さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(22)スンニ派とシーア派

2021-06-04 | ユダヤ人の旅

ウマル時代のイスラム共同体

ムハンマドの死後、イスラムの国は急拡大していくが、カリフ(預言者の代理人)を巡っての対立が直ぐに始まり、その対立は今日に至るまで続いている。632年、ムハンマドが62歳で亡くなった時、後継者であるムハンマドの従弟であるアリーは32歳と若かった。そこで、イスラム共同体(ウンマ)は有力者でムハンマドの親友であるアブー・バクルを初代カリフに選出した。アブー・バクルはアラビア半島を統一し、発展の基礎を築いたが2年後に死んだ。(ムハンマドはアブー・バクルの娘アーイシャを3番目の妻にしている。)

2代目のカリフになったのが有力者ウマルだった。始めはイスラム教を迫害したが、改宗後はムハンマドの信頼を得て、イスラム発展に貢献した。政治力もあり、軍才にすぐれ、10年のカリフ期間内にビザンツ帝国からシリアとエジプトを奪い、ササン朝ペルシャを滅ぼし、中東一帯を支配下に収めた。キリスト教徒とユダヤ教徒からは税金を払えば改宗を強制しないこと。エルサレムにおいてはイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3宗教は共存することを定めた。644年にイラン人奴隷により暗殺される。(ムハンマドはウマルの娘を4番目の妻にしている。)

 

第3番目のカリフはムハンマドの娘婿であったウスマーンである。ムハンマドが目をかけていた初期からの信者で裕福な商人だった。(ムハンマドはウスマーンに嫁がせた娘ルカイヤが男子アブドゥッラーを残し病死すると妹のウンムを嫁がせたが、アブドゥッラーも妹も早世する。)ウスマーンはムハンマドに下された啓示をコーランにまとめた。ウマイヤ家とムハンマドのハーシム家は対立しており、ウスマーンのイスラム教入信は猛反対にあった。その後にウマイヤ朝を起こしたムアーウィヤはウスマーンの甥である。ウスマーンはウマイヤ家を重用したため反対派に暗殺された。

アリー

656年に4番目のカリフになったのがムハンマドの従弟アリーである。ムハンマドの娘ファーティマとの間にハサンとフサインの男子が生まれた。しかし、アリーのカリフに反対したのがムハンマドの晩年の妻アーイシャ(アブー・バクルの娘)とカリフを目論んでいたウスマーンの甥でシリア総督のムアーウィヤである。ムアーウィヤはウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であると復讐を叫んでいた。657年、対立はユーフラテス川上流の「スィッフィーンの戦い」となり、アリーはイラク軍とムアーウィヤはシリア軍を擁して戦闘を交えた。

アリーは自ら先頭に立つ勇者ではあったが、もとは商人の出である。何万を率いる軍隊を指揮した経験はない。ムアーウィヤに、「一騎打ちで勝負をつけよう。」と申し出るが、ムアーウィヤは無視した。政略や戦略ではアリーはムアーウィヤに及ばなかった。ムアーウィヤは策略をめぐらして和議を結んだ。この結果、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失い、アリーへの反発者が「ハワーリジュ派」となって離反する。661年、アリーはハワーリジュ派の刺客により暗殺される。

ムアーウィヤはカリフとなり、ウマイヤ朝を開き、以後カリフを自分の家系による世襲であることを宣言した。一方、あくまでもカリフはムハンマドの血筋であるべきだと主張する勢力は「シーア派」を形成した。ムハンマドの従弟アリーとムハンマドの娘ファーティマとの間に生まれたハサンとフサインの子孫こそがカリフであるというのだ。多数派となったウマイヤ朝の権威を認めた「スンニ派」と対立し、その後も手を結ぶことはない。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「火地晋」の卦。晋は進む、上昇する。地の上に火があることから、太陽が地上に現れ輝き始める。旭日昇天、日の出の勢いで出世することでもある。事業は何もかもうまく運び、おもしろいように発展する。しかし、幸運はいつまでも続くものではない。

イスラム教ほど、急拡大した宗教はないだろう。ムハンマドの勢いを引き継いだ2代目カリフ・ウマルの時代にアラビア半島は全て、エジプトからササン朝ペルシャ、ビザンツ帝国の3分の2を征服している。ビザンツとササン朝ペルシャが戦争を繰り返し、互いに疲弊した時に漁夫の利を得たというが、このエネルギーはどこから来るものだろうか。こんなに急拡大すれば、仲間割れするのも当然だろう。カリフが4代目までに3人が暗殺されている。シーア派は現在のイランが中心である。イランはもとのペルシャ。ペルシャ帝国のプライドもあり、他のアラブ民族とは違うというエリート意識があるのだろうか。1400年経った今もスンニ派とは対立したままである。

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