地球の宝さがし

~ 徘徊老人のボケ防止 ~

レディフィンガーとフンザピーク~パキスタン

2020-08-31 15:40:00 | 旅行

フンザは、1974年まで続いたフンザ藩王国があった地域で、王都カリマバードが中心地。

日本では、「風の谷のナウシカ」の「風の谷」のモデルとして、また、宮本輝原作映画「草原の椅子」のロケ地として知られる。

特に、アジアの旅行者の間では、「桃源郷」と呼ばれ、自然豊かな村や谷の美しさは、杏の花が咲く時期にそのピークを迎える。

訪ねたのは1913年4月。

アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)の首謀者ウサマビンラディンが米国特殊部隊により殺害(2011年5月) された2年後。

殺害された場所は、ちょうどイスラマバードからカリマバードに向かう幹線道路沿いのアボッターバードという街。

付近は軍事施設があるような地域で、現地のガイドは「まだ、彼は生きている!」と言っていた。

途中、ガンダーラ最大の仏教遺跡群タキシラに立ち寄った。

中国からインドへは、ヒマラヤ山脈により行く手を阻まれ、

中央アジアやパキスタンを経由するルートにこうした遺跡が点在する。

既に、イスラム教徒が多く住む地域になってしまっている現在を思うと、

悠久の歴史の中でも、激動の時代を経てきたことを感じざるを得ない。

パキスタンのトラックは、ゴテゴテに装飾され、通称、デコトラと呼ばれている。

日本でも奇麗に装飾されたトラックはあるが、これほどのモノは、まずお目に掛かれない。

街には専用のお店があり、色々なパーツが販売されている。

「トラックの中を見せて欲しい。」と頼むと、

「どうぞ、どうぞ。」とばかりに、自慢そうな素振を見せて、写真にも収まってくれた。

カラコルムハイウェイは、パキスタンのギルギットから中国カシュガルまで、カラコルム山脈クンジュラブ峠(標高4693m)を越えて横断する道路。

2010年フンザ川の山腹斜面崩壊によりダム湖(アッタバード湖)が出現し、道路が完全に遮断されてしまった。

湖は長さ18キロメートル、幅500メートル、水深100メートル以上といわれ、暫くの間、渡し船での行き来を余儀なくされた。

私が訪ねたのは、ちょうどその時で、未舗装の道路をカリマバードからタクシュルガンまで、まるまる2日かけて進んだ。

その後、一帯一路を掲げる中国の後押しにより、計画発表後の僅かの期間(2015年完成)で、トンネルの掘削と全面舗装により、1日でカシュガルまで行けるようになったという。

カリマバードには、「ハセガワ・メモリアル・パブリック・スクール」がある。

長谷川恒男は、アルプス三大北壁の冬期単独登攀を世界で初めて成功した有名な登山家。

不幸なことに、近郊のウルタルⅡ峰で雪崩により1991年遭難死してしまった。

その故人の遺志を引き継ぎ、奥様がこの地に学校を設立したもの。

この地域では、教育の機会を得ることが難しく、また特に、女性への教育はなおさら。

ちょうど朝礼が始まろうとしている時に訪ねたが、日本人というだけで、歓待して頂いた。

校庭からは、ラカポシ(7788m)の雄姿を望み、

レディフィンガーを従えたフンザピーク(6270m)も印象的。

生徒・学生達の笑顔が今でも脳裏に蘇る。

 


ウィルヘルム山~パプアニューギニア

2020-08-31 11:06:01 | 旅行

ウィルヘルム山は、パプアニューギニア最高峰(4509m)とともにオセアニア最高峰。

そのため七大陸最高峰ともいわれることも。

山名はドイツ新聞特派員フーゴー・ツェラーが彼の子供に因んで命名したという。

第二次世界大戦中、アメリカ軍の航空機がこの山の中腹に墜落したが、

その残骸は現在も残置されたままになっている。

この山の登頂の技術的なハードルは比較的高くない。

その意味では、日本では不可能な4000m峰登頂のターゲットとしてはお薦めなのかも知れない。

しかし、最大の難関は泥濘との戦い。

このため、雨季には人を全く寄せ付けず、チャンスは乾季のみに限られる。

出発直前にツアー会社から「長靴」を持参するようにと電話があり、

慌てて、「作業服・安全靴のワークマン」へと走った。

成田を夜に飛び立つと、翌朝にはパプアニューギニアの首都ポートモレスビーに到着する。

そこから航空機を乗り換えて、東ハイランド州の州都ゴロカへ。

昼食をとった後、翌日への英気を養いつつ街を散策する。

観光地ではないので見るべきものは限られている。

治安がそれほど良くないためか、市場では警察?!が同行してくれた。

翌日、ウィルヘルム山登山の拠点となるケグスグル村(2550m)に向けて出発する。

迎えに来たのは、通常は荷物の運搬に利用されていると思しき小型バス。

座るところは横向きの固い板のベンチで、未舗装の道路の振動は、直接、尻から伝わってくる。

乗り心地はとても良いとは言えず、掴まるところがないため、常に、両足で踏ん張っていなければならない。

おまけに、たびたび泥濘に嵌まり、抜け出すのに一苦労。

不思議なことに、そんな時には、必ず、近くの村人たちが集まって来て、手を貸してくれる。

どうやら、スタックしそうなところで待ち構えていて、チップをねだっているようだ。

中には、通せん坊をして、道路の石ころを取り除いたから、通行料をよこせという輩もいるらしい。

そんなアトラクションも、最初のうちは興味深く眺めていたが、

最後は、ふらふらになり、発狂しかけた頃に目的地に到着した。

今回は、いつもより早く着いたのだという。

翌朝、ポーターと思しく人達が、ぞくぞくと集まってきた。

宿は、想像していたそれとは全く違い、シャワーからお湯が出た。

ほかに、宿泊者がいないらしく、ベッドが3つもある大きな部屋を一人で利用して、

ゆっくり休むことができた。

ポーターの人選は、宿の主人の役目のようだ。

村の実力者なのかも知れない。

2泊分の装備や食料とともに、ツアー客個々人の荷物も運んでくれる。

主人が、ひとりひとり名前を呼び、荷物を指し示すと、勢いよく勇んで前に出てくる。

中には、女性の姿も見える。

最後に残った荷物の分担が決まると、仕事にありつけなかった村人達は、

残念そうに引き上げていく。

貴重な現金収入なのだろう。

私のポーターはトニー。

筋肉モリモリで屈強な体型をしている。

こちらの人たちは、肉は全く食べないのだそうだ。

それでも筋肉が発達しているのは、植物性のタンパク質からでも、

十分な栄養を得られる物質を体の中に宿しているのだという。

かつては、人食い人種だったという話は、どうも怪しい。

今日の目的地は、アウンデ湖畔(3550m)にある山小屋。

山小屋といっても掘建小屋である。

雨露が辛うじて凌げる程度。

しかしながらトイレは新品であった。

中の仕切りはない(いわゆるニーハオトイレ)ものの、洋式の便座が二つ並び、一度も使った形跡がない。

我々は、設置してからの最初のお客さんだという。

トイレが清潔なだけでも、居住性は飛躍的に向上する。

頂上までの往復は、約11時間。

真っ暗闇の深夜に、小屋を出発する。

ご来光には、それほど拘泥していないのだが、いつものお決まりのパターンのようだ。

長靴は、いつ使うのだろうかと心配していたが・・・

最近、雨がほとんど降っていないために、登山道は、すこぶる状態は良いという。

湖畔から離れると、急傾斜となる。

標高4000m位になると、ペースがだんだんと遅くなってきた。

空気が薄いので、体調管理をしっかりしておかないと、直ぐに高山病になってしまう。

ご夫婦参加の方の2人が遅れた。

ガイドからは、「無理をしないほうが・・・」と。

グループを二つに分けた。

私は、少し休んでからユックリ登るチームに残った。

キリマンジャロ登山の時に、未登頂者が出たばかりに、

「下山後の祝宴がお通夜のようになったこと」が悔やまれたからにほかならなかった。

血中酸素農事も急を要するレベルではなく顔色も悪くない。

脈拍も呼吸も落ち着いている上、意識もしっかりしている。

暫しの休憩が功を奏したのか、急傾斜を登り切った。

後は、山腹をトラバースして、最後の岩峰を登るだけだ。

先行したグループが、頂上から手を振って応援してくれた。

「あと少し!」

頂上に着いた時には、感激のあまり、握手と抱擁の雨あられ。

苦労して登った分だけ、喜びが大きくなることを、改めて心に刻んだ。

私の専属ポーターには、「新品の長靴」をプレゼントした。

彼の喜び様といったら、それはもう表現のしようがない。

日本から持ってくる時には嵩張った上に、全く使用しなかったお荷物が大活躍。

下山後のお酒が美味かったのは言うまでもない。


テプイとエンジェルフォール~ベネズエラ

2020-08-26 13:08:58 | 旅行

テプイは、ベネズエラのギアナ高地にある台地状の山々(テーブルマウンテン)のことで、

先住民の言葉による呼び名。

コナンドイルのSF「失われた世界(ロストワールド)」の舞台。

断崖絶壁により外界と隔絶されているため、ほかでは見られない生態系が形成されている。

また、エンジェルフォールは、ギアナ高地最大のアウヤンテプイから流れ落ちる世界最大級の滝。

落差は979mで、落下する水は滝下部に達するより前に分散してしまうため、滝壺が存在しないという。

名前の由来は、金鉱山を探してアウヤンテプイに着陸したアメリカ人探検飛行家ジミー・エンジェルに由来。

SFで描かれた場所が実際に存在することを知ったときは、

何としても、その場に立ちたいとの衝撃に駆られた。

物語のように、恐竜に出会うことはできないとしても、

異次元の空間に飛び込むことができるような気がした。

ベネズエラは、独裁政権ではあったが、有数の産油国であるため、そのオイルマネーを背景に、往訪した当時は、経済がそれなりに循環していたため政情は安定していた。

アメリカとの関係は、もちろん良くなかったが、

トランジットの時に、「何しに行くのか?」と皮肉を言われる程度で済んだ。

アメリカのダラス空港内のホテルで一泊した後、

翌日、ベネズエラの首都カラカスに飛んだ。

カラカスからは、更に小型機に乗り換えて、

テプイが広がる大平原グランサバナ(標高約1400m)の街へ向かう。

周囲を流れる川には、大きな滝が幾つもかかり、長い陸路の移動も苦にならない。

最初のお目当ては、テプイのひとつであるロライマ山へのヘリコプター遊覧飛行。

条件が良ければ、大地の上に立つことも出来る。

宿泊のロッジについた時間は予定通りであったが、

ガイドから、

「明日は天気が崩れるから、ロライマ山へは、今日、飛んだ方が良い。」

と連絡があった。

慌てて支度をして外へ出ると、何と、ロッジの前の広場にヘリコプターが着陸してきた。

びっくり仰天。

ロライマ山は、丘陵地帯の遥か先に見えるのだが、ヘリコプターでは「ひとっ飛び」。

そうこうしている内に雲が湧いて来た。

ギリギリセーフ。

テプイの台地上の名も知れぬ植物を写真に収めた。

ロッジのシャワーは、お湯ばかりか、水すら出なかった。

ホテルの従業員が大きなバケツに水を入れて持ってきた。

ベッドの下には、コオロギが飛び跳ねていた。

そんな状態でも、今日の成果は格別。

眠りにつくには時間はかからなかった。

エンジェルフォールの観光拠点カナイマへは、再び、小型飛行機に乗った。

陸上の交通網は、ほとんど整備されていないことが良く分かった。

カナイマはリゾート地であるため、立派なホテルに泊まることができるが、

エンジェルフォールの直下まで行くためには、小型ボートで川の上流まで遡り、

一泊だけではあるが、キャンプ泊が必要。

滝壺がないことを確認するのも、そう簡単ではない。

浅瀬の所では、炎天下の中、一時間ほど歩かねばならなかった。

数年前に転覆事故があったのだという。

そのため、お客さんを乗せたまま通過できないのだとか。

苦労して滝直下までアクセスしたものの、

得られた写真はガスが邪魔したものばかりであった。

残された望みは、エンジェルフォールの遊覧飛行。

晴天を祈った。

案内された飛行機は5人乗り。

チップを渡したら、パイロットは親指を立てて頷いた。

ガイドからは、必ず、事前に渡すようにと言付かった。

雲は多めだったが、滝の周辺だけ、それもその瞬間だけ、

晴れてくれれば良いのだと念じた。

願いが叶ったのか、雲の切れ間から、エンジェルフォールが顔を出した。

「ヤッホー!」とパイロットが叫んだ。

何度も何度も旋回してくれた。

コッチも、ひたすらシャッターを切った。

上手く撮れているかどうかは兎も角。押し続けた。

急上昇に急降下。

こっちがフラフラしてくる頃に、

「もう良いか?」という顔をした。

「うん。」頷くと、やおら操縦桿を切り返して、飛行場に進路をとった。

ベネズエラは、現在、経済が破綻してしまい政情は極めた不安定な状況。

いつの日か、訪問できる状況が再び戻って来てくれることを願う。

その時は、ロライマ山へは徒歩で登り、

快晴の空のもとで、エンジェルフォール直下からの写真を収めたい。

 


エベレスト~ネパール

2020-08-26 10:12:59 | 旅行

エベレストはヒマラヤ山脈にある世界最高峰の山(8848m)。

ネパールと中国との国境上に位置し、山名はインド測量局長官のジョージ・エベレストにちなむという。

また、チベット語ではチョモランマ呼び、中国ではこれを採用。

1953年ニュージーランド出身の登山家ヒラリーとシェルパのテンジンにより初登頂。

エベレストの標高は、1954年にインド測量局が測定した8848mが長年認められてきたが、

1999年全米地理学協会によりGPS測定値が8850mと発表している。

エベレストの登頂は、現在の私の状況では高嶺の花。

体力的、技術的、経済的、時間的などあらゆる理由から、実現の可能性を見いだせない。

そこで、お手軽な「遊覧飛行」でのアプローチすることとした。

成田からバンコクを経由して、ネパールの首都カトマンズに向かった。

カトマンズにあるトリブバン国際空港は、周囲を高い山に囲まれているため、

離着陸が難しい空港だと言われており、しばしば墜落事故を起こしている。

現在では、レーダー施設が整備され、安全性は高まっているものの、

離着陸の難易度が高い空港であることには変わりない。

この時ばかりは、旅行保険の契約金額を増額した。

旅行前の心配は杞憂に終わり、無事にカトマンズに到着。

着陸時に、ヒマラヤ山脈の峰々が視界に飛び込んできて、

遥か彼方ではあるが、エベレストも確認することができた。

思いの外、幸先の良いスタート。

観光ツアーは、想像以上に衝撃的だった。

独自の文化を受け継いだ寺院群が連なる町並みは新鮮で、

すれ違う人々は、日本人を見て、興味津々だ。

その後発生した大地震によって、ダルバール広場を始め、

多くの建築群が崩壊してしまったと聞く。

傷跡が早く癒えるのを願うばかりだ。

ヒマラヤ山麓の町ポカラは、ペワ湖畔の風光明媚なリゾート地。

魚の尻尾を意味するマチャプチャレの雄姿が湖面に映り、

アンナブルナ山々が遠望できる。

そこで暮らす人々の明るさは眩しいほどだ。

エベレスト遊覧飛行は、予備日を設定しなかったため、

天候が悪く飛行機が飛ばない場合は、即中止となる。

前々日のアンナプルナの遊覧飛行が中止になってしまった悪運の尾を

引きずらぬようにと願いつつ、空港に向かった。

案の定、長い時間、待合室で待たされた。

いい加減、諦めかけた頃、吉報が飛び込んできた。

「これから飛ぶ」という。

喜び勇んで、小型飛行機に乗り込んだ。

機長は、「エベレストが見えるかどうかは、行ってみないと分からない。」とも。

だが、天は味方してくれた。

エベレストの雄姿が眼前に飛び込んで来た。

「おー、これがエベレストか!」

まじかで見る本物は、やはり圧巻。

機長もご機嫌で、何度もピークの周りを旋回。

仕舞には、コックピットからも写真を撮らせてくれた。

大満足。

こうして、命がけで臨んだネパール旅行は、無事に本懐を遂げた。


玉山~台湾

2020-08-25 14:27:54 | 旅行

 

玉山(ぎょくざん)は、台湾のほぼ中央部に位置する台湾最高峰(3952m)。

日本統治時代には、富士山よりも高い山として新高山と名づけられた。

1941年日米開戦の暗号電文「ニイタカヤマノボレ・・・」に登場する。

山友に誘われて、成田から台北に向けて航空機に乗った。

実は、登山にはそれほど心が動かなかったのだが、

つい台湾新幹線に乗ってみたいとの衝動に駆られて受諾した。

玉山への登山には、定員制の山小屋の予約が必要で、

この抽籤に当たらなければ、登山ができないという。

外国人枠というのがあって、いつもはクジ運が悪いダメモトの私が、

この時だけは、不思議と登山許可を確保した。

登山口の阿里山は景勝地で宿泊施設が数多く並ぶ。

到着した時間が遅かったため、観光地の雰囲気を味わうことなくベッドに潜った。

早朝、土産物屋のような食堂で腹ごしらえをした後バスに乗り込む。

途中でバスを乗り換えて到着したところは、登山口の塔々加(タータカ)鞍部(2610m)。

大きな石碑が目印。

登山道は、よく整備されていて歩きやすく、休憩所も配置されている。

周辺はヒノキの樹林帯で、屋久島の遊歩道を歩いているような景観が続く。

タイワンヒノキは、靖国神社や橿原神宮など、日本の多くの神社仏閣で使われているという。

登山基地の排雲山荘(3402m)までは緩傾斜が続き、謂わば、登頂前日の足慣らし。

山小屋は奇麗で定員制のためユッタリしていて快適。

食事はビュッフェスタイルで、思いの外、美味しく頂く。

ピークハント登山のお約束に従い、頂上でのご来光を目指して、暗闇の中、山小屋を出発。

山頂までの標高差は450m。

2時間もあれば十分な所だが、頂上直下は、崩壊が進みつつある急斜面の岩稜帯。

風の通り道では、耐風用の退避場所まであり、用意周到。

そんな中でも、見慣れぬ案内標識は、心を和ませてくれる。

日頃の行い宜しく、珍しく、この日に限って・・・

無風・快晴・雲海の日の出。

日本で眺める太陽と同一の恒星の筈なのだが、一味違う瞬間を楽しむことができた。

そこへ団体の登山者が登ってきた。

それ程広くない頂上は、一瞬にして撮影スタジオに変化。

入れ代わり立ち代わり、ポーズを変えながら、それぞれのカメラに納まっていく。

中国大陸の観光地で、よく見かける光景が出現。

当分終わりそうもないことを確認して、下山の帰路についた。

お目当ての新幹線やはり快適であった。

日本の新幹線と変わらぬことを確かめに来たのだから、目標は簡単に達成される。

台北市内ではプチ観光。

すっかり忘れ去られた、かつての往訪の記憶が蘇る。

大人気という飲茶料理のお店に並んで昼食をとる。

最後に、お土産を豊富に扱っているファミリーマートに寄って空港に向かった。

日本とほとんど変わらぬ生活習慣に変化しつつある台湾を見つけた山旅であった。