歐亞茶房(ユーラシアのチャイハナ) <ЕВРАЗИЙСКАЯ ЧАЙХАНА> 

「チャイハナ」=中央ユーラシアの町や村の情報交換の場でもある茶店。それらの地域を含む旧ソ連圏各地の掲示板を翻訳。

“アタテュルク銅像事件”はトルコに反日感情をもたらしたのか?(8)

2009-06-04 02:35:40 | アタテュルク像問題

→(7)からの続き

解放戦争の勝利と共和国の成立後、トルコでアタテュルクが主導して行った革命というのは、一言で言えばトルコの非イスラーム化であり“脱回入欧”でした。トルコ語で“世俗主義”を意味する“ライクリック”はフランス語“ライシテ(宗教からの独立)”から借用したと言われますが、当初はアラビア語による造語“ラー(非)・ディーン(宗教)”という、もっとミもフタもない言葉が使われる予定だったとか。

その当時、オスマン帝国の旧領であったアラブ地域はことごとく列強の植民地もしくは半植民地となっていました。イスラーム圏の他の地域も同様。解放戦争に勝利してギリシアやアルメニアの干渉軍を駆逐したことで、どうにか小アジアは確保しているとはいえ、いつまた列強の侵略を受けるか分からない状況です。

↓“解放戦争”前のトルコの状況 出典:www.geocities.jp/.../<WBR>522Doubayazit/P01.htm


徹底した合理主義者にして、また現実主義者でもあったアタテュルクにとってみれば、“イスラームへの固執=アラブ世界その他との共倒れ”としか考えられなかったに違いない。この辺りは、幕末この方、似たような歴史を辿ってきた日本人には理解しやすいでしょう。

1920年代、日本は非欧米世界で自力で近代化に成功した唯一の国であり、アタテュルクが日本の例“も”参考にしたというのは確かに事実です。でも、新生トルコが具体的に国造りの手本としたのは、フランスの共和制でした。今の“政教分離”も、元ネタはそちらから来ています。

ただ、フランスだとカトリックの教会組織が目に見える形で存在し、政治と宗教をどこで分けるかある程度明白なのに対し、イスラームの場合は社会における政教の境は極めてあやふやです。 そのために、トルコでの“政教分離”では単に国家機関のみならず、社会のあらゆる公的な場面からのイスラームの追放をもたらしたのでした。

それに加えて、“宗務庁”を通して国家が宗教を管理する制度も整えられます。彼の国で見かけるムッラー(導師)たちって、実は“国家公務員”なのですよ。だから、厳密に言えば(というか、言わなくても)、今のトルコでは政教は“分離”していないということになります。

とはいえ、当時の(というか、今も)国民の大部分は敬虔なムスリムです。いかに解放戦争の英雄であるとはいえ、そのような改革をいざ実行するとなれば、一斉に反発を受けるのは必至。そうした反抗を防ぐと同時に、彼らのムスリムとしてのアイデンティティを相対化するために社会ぐるみで編み出された壮大な“ネタ”というかイデオロギーが、“トルコ民族主義”でした。

民族としての“トルコ人意識”は既にオスマン朝時代の末期には知識人の間に流布していたわけですが、これを政策として小アジアの一般人の間に普及させようとしたのは、やはりアタテュルクが権力を掌握してからの話だと思います。

現在のトルコのある小アジアは、歴史上様々な民族が住んできた地域ですが、トルコ共和国の成立当時、最も多かったのがトルコ語を話すムスリムたちでした。血統から言えば、彼らは1000年ほど前に中央アジアから移住したテュルク系の遊牧民に、長い時間をかけて言語的に同化していった先住民ギリシア、アルメニア、アルバニア、クルド、アラブ、イラン、スラヴ、カフカス、その他の諸民族)だと言われます。

彼らを“国民”として一まとめにする紐帯に“宗教”が使えない以上、もう一つの共通の要素である言語に着目するしかない。というわけで、とりあえずトルコ語を話す人々は誰でも、中央アジア出身の共通の祖先を持つ“トルコ民族”ということになったのでした。

しかし、その“トルコ民族”はイスラームを凌駕するほど凄いものでなければなりませんでした。じゃないと、誰もムスリムを辞めてまでトルコ民族になろうなんて思わない。

そこで、トルコ民族の偉大さを証明するための歴史の編纂が行われ、突厥やンゴル帝国(当時のトルコでは、モンゴル人もトルコ人に認定されていた)の存在など、イスラーム化以前のトルコ民族の業績が、西欧での東洋学の成果を利用して“発見”されました。 また、セルジューク朝やオスマン帝国などは、巧みにイスラーム的な要素は抜いて、“トルコ民族の国家”であるとされたのでした。今の中国で、清朝があたかも“漢民族の国家”であったかのように教えられているのと似ています

というか、当時の歴史の教科書の記述を読んでいると、ほとんど全人類の文明の源はトルコ民族であるかのような勢いであり、某国の”ウリナラ史観”が子供だましに思えるほどですね。最近のはまあ、大分まともなんですが。

つまり、歴史上そういった大帝国をいくつも建設してきたトルコ民族は元来優秀な民族なのであり、その活力を奪い、停滞をもたらしたのはまさにイスラームという宗教に他ならないゆえに、共和国政府の進める“脱回入欧”政策は、それ自体が本来の民族性に立ち返るものなのだ!みたいな国家にとって都合のよい歴史観が、義務教育に普及によってどんどん刷り込まれていったわけです。

あと歴史と同じく、新たに共和国の公用語となった現代トルコ語も、まず文字がアラビア文字からラテン文字に置き換えられ(アラビア文字は確かに母音の多いトルコ語には不向きですが、現代ウイグル語のそれのように、表記法を改良すれば使えないこともない)、さらに“純化”と称してアラビア語やペルシア語由来の言葉は削られ、どんどんトルコ語固有の語彙やそれらを組み合わせて作られた新語、もしくは西欧語からの借用語に置き換えられていきました。その作業は今なお日々続けられていますが、これも最大の目的はイスラームの影響力を低下させることにあったわけです。

でもですね、そういうイデオロギーを理解するにしても、ある程度は教養の下地が必要です。共和国が成立した頃のトルコの文盲率は9割以上と言われており、国家による義務教育は存在しませんでした。そうしたものが普及し、各々の人間が自発的に国民意識を持つまでには大変な時間がかかる。急には定着しません。その間に列強に攻め込まれたり、またイスラーム主義者が蜂起して共和国を転覆させでもしたら元も子もない

ということで、政府が取った苦肉の策が、トルコ民族主義の具現化した存在としてのアタテュルクの神格化でありその肖像を“イコン”として利用することでした。 至る所に銅像とか胸像が建てられ“これは有難いわれわれの指導者なのだ。理屈はいいから、とにかく無条件に敬いなさい!それと、政府のやることはこの人の命令なのだから、何でも従いなさい!”というわけです。

先に挙げた写真のように、その崇拝の仕方が宗教じみているのは、競争相手がイスラームという非常に強固な体系を持った一神教である以上は、当然のことなのでしょう。

この辺りは、明治期の廃仏毀釈とか、国家神道と天皇が日本の国民統合に果たした役割によく似ているかもしれないのですが、神道とか天皇自体は少なくとも日本土着のリソースであるのに対し、神格化されたアタテュルクの方は革命や解放戦争での活躍に権威が由来していますから、その性格はやはりレーニンや毛沢東の場合に近いのかもしれない。

ちなみに、アタテュルク当人は生前、自らの銅像があちこちに建てられるのをあまり好んでいなかったという話ですが、仕方がなかったのでしょうね。

そうやって、義務教育が整備されるにつれて、国民の間にトルコ民族主義とアタテュルク崇拝は広まっていくのですけど、どうしてもそこから零れ落ちる人々がでてきます。

一方は、社会からのイスラーム排除に納得できない人たち。オスマン帝国の時代には、開明的な知識人らによって、西欧文明とイスラームの融合は長らく模索されてきました。世界の趨勢上、近代化=西欧化は不可避とはいっても、イスラームか欧化か?の二者択一しかないのか?と、アタテュルクの単純欧化主義に反発した人たちもいたわけです。

また、“解放戦争”に参加した一般人も同じく不満を持つ人々がありました。共和国の正史では、“解放戦争の参加者は、戦っている内にどんどんトルコ民族としての自覚が目覚めていった”みたいな話になっているのですが、そういうのは後付けの説明であって、実際には彼らの大半は“異教徒の列強やギリシャ人からムスリムの生活空間を守る”ために戦っていたといいます。現に、当時のトルコ国民軍の側も、なるだけ多くの住民を動員するために、“ムスリムの地を守れ!”といった宗教っぽいレトリックは頻繁に使っていましたし。“せっかく異教徒を追い出すため戦ったのに、何で自ら異教徒みたいにならんといかんのだ”という感じだったようです。

もう一方は、もともとトルコ語を母語としないクルド人現在総人口の3割近くを占めると言われます)などの少数民族です。彼らも解放戦争では基本的に“信仰を守るために”トルコ国民軍と協力して戦ったはずなのに、後には国家の側から“世俗化”+“民族的なトルコ化”という二重の圧迫を受けることになりました。

こうした人々は、共和国の初期に反乱や政治運動を起こしたりしましたが、いずれも武力により鎮圧されてしまいます。

しかし、社会の底流に流れる怨念は解消されることなく、クルド人のそれは民族主義や共産主義と結びついてPKK(クルド労働者党)の独立運動となっていきます。その中で、トルコ民族主義と共和国の象徴であるアタテュルク像は、しばしばその攻撃の対象となりました。

PKKのゲリラが各地でアタテュルク像を破壊している話は、以前に訳した新聞記事に出ていたとおりですが、世俗主義に不満を持つ人々もしばしば今時の過激なイスラーム主義に影響されて暴発、アタテュルク像にちょっかいを出しているようです。

大手の新聞ミリエット紙のサイトに、こんな↓記事がありました。
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「シャリーア主義者による学校への破壊行為」 ミリエット紙 2006年1月6日
原題:Okullara şeriatçı saldırı
http://www.milliyet.com.tr/2006/01/06/son/sontur05.html

※シャリーア=イスラーム聖法の総称

イズミル(トルコ西部の大都市)のブジャ郡にある3つの学校で、壁にシャリーア主義的なスローガンが書きなぐられ、アタテュルクの胸像にペンキがかけられているのが見つかった。

“我々はシャリーアを求む。これは我らが権利である”

“滅びよ、共和国!シャリーア万歳!”

“世俗主義に死を!”

“自分がムスリムだと言えるのは、何と幸福であることか!”←アタテュルクの言葉である“自分がトルコ人だと言えるのは、何と幸福なことだろうか!”を皮肉っている

などといったスローガンには学校の管理者により上からペンキが塗られ、消す努力がなされたのだった。

ギョクス街区、ハトボユ大通りにあるシェリフ=ティクヴェシュリ小学校とその近くにあるイルファン=ナーディル小学校、それにアフメット=ヤサヴィー高校におけるシャリーア主義者の破壊行為は、朝方に明らかとなった。

早朝、学食を開けるためにイルファン=ナーディル小学校にやってきたネジャティ=スルラルは、建物の壁に“我々はシャリーアを求む。これは我らが権利である”なる文言が書かれているのを見つけ、学校の管理者に報告。学校からの通報を受けて捜査に乗り出した警察は、シェリフ=ティクヴェシュリ小学校とアフメット=ヤサヴィー高校からも同じような通報を受けたのだった。

”スローガンは同一人物によって書かれた模様”

対テロ局、公安局、そしてブジャ郡警察の捜査官らは、3つの学校とその周辺で捜査活動を開始。赤と緑のペンキが用いられた破壊行為では、正体不明の何者かによってイルファン=ナーディル小学校にあったアタテュルクの胸像に赤いペンキがかけられ台座にあった“トルコ人よ!学び、努力し、そして信じよ!”いう言葉の上にもペンキがかかっていた。学食の壁には“我々はシャリーアを求む。これは我らが権利である”、集中暖房管理室の壁には“世俗主義に死を!”、校庭にある泉には“滅びよ、共和国!シャリーア万歳!”と書かれていたことが明らかになっている。

↓写真:”滅びよ、共和国!”、”シャリーア万歳!”


狼藉者たちは、同様に近くのシェリフ=ティクヴェシュリ小学校の入口のところにあったアタテュルクの胸像と“自分がトルコ人だと言えるのは、なんと幸福なことだろうか!”と書かれた大理石の石盤をペンキで汚してから、“自分がムスリムだと言えるのは、なんと幸福なことだろうか!と書き足した。彼らの最後の標的は693/6通りにあるアフメット=ヤサヴィー高校だった。ここでもまた、アタテュルクの胸像と碑文の上に赤いペンキが塗れらたのだ。

↓アタテュルクの胸像と”ムスリムだと言えるのはなんと幸福なことだろうか!”


これらの学校で指紋や証拠品を調査した警察は、落書きが同一人物によって書かれたことを明らかにした。警察の捜査官による調査の後、3つの学校のアタテュルクの胸像は清掃され、壁に書かれた落書きは上からペンキで塗りつぶされた。警察は、一連の事件の犯人を明らかにし、逮捕するために捜査を続けるとしている。 
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ひでえ.......

→(9)につづく