さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(21)イスラム教の成立

2021-06-01 | ユダヤ人の旅

天使の啓示を受けるムハンマド

ビザンツ帝国とササン朝ペルシャが激しく争っている間に別の場所で、歴史を変える宗教が誕生しようとしていた。イエス・キリスト以来の預言者と言われるムハンマドの登場である。570年、ムハンマドはアラビア半島の商業都市メッカに生まれた。ムハンマドは幼くして両親を亡くし、叔父の隊商交易の商人アブー・ターリブに育てられ、やがてシリアとの隊商交易に参加した。25歳の時、15歳年上の裕福な女商人ハデ-ジャと結婚する。2男4女をもうけるが、男子は二人とも夭折する。

610年、40歳になったムハンマドは郊外のヒラー山の洞くつで瞑想にふけっていた。そこで、天使ガブリエルが現れ唯一神アラーの啓示を受ける。何度も啓示を受けたムハンマドは妻ハディージャに相談する。ハディージャはユダヤ教指導者に話をすると、天使ガブリエルが現れたに違いないと告げられる。妻ハディージャと叔父の子アリーが最初の信者となりイスラム教を説き始める。当時、メッカは貿易の中継地として経済が大成長した一面、貧富の差は激しく、各部族間の争いが絶えなかった。各部族はそれぞれ独自の神を祀り、宗教の対立も激しかった。

 

613年頃からムハンマドはメッカの人々に教えを説こうとしたが、多神教の市民たちは激しく抵抗し、ムハンマドたちを迫害した。叔父アブー・ターリブと妻ハディージャが亡くなると布教の限界を感じたが、622年、ムハンマドはメディナに逃れる。メディナでは部族間の争いを調停したことにより信頼を得、ムハンマドを長とするイスラム共同体(ウンマ)が結成された。戦略的な才覚も備えたムハンマドは周辺の遊牧民の部族を集結し、命を狙うメッカの部隊に備える。624年、ムハンマド討伐のため1000人のメッカ軍がメディナに向かってきたが、ムハンマドは300人の兵でバドルの地で勝利した。これを「バドルの戦い」と呼び、この9月を記念して「ラマダーン月」として断食するようになった。

 

巡礼するムハンマド

その後もメッカ軍は何度も報復戦を挑んできたがムハンマドは自ら兵を率いて撃退する。628年にメッカとは和議を結んで停戦する。しかし、本来アラブ民族は多神教であり、部族ごとに団結しており、中にはユダヤ教系の部族もあり、内乱はますます手が付けられなくなる。それでも、ムハンマドの唱えるイスラム教は次第に信者を増やしていった。自信を深めたムハンマドはビザンツ帝国やササン朝ペルシャにも親書を送り、イスラム教を積極的に布教した。

630年、1万の大軍になったムスリム軍はメッカに侵攻した。メッカ軍は戦わずして降伏、アラーを信じる者は許し、信じない者は処刑、多神教の神像、聖像は破壊した。ムハンマドはメッカをイスラム教の聖地と定め、アラビア半島はイスラム教によって統一された。632年、ムハンマドは五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を定め、大巡礼を終えると間もなく没した。ユダヤ教とキリスト教は同じ神、同じ敬典を奉ずる宗教として尊重していた。後継者になったのは、最愛の妻ハディージャの娘ファーティマと夫の従弟アリー、二人の間の孫ハサンとフサインである。

 

~~~さわやか易の見方~~~

「沢地萃」の卦。萃(すい)は人や物が集まることである。語源は草が群生している様を表している。地の上に沢があることで砂漠のオアシスを連想させる。オアシスには人が集まり、交易が盛んになる。王者たる者は神に祈りを捧げ盛大な祭礼を行う、人はすぐれた指導者に感謝して正道を行う

 

アラビア半島の大半は砂漠である。決して恵まれた環境ではない。しかし、ここには石油が産出し、東西の貿易の中継地でもある。そうなると、貧富の格差が生まれると予想出来る。イスラム教の五行の中に「喜捨」がある。富める者は貧しき者に施しを与えねばならない。施しは与えたものには与える喜びがあり、与えられたものには感謝が生まれる。アラブ民族にはぴったりの教えなのだろう。単純にして明快な教えはあっという間にアラブ民族に波及した。そのアラブ民族が一気に世界に飛躍することにもなった。しかし、五行の中には「支配」という言葉はない。どうして飛躍すると他国を支配したがるのだろうか。ムハンマドの出現は1400年経った現在、世界の17億人の信者が信仰している。

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