「自分の仕事を考える3日間」2日目に参加するため、奈良県立図書情報館へ。
プログラムファシリテーター(聞き手)は、西村佳哲さん(リビングワールド代表/働き方研究家)。「自分の仕事をつくる」(晶文社)の著者の方だ。
この3日間は、単にパネラーが喋って、質問を受け付けて、というのではなく進行している。1人のパネラーに2時間半の尺。お客さんはまず最初に見知らぬ近くのひとと3人のグループをつくる。それからパネラーのひとの紹介文をそれぞれ黙読。その後約10分間その文字情報を読んだ印象だけの段階で、3人で何か思ったことを話す。そしてパネラーが30分のプレゼン。それからまた15分間さっきと同じメンバーで話す。そのあと、パネラーに西村さんがインタビューする形で30分。その後、別の3人で組んで、また15分話をする。そのあと残りの時間で、会場からの質疑に応答、あまりかたくなくトークな感じで。と、いう流れ。
この方法が実にうまくできている、と思った。3日間で最大32人の初めて会うひとと話ができるし。「(この3人の対話は)必ずしもしなくてもいいです」とちゃんと断りを入れてくれたうえで、でもある程度話すことを強制してくれるこの感じは、日本人には特に、極めて有効な方法だと思う。15分しかないのもまたよくて、すぐ終わってしまうから、みんな一生懸命話すし。どのセッションもとても盛り上がった。
さてさて最初は、以前からとても気になっていた「浦河ベてるの家」の理事でソーシャル・ワーカーの、向谷地生良さん。あのね、見た目、全く華がない。そこにいるだけでは、何もすごさがわからなかった。でも、ひとたび口を開くと、このひとはとんでもないということが、すぐわかるようなひとだった。あのね、あのオーラのなさが、本物だと言えるんじゃないか、という感じというか。確実にこのひと自身に主体があるところが信頼できる感じがするというか。このひとの話、別に笑かそうと思ってるわけじゃないんだけど、kananagaはずっと笑いっぱなしというか、会場のほかのお客さんも結構笑いっぱなしっていうか。ああ、どう説明したらいいんだろうなあ。中途半端にちゃんと書こうとすると誤解を与える表現が出てきちゃいそうなので、以下に、気になったことや思ったことを、kananaga的にメモ。
「弱いから繋がる進化論」「正々堂々弱くなろう」。「たとえ僕に明日はなくとも」。浦河は、人と会うのがレジャーみたいなところ。学ぶとか働くことが生きることに繋がらないとモチベーションに繋がらない。「自分には根源的な生きる苦労というか生活するうえでの根本的な鍛錬が足りないんじゃないかという危機感」。現実、困難さを取り戻す。「生きづらさの当事者研究」⇒「摂食障害になるための方法」⇒「親の顔色を伺う、人生に高い目標を掲げる、安心を持たずそしてそれを決して悟られないようにする」などをすると摂食障害になれるらしい(爆)。反転したパワーは前向きに喝を与える。病気は手間ひまかかる。それぞれの分野のエキスパート。うつになる⇒明らかに感度が高い。この10年で学校の先生のうつは8倍、もはや社会現象。((イギリスではうつや社会不安障害に国家予算が動いている。日本はこういうことがすごく遅れているbykananaga))。前向きな揺り戻しをかける。主体になってほしい。自分の働き易さは自分で提案する。社会復帰のためではなく、彼らの経験から社会がどう学ぶか。一番頼りないひとを中心に。無理しない。3度の飯よりミーティング。ミーティングの結果、なんでか物がよくなくなるから、透明人間はいるということになった。幻覚妄想大会を観るために300人のお客さんが過疎地の浦河へ来てお金を落としてくれる、それが彼らの仕事になる。「非援助論」。病気を手立てにしない。始まりに終わりの準備をするのが癖。援助職は依存し易い、教職も。仕事の嬉しさは循環していく、自己完結しない。実は(毎日)深刻です。順調に問題だらけ。そういう状況に陥ってく。問題が活力になる。悩んでるひとは勝手に踊り出す。労働歌とかもそうでしょう。おじさんが統合失調症だったけど、長い事気付かないでいた(おじさんはおじさんだから)。そのおじさんが「生良」という名前をつけてくれたが、その由来はまだ聞いていない。向谷地さん流仕事の仕方①しったかぶりのすすめ。②形から入る。③陰口のすすめ、いいことを囁く、それは必ず伝わる。④悩み方の工夫、悩むという捉え方より、テーマが見えた、課題が生まれた、みたいにして、悩むことをしない。⑤とにかく相談する。⑥生きることと働くことの一本化、絶望は宝物。⑦自分が一番手強いクライアント。⑧地域の悪口は(絶対)言わない、地域をほめる。⑨仕事の評価と人間の価値は別。⑩弱さの情報公開。⑪仕事に人生をかけない。
さて、次は、CAFE MILLET オーナーの隅岡樹里さん。
ご自身の生い立ちをつらつらにこにこと語る天然キャラのひとだったが、これは、天然なのか、それともある程度コントロールしている策士なのか。。。「別にカフェでなくてもよかった」と言うのに、カフェを実現させてるところが、すごい。西村さんが言っていたが、世の中にカフェをやりたいひとはたくさんいると思うが、実際始めちゃえるひとは少ない。
ひとつだけ気になる事があった。「ベジタリアンでオーガニックなことが地球やみんなにいいことだ」ということを、あまりにおおらかに言ってしまっているところ。kananagaは(ライトな)ベジタリアンである。なので、ベジタリアンに関することはそれなりには知っているつもり。ベジタリアンというのは、気をつけないと、ベジタリアンではないひとをばっさり切り捨てることになりかねない、結構キツイほうにも振り切れちゃう可能性があるものなので、そのへん自ら律していくことが求められるべきジャンルだと、kananagaは思っている。
最後に、編集集団140B総監督で編集者で岸和田のだんじり祭りの世話人の、江 弘毅さん。お話してたところをざざっと書くと、
お金は大事だが、そちらのベクトルに完全に軸足をのせてしまうと、余計な思考や感情まで抱えてしまうから、今の資本主義的なお金で計る価値観が一番という感じには違和感を感じてしまう。自分にはお金では計れない、もうひとつの価値観が存在する、それは、だんじり祭りである。だんじりに関わる事では、不条理・不合理な事も、お金に還元出来ない事も「しゃーない」という落としどころで処理しなければやっていけないところがある。しかし、そこにこそ今の世間からは消されてしまった大切な価値観があるのではないか。「しゃーない」は肯定的に愛情を込めて「いいよ」と言ってる面もあり、諦観、ようは諦め・妥協の、ちょっと佛教的な意味も含んでいるようだ。
ということだったんだろうと思われる。興味深い話だな~。それにしても、編集者というよりも、、、だんじりへの愛情がも~のすごくて、その熱にびっくりした!
面白かった!でも、ぐったりだ!!3人の話を聞くだけで、、、話を聞く、って、すごいエネルギーを使うことなんだなあ~。
プログラムファシリテーター(聞き手)は、西村佳哲さん(リビングワールド代表/働き方研究家)。「自分の仕事をつくる」(晶文社)の著者の方だ。
この3日間は、単にパネラーが喋って、質問を受け付けて、というのではなく進行している。1人のパネラーに2時間半の尺。お客さんはまず最初に見知らぬ近くのひとと3人のグループをつくる。それからパネラーのひとの紹介文をそれぞれ黙読。その後約10分間その文字情報を読んだ印象だけの段階で、3人で何か思ったことを話す。そしてパネラーが30分のプレゼン。それからまた15分間さっきと同じメンバーで話す。そのあと、パネラーに西村さんがインタビューする形で30分。その後、別の3人で組んで、また15分話をする。そのあと残りの時間で、会場からの質疑に応答、あまりかたくなくトークな感じで。と、いう流れ。
この方法が実にうまくできている、と思った。3日間で最大32人の初めて会うひとと話ができるし。「(この3人の対話は)必ずしもしなくてもいいです」とちゃんと断りを入れてくれたうえで、でもある程度話すことを強制してくれるこの感じは、日本人には特に、極めて有効な方法だと思う。15分しかないのもまたよくて、すぐ終わってしまうから、みんな一生懸命話すし。どのセッションもとても盛り上がった。
さてさて最初は、以前からとても気になっていた「浦河ベてるの家」の理事でソーシャル・ワーカーの、向谷地生良さん。あのね、見た目、全く華がない。そこにいるだけでは、何もすごさがわからなかった。でも、ひとたび口を開くと、このひとはとんでもないということが、すぐわかるようなひとだった。あのね、あのオーラのなさが、本物だと言えるんじゃないか、という感じというか。確実にこのひと自身に主体があるところが信頼できる感じがするというか。このひとの話、別に笑かそうと思ってるわけじゃないんだけど、kananagaはずっと笑いっぱなしというか、会場のほかのお客さんも結構笑いっぱなしっていうか。ああ、どう説明したらいいんだろうなあ。中途半端にちゃんと書こうとすると誤解を与える表現が出てきちゃいそうなので、以下に、気になったことや思ったことを、kananaga的にメモ。
「弱いから繋がる進化論」「正々堂々弱くなろう」。「たとえ僕に明日はなくとも」。浦河は、人と会うのがレジャーみたいなところ。学ぶとか働くことが生きることに繋がらないとモチベーションに繋がらない。「自分には根源的な生きる苦労というか生活するうえでの根本的な鍛錬が足りないんじゃないかという危機感」。現実、困難さを取り戻す。「生きづらさの当事者研究」⇒「摂食障害になるための方法」⇒「親の顔色を伺う、人生に高い目標を掲げる、安心を持たずそしてそれを決して悟られないようにする」などをすると摂食障害になれるらしい(爆)。反転したパワーは前向きに喝を与える。病気は手間ひまかかる。それぞれの分野のエキスパート。うつになる⇒明らかに感度が高い。この10年で学校の先生のうつは8倍、もはや社会現象。((イギリスではうつや社会不安障害に国家予算が動いている。日本はこういうことがすごく遅れているbykananaga))。前向きな揺り戻しをかける。主体になってほしい。自分の働き易さは自分で提案する。社会復帰のためではなく、彼らの経験から社会がどう学ぶか。一番頼りないひとを中心に。無理しない。3度の飯よりミーティング。ミーティングの結果、なんでか物がよくなくなるから、透明人間はいるということになった。幻覚妄想大会を観るために300人のお客さんが過疎地の浦河へ来てお金を落としてくれる、それが彼らの仕事になる。「非援助論」。病気を手立てにしない。始まりに終わりの準備をするのが癖。援助職は依存し易い、教職も。仕事の嬉しさは循環していく、自己完結しない。実は(毎日)深刻です。順調に問題だらけ。そういう状況に陥ってく。問題が活力になる。悩んでるひとは勝手に踊り出す。労働歌とかもそうでしょう。おじさんが統合失調症だったけど、長い事気付かないでいた(おじさんはおじさんだから)。そのおじさんが「生良」という名前をつけてくれたが、その由来はまだ聞いていない。向谷地さん流仕事の仕方①しったかぶりのすすめ。②形から入る。③陰口のすすめ、いいことを囁く、それは必ず伝わる。④悩み方の工夫、悩むという捉え方より、テーマが見えた、課題が生まれた、みたいにして、悩むことをしない。⑤とにかく相談する。⑥生きることと働くことの一本化、絶望は宝物。⑦自分が一番手強いクライアント。⑧地域の悪口は(絶対)言わない、地域をほめる。⑨仕事の評価と人間の価値は別。⑩弱さの情報公開。⑪仕事に人生をかけない。
さて、次は、CAFE MILLET オーナーの隅岡樹里さん。
ご自身の生い立ちをつらつらにこにこと語る天然キャラのひとだったが、これは、天然なのか、それともある程度コントロールしている策士なのか。。。「別にカフェでなくてもよかった」と言うのに、カフェを実現させてるところが、すごい。西村さんが言っていたが、世の中にカフェをやりたいひとはたくさんいると思うが、実際始めちゃえるひとは少ない。
ひとつだけ気になる事があった。「ベジタリアンでオーガニックなことが地球やみんなにいいことだ」ということを、あまりにおおらかに言ってしまっているところ。kananagaは(ライトな)ベジタリアンである。なので、ベジタリアンに関することはそれなりには知っているつもり。ベジタリアンというのは、気をつけないと、ベジタリアンではないひとをばっさり切り捨てることになりかねない、結構キツイほうにも振り切れちゃう可能性があるものなので、そのへん自ら律していくことが求められるべきジャンルだと、kananagaは思っている。
最後に、編集集団140B総監督で編集者で岸和田のだんじり祭りの世話人の、江 弘毅さん。お話してたところをざざっと書くと、
お金は大事だが、そちらのベクトルに完全に軸足をのせてしまうと、余計な思考や感情まで抱えてしまうから、今の資本主義的なお金で計る価値観が一番という感じには違和感を感じてしまう。自分にはお金では計れない、もうひとつの価値観が存在する、それは、だんじり祭りである。だんじりに関わる事では、不条理・不合理な事も、お金に還元出来ない事も「しゃーない」という落としどころで処理しなければやっていけないところがある。しかし、そこにこそ今の世間からは消されてしまった大切な価値観があるのではないか。「しゃーない」は肯定的に愛情を込めて「いいよ」と言ってる面もあり、諦観、ようは諦め・妥協の、ちょっと佛教的な意味も含んでいるようだ。
ということだったんだろうと思われる。興味深い話だな~。それにしても、編集者というよりも、、、だんじりへの愛情がも~のすごくて、その熱にびっくりした!
面白かった!でも、ぐったりだ!!3人の話を聞くだけで、、、話を聞く、って、すごいエネルギーを使うことなんだなあ~。