奈良県立図書情報館「自分の仕事」を考える3日間の、最終日。今日は2人のひとのお話を聞く。
まず、マザーアース・エデュケーション代表の、松木正さん。ラコタ族の儀式を取り入れた環境教育をしているひとだ。
とても大事なことを、上手に言葉にしていると思った。今回のテキストとは違うけど、検索したら大阪人権協会のページにエッセイが載ってた。今日お話した内容のことも、少し書いてある。
↓ ↓ ↓
http://www.jinken-osaka.jp/essay/vol13.html
今日のお話の中では、このエッセイに書かれたことのほかにも興味深い話が。例えば、ひたすら「強い」ことを目指してた19歳の頃は、京都の歌舞練場で裏方の仕事をしていたそうなんだけど、幕間の時間は全部指立てふせやってたほど、筋肉を鍛えることに夢中になってたそうだ。道場にも通ってたし、強さを試したくて、誰かにケンカ売ってもらいたいから、あたってほしくて、風きって歩いてたらしい。ご本人いわく、頭の中まで筋肉になってたとのこと。そんなある日、北海道まで走ろうと思い、無茶なスケジュールで走り過ぎて心臓がとまりそうになり、初めて立ち止まり、色々なことに気づき始め、そして気付いたら鬱になっていたそうな。そこで苦しみながら、自分の自己肯定感がかなり低いことなど色々なことに気づき、今の活動につながっているようだ。
うーん、いいひとだ、正直だ、そして謙虚だ。
さて、最後は、くずし割烹 枝魯枝魯[ぎろぎろ]店主で料理人の、枝國栄一さん。
この人が、、、強烈だったよ。。。この人が最後にくるのって、すごいなー。
このお店は、3500円という超破格で割烹を出してるんだけど、その質が全然3500円レベルではないらしい。すごく人気のお店で予約待ちとかになってるようだし、パリ店、ハワイ店と、順調に事業は拡張していっている。
しかしこの人は、ひと言でいうと、完全に絶望しきっている。これはkananagaが読み取ったことではなく、ご本人がそれはそれはしつこいくらいに、それを公言しているのだ。ご本人が言っていたことだけど、お店のお客さんが今日の枝國さんを見たら、本当に驚くと思う、とのことだった。こういう、いわば暗い面=恐らくは枝國さんの素の部分、を、お店では全く見せてないとのこと。それでよく、この場でいわばカミングアウトする気になったよね。
枝國さんは、料理できなくなったら死んでしまうそうだ。それは、「好きで好きで」という意味ではない。料理ができなくなったら、もう生きていく理由が見当たらないからきっと死んでしまう、という、完全にネガティブな意味のことだ。枝國さんは料理を食べてもおいしいとか思わないらしい。じゃあなんでおいしいものを作れるのかというと、お客さんがおいしいと思うものを極めていくから。
喜んでほしいから、愛してほしいから、それだけ、と言っていた。
いやー、思う事ありすぎて書ききれないけど。kananagaは、絶望しきって、そこから希望を見出すことで活躍していってるひとにはたくさん出会ってきたけど、こんなに活躍しているのに、ここまで絶望の慢性化がひっ迫してるひとは初めて出会ったなあ。話を聞いてて結構しんどかったけど、でも、面白くもあったよ、もちろん。自虐ネタにとれないこともない感じだったので、笑いもいっぱいとっていたし(ネタにしては闇が深過ぎるが、、、)。
でも、もし誰かが助けの手を差し伸べても、もはや枝國さんは誰の手もとる気がないかも、と思った。本人以外に彼を救えるひとはきっといないなあ。まあ、でも、それは、全てのひとがそうだと言えるとkananagaは思っているので。なんていうか、自分以外のひとにも助けを求めるという行動、その第一歩を踏み出すことができるのは、自分しかいないので。自分が自分を愛すること、許すこと、が、入口と言うか出口と言うか。
枝國さんが会場からの質問に答えていたときの印象に残った事。「枝國さんが料理をやめても、それでも枝國さんを愛してくれてるひとはいると思うんですが、そういうのを信じることはできませんか?」という趣旨の質問が出たのに対して、「そうであればいいんですが、僕はそんなリスクはとりません。」「もし誓約書書いてくれたら、信じられるかもしれません。」という感じで言っていた。裏切られる恐怖がものすごく大きいんだろうなあと思った。
くずし割烹 枝魯枝魯、いかねば。。。
いやはや、ディープな2日間だった。ぐったりだ!でも、すっごい面白い!
まず、マザーアース・エデュケーション代表の、松木正さん。ラコタ族の儀式を取り入れた環境教育をしているひとだ。
とても大事なことを、上手に言葉にしていると思った。今回のテキストとは違うけど、検索したら大阪人権協会のページにエッセイが載ってた。今日お話した内容のことも、少し書いてある。
↓ ↓ ↓
http://www.jinken-osaka.jp/essay/vol13.html
今日のお話の中では、このエッセイに書かれたことのほかにも興味深い話が。例えば、ひたすら「強い」ことを目指してた19歳の頃は、京都の歌舞練場で裏方の仕事をしていたそうなんだけど、幕間の時間は全部指立てふせやってたほど、筋肉を鍛えることに夢中になってたそうだ。道場にも通ってたし、強さを試したくて、誰かにケンカ売ってもらいたいから、あたってほしくて、風きって歩いてたらしい。ご本人いわく、頭の中まで筋肉になってたとのこと。そんなある日、北海道まで走ろうと思い、無茶なスケジュールで走り過ぎて心臓がとまりそうになり、初めて立ち止まり、色々なことに気づき始め、そして気付いたら鬱になっていたそうな。そこで苦しみながら、自分の自己肯定感がかなり低いことなど色々なことに気づき、今の活動につながっているようだ。
うーん、いいひとだ、正直だ、そして謙虚だ。
さて、最後は、くずし割烹 枝魯枝魯[ぎろぎろ]店主で料理人の、枝國栄一さん。
この人が、、、強烈だったよ。。。この人が最後にくるのって、すごいなー。
このお店は、3500円という超破格で割烹を出してるんだけど、その質が全然3500円レベルではないらしい。すごく人気のお店で予約待ちとかになってるようだし、パリ店、ハワイ店と、順調に事業は拡張していっている。
しかしこの人は、ひと言でいうと、完全に絶望しきっている。これはkananagaが読み取ったことではなく、ご本人がそれはそれはしつこいくらいに、それを公言しているのだ。ご本人が言っていたことだけど、お店のお客さんが今日の枝國さんを見たら、本当に驚くと思う、とのことだった。こういう、いわば暗い面=恐らくは枝國さんの素の部分、を、お店では全く見せてないとのこと。それでよく、この場でいわばカミングアウトする気になったよね。
枝國さんは、料理できなくなったら死んでしまうそうだ。それは、「好きで好きで」という意味ではない。料理ができなくなったら、もう生きていく理由が見当たらないからきっと死んでしまう、という、完全にネガティブな意味のことだ。枝國さんは料理を食べてもおいしいとか思わないらしい。じゃあなんでおいしいものを作れるのかというと、お客さんがおいしいと思うものを極めていくから。
喜んでほしいから、愛してほしいから、それだけ、と言っていた。
いやー、思う事ありすぎて書ききれないけど。kananagaは、絶望しきって、そこから希望を見出すことで活躍していってるひとにはたくさん出会ってきたけど、こんなに活躍しているのに、ここまで絶望の慢性化がひっ迫してるひとは初めて出会ったなあ。話を聞いてて結構しんどかったけど、でも、面白くもあったよ、もちろん。自虐ネタにとれないこともない感じだったので、笑いもいっぱいとっていたし(ネタにしては闇が深過ぎるが、、、)。
でも、もし誰かが助けの手を差し伸べても、もはや枝國さんは誰の手もとる気がないかも、と思った。本人以外に彼を救えるひとはきっといないなあ。まあ、でも、それは、全てのひとがそうだと言えるとkananagaは思っているので。なんていうか、自分以外のひとにも助けを求めるという行動、その第一歩を踏み出すことができるのは、自分しかいないので。自分が自分を愛すること、許すこと、が、入口と言うか出口と言うか。
枝國さんが会場からの質問に答えていたときの印象に残った事。「枝國さんが料理をやめても、それでも枝國さんを愛してくれてるひとはいると思うんですが、そういうのを信じることはできませんか?」という趣旨の質問が出たのに対して、「そうであればいいんですが、僕はそんなリスクはとりません。」「もし誓約書書いてくれたら、信じられるかもしれません。」という感じで言っていた。裏切られる恐怖がものすごく大きいんだろうなあと思った。
くずし割烹 枝魯枝魯、いかねば。。。
いやはや、ディープな2日間だった。ぐったりだ!でも、すっごい面白い!