けいた と おちぇの親方日記

わんこと暮らす、のんびり日記

新聞小説「禁断のスカルペル」(久間十義著)

2015-06-09 18:00:00 | 新聞記事・コラム
14年7月から日経朝刊で連載された、
久間十義さんの小説「禁断のスカルペル」が先月末で終わった。
全部で319回であった。挿絵は板垣しゅんさん。

スカルペルとは英語で医療用のメスを指すそうである。

幼い頃に父を亡くしたと母から聞かされていた主人公・柿沼東子は、
都内の有朋堂総合病院・泌尿器科に勤務する女性医師。



拓馬と結婚して絵里香という一女をもうけていたが、
東子のオーベン(指導医)でもあった川渕充彦との不倫関係に。
そのことが明るみになってしまい、
調停のうえで離婚、以後絵里香と一切会うことを禁じられる。



東子は川渕とも別れ、東北の陸前会伊達湊病院へ流れていく。
そこで内海純子という、美しい女子高生に出会い、彼女は救われる。



純子と会った教会には、
娘の名前と同じエリカ(ヒース)が咲き乱れていた。



そして、また陸前会では、伊集院という天才的な医師に出会い、
病気腎臓移植のスペシャリストになっていく。

しかし、移植学会に病気腎移植を問題視され、
保険省(本当は厚生労働省)も敵に回して争うことになる。

学会を率いる、その分野の権威、東京の医大教授は大倉東夫。
おそらく東子の父親。
そして、保険省から派遣された調査官は、かつての恋人・川渕。

その後、東日本大震災が発生。



東子たちの人生も大きく動くことに。



ここから先は書籍化されたあとのお楽しみということで。

途中までは、日経新聞小説にある不倫ものかと思った。
(渡辺淳一さんの「失楽園」「愛の流刑地」など)

しかし、舞台を東北に移してから病気腎移植がメインとなり、
社会的な話へと移っていった。
宇和島徳洲会病院での臓器売買事件で明るみ出た病気腎の移植が
 題材となったようだ)

そして、最後は、「生きるということの意味」を問うものに。
前半で読むのを止めてしまった読者もいたかと思うが、
中盤以降は良かった。文庫にでもなったら、また読もうかと思う。

特に良かったと感じたのは、第314話「翻身(5)」、
娘の純子から腎移植を受けた内海が絵里香に話す場面。

「純子が亡くなって、私は気がついたのです。

 私は一人で生きているつもりになっていたし、
 何事にもまず自分というものがある、と思いこんでいた。
 でもね、そうじゃなかった。今度の震災でよくわかったんです。
 私はね、私一人じゃなく、例えば死んだ娘や、家族や、
 知り合いや、仲間や、その他の者たちとの記憶を共有していて、
 その記憶がなかったら、私は私じゃないんだ。

 私は震災を生き残った者として、
 死んだ純子や他の多くの者たちの記憶を整理して、
 自分の心の中にあの者たちが住まう場所を作らなきゃいけない。
 そういう心の手続きをとらなきゃ、私は生きていけない。
 何というか、
 そういう意味で私というのは彼らの記憶そのものなんですよ。
 
 だから純子は私が思い出すかぎり、私と一緒にいるんです。
 あの子がくれた腎臓は、それを思い出すための縁(よすが)なのです。
 いいですか? 偉そうなことを言うようだが、
 私たちの人生に意味があるかどうかなんて、実はわからないんだ。
 生命に意味があるのかどうかも、わからない。
 
 だけど、絵里香ちゃん、ふと周りを見渡せば、私たちが死んだら、
 悲しむ者が確実にいるんです。純子が死んで分かったんです。
 なぜ娘の代わりに自分が死ななかったか。
 私の死を必死で食い止めようとする者たちを、悲しませないためにも、
 私は生きなきゃならない。罪だとか負債だとか言ってられない」

そして、最終話で絵里香が東子に話す場面。

「内海先生は、『私は一人じゃない』って仰っていましたよね。
 亡くなった娘さんや、その他多くの人との記憶を共有していて、
 その記憶がなかったら、内海先生は内海先生じゃないって。
 『私というのは彼らの記憶そのものなんですよ』って・・・。」

今、ここにいる自分というのは、
それもまで関わり合ってきた方々の『記憶そのもの』なのだ。

良い言葉である。
これからの人生も一日一日を大切にしていきたい。



コメント
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