地球の宝さがし

~ 徘徊老人のボケ防止 ~

バルドー国立博物館~チュニジア

2020-10-19 13:00:39 | 旅行

チュニジアは北アフリカに位置するマグレブ諸国のひとつ。

「チュニスを都とする国」という意味で、紀元前の古代都市トゥネスに由来するという。

国土は南北に長く、気候は北部の地中海性気候から南部の砂漠気候まで分布し、

地中海リゾート地からサハラ砂漠まで、訪れた人々は、その変化に驚ろかされる。

バルドー国立博物館は、「チュニジアのルーブル」とも呼ばれ、

ローマと初期キリスト教時代のモザイクコレクションは世界屈指とも。

博物館の建物は、オスマン帝国時代の宮殿として使われていたものだが、

外観上、華やかさがないため、館内に入った瞬間、異次元の空間に飛び込んだように錯覚する。

展示されているモザイクは、どれも遺跡に残っていたものを剥離・再生したもので、

一つ一つの空間をそこだけ切り取って来て、全く別の空間において再構成したもの。

床壁天井がすべてモザイクで覆われ、本来は、存在するべき生活に必要な家具や調度品が全くなくとも、

モザイクによって描かれた世界が、心の安らぎを誘引するに充分な空間を演出している。

ローマ時代の遺跡が地中海側に多く点在し、カルタゴ、ドゥッガ、エル・ジェム等では、

往時の繁栄を窺うことが出来る。

ローマ軍により破壊されたカルタゴは勿論のこと、石造りの建造物は立派に再生されている。

その施設が、どんな目的で、どのように利用されていたのか等々、ガイドが子細に説明する。

それにしても、なんと浴場の遺跡が多いことか。

設えてあったモザイクが博物館行きとなった場所には、展示写真が掲示されていた。

一部のモザイクは、劣化が進んでいるものの、現地に残されているものもある。

砂を被った状態では、何が描かれているのか分からないと思いつつ眺めていると、

傍らに佇んでいた男が、いきなりペットボトルの水を掛けて洗い流した。

どうやらチップが目的にようだ。

見事なモザイクを、嘗ての姿のままで見たいと願う一方で、

大切な文化財の保護の観点からは致し方ないと思うばかりである。

2015年武装集団が博物館を襲撃し、日本人、イタリア人など多数の観光客が死亡、負傷した。

この事件は、当時の国際情勢を象徴していたかのよう。

アラブの春の発端となったチュニジアのジャスミン革命(2012年)以降、反政府デモがアラブ世界に広がりを見せ、イスラム過激派の台頭を誘発。

独裁政権が倒れる一方で、周辺地域の不安定化が増幅され、戦禍による難民の発生と国際社会の分断が進み、ISの活動が低下した現在でも、その傾向に歯止めは掛かっていない。

南部の砂漠地帯も見どころ沢山。

リン鉱石の鉱山を結ぶ観光鉄道を始め、映画の撮影ロケスポットもなかなか。

トズールなど、オアシスの町では、独自の雰囲気を漂わせるメディナ(旧市街)が魅力的。

北アフリカ最大の塩湖ショットエルジェリドの広大な広がりは圧巻。

遥か地平線まで延々と続く道路は見逃せない。

ラクダの群れにも、しばしばお目に掛かれる。

一番大きくて、雄叫びを上げているのはオスで、残りは全部メスなのだと言う。

ラクダ社会の生存競争も厳しいようだ。

「ラクダ注意」の道路標識も写真ターゲット。

お土産屋さんでは、ラクダの頭蓋骨を売っていた。

空港で、没収されること間違いなさそうである。

メディナの肉屋さんは衝撃的。

その日に販売している動物の頭が、店頭にぶら下がっている。

牛、羊、そしてラクダ。

お客さんは、その顔つきを見て、お肉を買うのだという。

ラクダの肉は、2~3歳の若いモノでないと固くて食べられないとか。

もちろん冷蔵庫などないので、朝さばいて、その日の内に売るのだから新鮮そのものだ。

ただ、内臓は足が速いのでヤバイかも。

地中海沿岸の町シディ・ブ・サイドは、風光明媚で温暖な観光地。

町中は青色に染まり、リゾート気分を倍加させてくれる。

法律で、青色に塗装することが義務付けられているという。

入口の扉には、もちろんファティマの手が。

ファティマは、イスラム教の預言者モハメッドの娘で、

その手を象ったものは、厄除け、お守りになるとか。

イタリアの女子高生の修学旅行にお目に掛かった。

大賑わいで街を練り歩いているので、声を掛けると、そう教えてくれた。

ここは、地中海を隔ててはいるが、気軽な旅行先なのだろう。

ローマ~チュニスは600km。

東京~神戸と同じくらいの距離であるから、チョットした国内旅行の延長なのだろうか。

直ぐ傍に、いつでも行ける異なる文化圏があることは、すこぶる魅力的に感じる。


プリトヴィツェ湖沼群とドブロヴニク~クロアチア

2020-10-13 14:29:06 | 旅行

クロアチアは、かつてヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島の北西部に位置する共和制国家。

海岸線沿いに標高1500~2000mの山脈が走り、内陸部には肥沃な農地が広がる一方、沿岸部では漁業が盛ん。

風光明媚なアドリア海沿岸では、中世より海洋貿易の要衝として栄えた都市がいくつも点在し、400年以上前の町並みを残す。

1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争で、傷跡は市街の建物のみならず人々の心にも深く刻まれたが、現在では完全に復興し、かつての活気を取り戻している。

プリトヴィツェ国立公園は、エメラルドグリーンの幻想的なカルスト地形の湖沼群。

16の湖と92の滝で構成され8kmにわたる流れを形成している。

水の色は青、緑、灰などが合わさり、その色合いには目を見張るばかり。

湖沼に含まれる成分や日照の角度などによって刻々と変化する。

周辺には、宿泊施設とともに探勝路が整備されており、リゾート地を形成している。

その中でも環境に配慮した取組みが行われているという。

域内の移動はディーゼルエンジンの専用トラムのみ。

炭酸ガスの排出量を抑えているようだ。

トレッキングには丸一日掛かる。

好天に恵まれることを祈るばかりだ。

午前中に下段の沼を巡り、午後からは上段の沼を巡るという。

ガイドに聞くと、太陽に角度によって光の差し込み方が異なるため、その順番の方が美しいのだとか。

結果は、正解であったのか分からぬが、私の安物カメラでも、それなりの写真が撮れたので「ヨシ」としなければならない。

クロアチア観光では、アドリア海沿岸の小さな城塞都市も見逃せない。

サダル、シーベニック、トロギル、スプリット。

いずれの町も見事な城壁に囲まれ、今も脈々と歴史を重ねる石造りの教会や時計台が息づいている。

町中を覆う石畳は、過ぎ去った年月を語っているようだ。

行きかう人々は、地中海の食と光の恵みを受けて、驚くほど明るく、気軽に話しかけてくる。

ドブロヴニクは、「アドリア海の真珠」とも呼ばれる観光地で、地中海各都市とフェリーで結ばれ多くの人が訪れる。

この町は歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、15~16世紀にかけて発展。

1991年の紛争で、この町も砲撃による多大な損害を受けた。

ドブロヴニクは、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内に位置するクロアチア本国の飛び地。

陸路で、ドブロヴニクに行くためには、他国領地を通過することになる。

ここには、大きなスーパーマーケットがある。

多くの人達はここで生活用品の買出しを行う。

クロアチアは物価が高い一方、ボスニア・ヘルツェゴビナの付加価値税の税率が低いのだという。

ガイドからは、日本へのお土産は、ここで買うようにとのお達しがあった。

カフェでの食事は格別。

豊富な魚介類とワインがテーブルの上に所狭しとばかりに並ぶ。

大きなバケツに入ったムール貝は人々を寡黙にさせるが、

食べ終わってしまえば、再び、歓談の時間と空間が続く。

小さな船で近くの島に渡れば、簡単に海辺のリゾートが手に入る。

入り江の岩の上から、何度も何度も海に飛び込む子供たちがいる。

海岸で泳ぐ人は殆ど見かけることはないが、岩場ではタオルを敷いて日光浴を楽しむ人で溢れる。

どうやら、欧米人と日本人との時間の利用の仕方が根本的に異なっているようだ。

我々が、何もしない時間を楽しむバカンスを手に入れるまでには、まだまだ時間が掛かりそうだ。


ワットシェントーン~ラオス

2020-10-12 16:02:33 | 旅行

ワット・シエントーンは、ラオス北部の古都ルアンパバーンにある仏教寺院。

1560年にラーンサーン王朝のセタティラート王によって建立された。

メコン川沿いに建ち、ラオスの寺院でも最も美しいといわれる。

湾曲した幾層にも重なる屋根が特徴で、優雅で大胆な形状は印象深い。

ラオスは、東南アジアに位置する社会主義共和制国家。

ラオ族の国を意味する。

主要産業は農業。

人口の約8割が農業に従事し国内総生産の4割占める。

ラオスは海に接していない内陸国だが、メコン川が国土を貫いている。

メコン川は、東南アジアで最長の国際河川。

チベット高原を源流に、中国の雲南省、ミャンマーやタイとの国境を流れ、カンボジア、ベトナムを経由して南シナ海に注ぐ。

タイとの国境線の3分の2はメコン川で、ラオスはタイバーツ経済圏でもある。

訪ねたのは2009年。

バンコクで飛行機を乗り継いで、首都ビェンチャンに到着したのは夜になってから。

翌日は、寺院、仏塔、市場を見て歩き、初めてのラオス料理を食す。

町は活気があり、どこに行っても人が多い。

注意が必要なのは、お釣りでもらったお札。

破れたものを受け取ってしまうと、次に使用すると突き返されてしまう。

聞くと、破れた紙幣は銀行で受付けないのだという。

そこで観光客にババ抜きのババが回ってくる仕組み。

何とかしてもらいたいものだが、紙幣はどれもボロばかり。

ラオス通貨キープはあまり人気がないのかも知れない。

食事をして、まず印象に残るのは、駕籠に入った餅米の御飯。

実に美味しい。

冷めても全く問題はない。

ラオス料理は、基本的には香辛料が効いている料理なので、

おかずを少しずつ摘まみながらも、結局、御飯ばかり食べていたような気がする。

古都ルアンパバーンへは、再び飛行機での移動となる。

ルアンパバーンのお目当ては「托鉢」。

未明の早朝に、ワット・シエントーンを出発した僧侶の列が、町中を巡って再び寺院に戻るルートの道端には、多くの人々で溢れている。

町中の人々は勿論だが、タイから態々このためだけにやってくる人も多いという。

ここで功徳を積んで、無事に成仏できるようにという次第。

ラオスの人々は、決して豊かではない。

ただ、農業国家であるため、食べるだけなら何とかなるのだという。

もし、家が貧しくて食べるものがなければ、お寺に行けば食事は勿論のこと勉強も教えてくれる。

托鉢で得られた食べ物等々は、寺に戻ってから皆で分け合う。

ひとつの社会システムとして機能しているように思う。

メコン川沿いの漁村に行くと、ラオ・ラオを作っていた。

ラオ・ラは、ラオスの蒸留酒で、もち米が原料。

アルコール度数は、50%前後あり、飲むと喉がヒリヒリする。

通常は炭酸などで割って飲むようだ。

子供が、鶏の足を七輪で焼いていた。

おやつ代わりにするようだ。

それにしてもラオスの仏像は、目が寄ったものが多い。

愛嬌がある顔立ちで、親しみが湧きやすいが、

お祈りする時には、願い事が叶うかどうか怪しい。

また、手の仕草も少し違うようだ。

仏像に込める思いは万国共通だが、そのしきたりは少しずつ異なるのは興味深い。


タクツァン僧院~ブータン

2020-10-12 10:06:46 | 旅行

タクツァン僧院は、ブータン西部の標高約3120mの垂直に切り立った岩壁にある寺院で、チベット仏教の聖地。

僧院は1692年に建築が開始され、1694年に建立された。

タクツァンは「雌トラの隠れ家」を意味し、

パドマサンバヴァがトラの背に乗り、この地に降り立ったという。

1998年本殿にて火災が発生し、貴重な絵画や遺物、彫像が消失したが、

ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王の下で、現在は再建されている。

ブータンは、南アジアに位置し、仏教を国教とする立憲君主制国家。

長年鎖国政策をとっていたが、1971年に国連加盟。

国民総幸福量(GNH)という功利主義を採用している。

国名は、サンスクリット語で「高地」を意味する言葉の由来とか。

ブータンでは雷龍(Druk)の国と称され、国旗にその姿が描かれている。

訪ねたのは、2010年。

ちょうどワンチュク国王夫妻が来日する前年。

観光客の受入れには消極的なため、十分な体制が整っておらず、宿泊施設も脆弱。

自由旅行は困難で、旅行計画とともに宿泊ガイド料込みのお金を国に払う仕組み。

他のアジア諸国の旅行に比べかなり割高だったと記憶する。

バンコクで航空機をブータン国営航空会社ドゥルクエアーに乗り換えてパロ空港へ。

当時は、ニューデリーかバンコクまで行き、国営航空会社を利用するしか方法がなかった。

ドゥルクエアーの機体には、国旗と同じ雷龍の姿が。

パロ空港は、ブータン王国の首都ティンプーの西方の町パロにある空港。

標高約2300mにあるブータン唯一の国際空港。

この空港は高い山々に囲まれており、有視界飛行での離着陸は、

高度な技術が要求されるという。

無事にパロ空港に到着し、首都ティンプーへ小型バスで向かう。

舗装道路であったが、しっかり整備された道路は、旅行期間中ここだけであったと記憶する。

山に囲まれているのだが、どれもハゲ山ばかり。

かつては緑に覆われていたのだが、燃料や建材として伐採してしまったと、

現地のガイドが説明してくれた。

ティンプーのメイン通りの交差点には、この国唯一の信号機がある。

車は、それ程多くはなく、無くてもよさそうな感じではあるが、

交差点中央には警官が立ち、手信号で交通整理をしていたのが印象的であった。

タクツァン僧院への道のりは容易ではない。

入り口で、枝を鉈で切っただけの杖を売っている。

1本1ドル。

現地の通貨レートを考えるとかなり割高だが、

お賽銭の気持ちも込めて、何もないよりは良いとばかりに買う人も。

一頻り登ると、大きな魔荷車がある展望台に到着する。

ここから遥か彼方にタクツァン僧院が遠望できるが、先の長さを確認する。

ここから、いよいよ険しくなる。

崖地の細い道は、修行僧にとっては何でもないが、

奇麗なパンフレットに誘惑されてやってきた観光客にしてみれば、

いささか手厳しい仕打ちとなる。

そして本殿の直下には急勾配の石段が続く。

ふらふらになりながら上り詰め、漸く建物に入ると、

いよいよ石段の段差は半端ではなくなる。

それを乗り越えると、漸く石窟に辿り着く。

そこでは僧侶が参拝者ひとりひとりに対して念じてくれる。

重々しい雰囲気が漂い、願い事が叶いそうな気持になった。

ただ、何をお願いしたかを忘れてしまったのが悔やまれる。

ブータンの東部へ旅すると、素朴な人々の素顔を垣間見ることが出来る。

東に向かう道路はデコボコ道。

道は狭く、多くの場所は片側に川が流れていて、中には断崖絶壁の所もある。

ただ、すれ違う車には滅多に会わないので問題ない。

人々の移動手段は、基本的には徒歩である。

何日も歩いても平気なのだという。

村が近づくと、多くの子供たちが歩いている。

下校時間なのだろうか。

男の子が来ているのは「ゴ」。

女の子が来ているのは「キラ」。

ブータンの民族衣装で、国民はこれを着ることが推奨されている。

まれに荷物を抱えた人たちが道端に立っている。

定期のバス便があるわけではないので、滅多に通らない車を捕まえて、ヒッチハイクをするようだ。

幹線道路は東西を走る一本しかないのだから、方向さえ間違えなければ問題ない。

田舎に住んでいる人達は、首都ティンプーに行ったことは殆どいないという。

行く必要もないし、行った所で何があるわけでもないのだろう。

主要な町には「ゾン」と呼ばれる建物がある。

言葉の意味は「城塞」であるが、行政施設であるとともに宗教施設でもある。

建築様式はチベット文化圏独自のもので、白壁と木材の組合せが、何とも言えぬ風格を醸し出している。

建物の中では、僧侶たちが忙しそうに行き来をしている。

写真にも気軽に応じてくれた。

パロゾンのジャカランダは見事に咲き誇っていた。

寒暖差の激しいこの地でも、川の中州が幾分かの貢献をしているのだろうか。

亜熱帯地域に多く分布する植物が、ゾンを取り囲むように枝を伸ばしていた。

ホテルの食堂でコーヒーを飲んでいると、

ガイドがやって来て、ウィスキーのボトルを差し出した。

国産の最高級のお酒だという。

飲んでみると、思いの外、口当たりが良い。

ブータン事情等、話が弾んだこともあり、気が付けば空瓶だけが残っていた。

案の定、支払いは固辞されてしまった。

数日後の帰国の前日に、首都ティンプーで酒屋を探した。

大きな町ではないので直ぐに分かった。

店に入るなり、店主が奨めたお酒のラベルを見ると、記憶にあるものと一致した。

17ドルだという。

恐らくブータンの人々にとっては、高額な贅沢品に違いない。

急いでホテルに戻り、ツアーのお礼にとガイドにプレゼントした。

その時に飛び出した、驚きと嬉しさがゴチャ混ぜとなったガイドの顔は、今でも忘れられない。

金銭的には決して豊かとは言えないが、心の豊かさは存分に育まれているようだ。

国民の幸福を願うワンチュク国王の願いが伝わってくる思いがした。


サマルカンド~ウズベキスタン

2020-10-05 13:11:57 | 旅行

サマルカンドは、ソグド人の商業活動の中心地として栄えた中央アジアに位置するシルクロードのオアシス都市。

サマルとは「ひとびとが出会う」、カンドは「町」を意味するという。

紀元前329年、アレキサンダー大王がこの地に至ったことで知られている。

1220年にチンギスハンにより破壊されたが、1370年にはティムールにより再興。

帝国の都としてモスクやマドラサ(神学校)が多く建設された。

19世紀にはいるとロシアの支配下となりロシア文化の影響を受けたが、

1991年にソ連邦が解体してウズベキスタンが独立。

現在は、首都タシケントに次ぐ文化都市。

サマルカンドは、「青の都」。

建物を飾る「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる鮮やかな青色のタイルは、

中国の陶磁器とペルシアの顔料により生まれたといわれ、

まさに文化交差路に相応しい色が街を包んでいる。

レギスタン広場は、サマルカンドの中心地に位置する象徴的な観光スポット。

ウルグベク、シェルドル、ティリャーコリーの三つマドラサ(神学校)に囲まれ、

魅力的な青色の輝きを放ち、見るものを虜にする。

ウズベキスタンの観光パンフレットの写真として必ず登場する。

レギスタンは「砂の場所」を意味し、交易路の中心地として大いに賑わった。

マドラサは、ティムール朝(1370~1507年)以降の15~17世紀に建設されたもの。

その後、首都のブハラ移転、マドラサの活動の禁止や自然災害により一時荒廃が進んだが、

ロシア支配下時代に修復作業が行われ、今日の姿を見せることとなった。

現在ではコンサートや祝賀会等の様々なイベントが開催される。

美しい建築群は、サマルカンドに溢れている。

ティムールの墓であるグリアミール廟。

ティムールの妻の名前がつけられたビビハニムモスク。

そして、預言者ムハンマドの従妹クサムイブンアッバース埋葬された場所というシャーヒジンダ廟群。

また、サマルカンド北西に位置する聖都ヒワのカルタミナルも格別。

この尖塔は、ハン(君主)の死により建設が中断したもの。

ウズベキスタンの人々は親日的。

街を歩くと必ず声を掛けられる。

一緒に写真を撮ろうと集まってくる。

撮った写真は、学校の友達に見せるのだという。

「日本人に会ったよ~!」と自慢するのかも。

第二次世界大戦では、直接戦火を交えていないことが大きく影響しているのかも知れない。

彼らの日本人観は、シベリア抑留でやって来た規律正しい労働者としての顔。

タシケントにあるアボイ劇場には、建設の経緯がプレートに刻まれて掲示されている。

大地震(1966年)で多くの建物が倒壊する中で、この劇場は無傷で避難場所として機能したという。

日本人墓地は、地域の人々の奉仕により奇麗に整備されている話は有名。

ウズベキスタンには、ドイツ人や朝鮮人が今も暮らしており、

不幸な歴史の名残を感じざるを得ない。

至る所で民族衣装を着た人々を見かける。

各地域で少しずつ柄が違うのだという。

いずれも奇麗で華やかだ。

明るくにこやかに写真にも応じてくれる。

お洒落して出掛けることが習慣になっているようだ。

食べ物は、日本人の口に良く合う。

プロフは人参や玉ねぎが入った焼き飯(炊込み御飯?!)。

ナンには甘みがあって幾らでも食べられる。

多くの家では庭に竈があり、生地の表面にマークを付けて焼く。

各家庭でマークが違うらしく、いろいろな型が街で売られていた。

まるで、ハンコのようだ。

ウズベキスタンのお土産には困らない。

まずは、ウズベク人形。

お店によって、いろいろなものがある。

ひとつひとつホントの手作り。

これはと思ったら、その場で購入しないと、後からでは手に入らない。

そして、スザニ。

刺繍をほどこされた装飾用の布地。

用途はクッションカバーやエコバッグなどなど。

陶器皿は、絵柄が奇麗で色が鮮やかなうえ、手が掛けられていることが良く分かる。

そして、何といってもお手頃価格。

ウズベキスタンは、私が再訪したい国のNo.1。

そして、その時には、買いそびれたウズベク人形を是非探し当てたい。