

中でも、日本人は珍しいのだろうか。

それにしても、ツーリングで、こんな絶景エリアを旅することが出来るとは。

実に羨ましい。

そして、トゥズルバイ塩湖

ウユニ塩湖を凌ぐ絶景かも知れない。

白亜の大地が湖面に浮かび、そのシルエットが、より一層ここの魅力を増幅する。

自分たち以外に人間がいないのだから、鏡のような湖水を独り占め出来る。

飽きるほど燥ぎ、飽きるほどシャッターを押した。

子供の頃に帰ったように、何時間でも遊んでいられる。

こんな経験は、大人になってから、すっかり忘れていた。

煩わしい世の中にあって、すさんだ心が洗われるような思いが。

アトラクションは化石探し。

サメの骨やイカの軟骨。

そしてウニ?!

アンモナイトも。

太古の時代を生き抜いてきた生物が大地にその痕跡を残している。

ゆったりと流れる時間と、止まったままの時計の針が融合する瞬間のようだ。


ペルセポリス~イラン

2020-09-09 10:49:37 | 旅行

ペルセポリスは、アケメネス朝ペルシア帝国の都。

ダレイオス1世が建設(紀元前520年~)した宮殿群。

ペルセポリスは読んで字のごとし「ペルシア人の都」。

アケメネス朝の王は、春はスサ、夏はエクバタナ、冬はバビロンで過ごしたとされるが、

ペルセポリスはアケメネス朝の滅亡の時まで首都と見なされていた。

しかし、紀元前331年、アレクサンドロス大王の攻撃によって破壊され、廃墟となった。

この遺跡は、シリア「パルミラ遺跡」、ヨルダン「ペトラ遺跡」とともに、中東の3Pと呼ばれ、

いずれも世界遺産に指定されているため観光客の格好のターゲット。

遺跡があるのは、イランのファールス州。

ファールス州(イラン南部の歴史的地域名・州都はシラーズ)の古名は「パールス」。

これに因んで、この地域を西洋では「ペルシア」呼ぶ。

イラン人自身は「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼ぶ。

「ペルシア」の呼称を認めた時期もあり混乱を生じたが、

イラン・イスラム革命(1979年)を経て「イラン・イスラム共和国」、通称イランに統一された。

イランは地政学的に重要な場所に位置し、かつてはシルクロードの要衝。

経済や文化の中心地として、その富を背景に、権力者の盛衰が繰り返された。

ペルセポリスに残された遺跡のレリーフには、王への謁見者が貢物を携えて居並び、

その衣装・髪型・装飾品等から、世界各地から来訪であることが表現されている。

広大な敷地の建造物は、如何に偉大であるかを誇示するに十分な役割を果たしている。

イランには見どころが沢山。

「世界の半分」といわれるほど繁栄したエスファハンも。

サファヴィー朝アッバース1世が建設・遷都(1957年)した都。

想像を超える広さを誇るイマーム広場や、青色のタイルで美しく装飾されたモスクなどは、

その象徴だろう。

中でも、広場を囲むように取り囲むスーク(市場)の繋がりには、目を見張るばかり。

お店によって、品ぞろえが違うのだ。

手作りのモノばかりなので、当然ではあるが・・・

例えば時計。

時を刻むのは東アジア製のクォーツだが、文字盤が微妙に違っていたりと。

一日中、歩いても飽きることがない。

イスラムの国にあって意外だったのは「写真撮影」。

事前に了解を得ると、喜んで応じてくれる。

女学生たちが、わざわざ集まって来てくれて、撮りやすいように並んでくれる。

日本人を見る機会が少ないため、興味津々と言った方が良いのかも知れない。

また一方で、歴史ある民族であるイラン人のプライドはとても高い。

アメリカとの政治的な対立に対しても、毅然とした姿勢を変えることはない。

ただ、長く続く経済制裁により、社会不安が高まっていることも事実だ。

ガイドが、御法度の国際政治を論じていたことには驚かされた。

こんな素晴らしい国だが、イランヘの旅行には、なかなか踏み切れなかった。

理由はアルコール。

現地では手に入らないばかりか、持ち込みも厳禁。

入国時に見つかると、没収だけでは済まされないとも。

休肝日としては長すぎるが、諦めも肝心。

ホテルやレストランでは、ノンアルコールビールが用意されている。

種類もイロイロ。

レモン、ライム・・・

始めは、違和感がかなりあったが、

毎日、違う味に変えて飲み続けると、慣れてくるから不思議だ。

「最後はコレが一番おいしい。」と評価するようになった。

とはいうものの、トランジットでドバイの空港に着いたときには、

ハイネケン・ビアバーに飛び込んだのは言うまでもない。