
ママです。
みみかが学校へ行けなくなった事をきっかけに見えてきた、今起きているいじめや自殺、事件事故などの生命に関わる社会的現象問題の本質的な原因や意味を、安倍総理大臣宛てに郵送しました。
その全文をご紹介します。
安倍総理大臣 様
常日ごろの安倍総理の日本を愛する心、我々国民を思う心に深く感謝申し上げます。
総理の「美しい日本」への改革熱意の思いを拝聴し、国民の一人として心打たれ大変嬉しく思っております。私も日本国民の一人として「美しい日本」顕現に向け日々祈り、自分に出来ることを精一杯実践させて頂こうと願っております。
一個人、一国民の意見を大事になさって下さると言う安倍総理をご信頼申し上げ、私一個人の拙い体験からの思いでありますが、しかしその内容は現在急務である教育に関わるものであり、またひいては様々な問題の解決の糸口となる可能性が潜むものではないかと感じておりますので、この切なる思いが届くことを願って、不躾でありますが突然のお手紙を差し上げた次第です。
総理におかれましては大変お忙しいことと存じますが、ぜひ一読頂ければ幸いでございます。
私は、小学校2年生の子供を持つ母親です。
毎日元気に楽しく登校しておりましたこの子供が、突然9月に入ってから普通に学校へ行けなくなってしまいました。朝目を覚ますと開口一番「学校行かない!」で始まり、「お母さんがいい!」そう言って号泣し、私から離れようとはしません。無理やり切り離そうとすればするほど子供の号泣は激しさを増し、離されまいと泣き叫びながら私に抱きつこうとします。
もちろんこういったことは、保育所や幼稚園などで母子が離れる瞬間の風景によく見られることでしょうが、うちの子供の場合(その状況を実際にご覧いただければ分かると思いますが)一過性としては必要な範囲を遥かに超えた異常な表現で、余りあるものが有ります。
初めは、色々なことに疲れが出て甘えているのかも知れないと思い、学校をお休みさせていただきました。その後は、私から全く離れない状態の子供を引きずりながら一緒に登校したり、無理やり集団登校の渦の中に押し込み走って逃げ帰ってきたりもしました。
子供の抵抗がひどく通常の登校時間に間に合わないときには母子登校をし、先生方が子供に優しく説得して下さったりしながら、懸命に引き離すという場面もありました。それでも泣き叫んで埒があかないときには、お母さんは別室で待っているからと子供を安心させ、一日中学校に私が待機していたこともあります。
しかし、子供の母親に対する執着心は凄まじく、そのうちに別室にいる私に幼児のように抱きつき離れられなくなってしまいました。それではと、別室で勉強できるものは私と一緒にし、給食も(私はお弁当を持参し)一緒に食べ・・と、あらゆる方法を試みてみました。
しかしどんな場合も、子供は引き離す者(特に大人たち)に対して物凄い態度で抵抗し、周りの様子など何もお構いなしで、ひたすら「イヤー!お母さんがいい!」と言って泣き叫ぶのです。普段から必要なこと以外あまり泣かない子供でしたので、周りの大人も子供たちも大変驚き戸惑いました。子供を母親から切り離そうとする大人たち、私自身や先生方はもちろん、周囲でそれを見る大人たちや子供たちにも、心が痛むほどの情景がそこにあります。
するとそのうち、「学校は怖いところ!」「学校へ行ったら自分は死んじゃう!」「学校へ行ったら帰って来られなくなる!」「学校怖い、人間も怖い!!」そういう訴えをするようになりました。
何故、学校が怖いのか?
何故、学校へ行ったら死んじゃうのか?
何故、帰って来られないのか?
何故、人間が怖いのか?
どうしてそんな風に思うのかを子供に聞くのですが、「怖い」「怖い」を連発し「どうしてだか分からないけど怖い」「どうしてか分からないけど何かが怖い」と泣き叫んで言うばかりです。そして、「学校なんか潰れてしまえ!」「学校なんか無くなってしまえ!」「学校なんか大っきらいだー!」と、【学校】を激しく罵倒し始めました。
子供が「学校へ行きたくない」そう思う最大の理由は2つあると私は考えました。
それは≪子供と学校との信頼関係≫と、≪子供と母との信頼関係≫です。
それぞれの理由について、私の考えを述べさせていただきたいと思います。
1.≪子供と学校との信頼関係≫
子供への教育は「子供に内在する生命力(個性的無限の能力)を、如何に引き出すか」ということが本質であると思います。その点において、学校という施設の存在は実に素晴らしく、私たち親にとっても大変有り難いものだと痛感しております。
さまざまな専門分野の教養を身に付けられた先生方、図書室や運動場や体育館等のさまざまな施設、長年の教育的ノウハウ、・・・これらを備えた学校という施設は子供の教育に最も相応しいところです。
この素晴らしい教育施設で子供達が喜んで楽しく学び、そこで自分自身の個性的な能力を最大限に見出し、さらに社会に出て人類のお役に立つ有意義な人間に育成されることは、学校の大きな使命だと思います。
しかし、問題は子供がその学校へ〝喜んで〟行き、〝喜んで〟学んでいるか、ということかと思います。
人間は子供でも大人でも、〝喜んで〟学んだり仕事をするのでなければ、その人の潜在的な能力は引き出されることも発揮されることも少ないと思います。
〝喜んで〟学校へ行き、〝喜んで〟勉強するのでなければ、子供の学習意欲は湧かず、その子にしかない素晴らしい生命力(個性)が萎縮してしまうことになりかねません。
うちの子供の場合、「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」・・・そう先生方は仰って下さいました。・・・私もそう思っていました。
そう思えばこそ、私は「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」に焦点を合わせ、無理やり嫌がる子供の手を引き離して来ました。
でも、やはりそれには無理があって自然ではありません、“不自然”だと感じます。
なぜ子供は〝喜んで〟行かないのか?
そこにこそ、問題が潜んでいるのだと気が付きました。
〝喜んで〟行かないのには、それなりの理由が必ずある筈です。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫
そう泣き叫び訴える子供は、暗に次のようなことを私たちに教えてくれているのではないだろうかと感じています。
学校は本来、子供にとって精神的にも環境的にも「安心」で「楽しい」場所の象徴である筈です。しかし、子供の心の世界ではもはや学校はそういう場所ではなくなってしまっています。そういう意味からも、学校になんらかの問題があると感じられてならないのです。それはまた、学校(及び社会全体)が抱えている重大かつ深刻な問題から来ていると思います。
本来人間は生命であります。でも、現状の教育現場では肉体人間としての表面的な教育は為されていますが、人間が霊的実在の生命であるということの教育が為されていません。これは本質的に教育者自身が、「人間が如何なるものであるか」という人生における根本的な問題について、如何に考えているかということに起因していると思います。
子供たちにとって、学校において一番感化されるのは〝先生〟です。勿論、学校のお友達も大切ですが、それらの子供たちに対して最も影響力を持っているのも、やはり〝先生〟だと思います。その〝先生〟が如何なる人生観人間観を持って生徒に接しておられるのか。このことが大変大切なことであり、先生の人格からにじみ出る雰囲気が、子供たちを引き付ける〝魅力〟となり、子供が喜んで学校に行き、勉強する下地を作っているのではないかと思うのです。子供にとっては〝先生〟が〝学校〟なのです。
ヘレン・ケラーの内在の無限力を信じ、愛し、引き出したのは、サリバン先生の力です。サリバン先生という素晴らしい存在が無ければ、ヘレン・ケラーは世に出ることは無かったでしょう。サリバン先生の忍耐強く深い愛をヘレンは感じ取り、またそれに応えようとするヘレンのサリバン先生への信頼と愛があったからこそ、奇跡は起きたのだと学びました。
逆に、赤子の時に〝狼〟に育てられた少年は、その後人間に保護されましたが、一生言葉を覚えず、自分は〝狼〟であると信じて四足で歩き、人間には戻らなかったといいます。
子供の教育にとって、特に〝先生〟の存在は子供たちに絶対的な影響力を及ぼすものと思われます。
学校へ行きたがらない子供たち(登校拒否・ひきこもり等)や昨今のいじめや自殺、今なお止む事のない子供たちの生命に関わるあらゆる事件事故、そういった社会的問題現象の奥底には、私たち大人のそして社会全体の「生命に対する姿勢」が問われているのではないかと感じています。
大袈裟ではなく、砂が指の隙間からどんどんこぼれ落ちてしまうような、今日の生命に対する扱われ方の現状に、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」などと大人たちは必死に子供たちに訴え、子供たちの生命に関わる事件事故に対して「生命を守ろう!」と躍起になって叫びます。
しかし、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」と子供たちに訴えるその前に、まず大人たち(先生、親、社会人・・)がそれを実践すること、その姿を子供たちに見せることこそ大切な事だと思うのです。
「生命を守ろう!」そう言う大人たちが、無抵抗な一番弱い子供である赤ちゃんの生命を殺し(堕胎中絶=殺人)、動物生命を殺して肉を喰らい(人間自己中心の欲求)、小さな虫たちの生命を尊ぶことなく平気で殺しています(殺生)。
更に、そういった価値観や意識をもつ大人たち(先生/指導者)に、子供たちは教育を受けています・・・。悲しいですが、それが今の社会の現状だと思います。
家庭においては親が教師の役目を果たします。
我が家の場合は生命尊重、生命礼拝の姿勢で子供を教育しております。そういった意味からすれば、子供にとって家庭教育と学校教育での内容にギャップを感じるのではないかと思います。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫そう泣き叫び訴える子供は、その当たり前の違和感を素直に直感的に訴えているように感じます。母親である私も、子供のその訴えには理解が出来るのです。
純粋で素直で、平和で調和した心を持つ子供たちが、それに反する世界に触れるとき、直感的に抵抗を感じるのは当然だと思います。また、そのような純粋な子供心を大切に育ててあげることが、子供の教育にとってとても大切なことだと思うのです。
また、今までのように私が子供の嫌がる手を無理やり引き離し、学校へ我慢させて行かせた場合、後々取り返しのつかない問題点が残ることも考えられると思うようになってきました。
たとえば、自分(の感覚や違和感)を犠牲にし我慢して、母親の喜ぶこと(学校へ行く)を無理にすることを身に付け、自分を偽ることを覚えてしまうと、「人生は自分を押し殺し〝犠牲〟や〝我慢〟が必要である」との間違った人生観を教育することになると思います。
たとえば、「あなただけではないんだよ、みんなも我慢しているんだよ」と学校へ行かないというその行動を、みんなと違うんだという理由で抑え込もうとすれば、「みんなと同じように我慢できない自分はダメで〝おかしい子〟で〝悪い子〟なんだ」と、自分の個性的な感覚的行動を自身で責めてしまう心を育てることになります。
私は過去に、鬱になった経験があります。
鬱になり死ぬほどの苦しみを体験した私は、そんな風になってしまうような私を育てた常識枠や刷り込み的価値観を教えた学校教育システムをとても憎みました。もっと自由に個性のまま、ありのままの私を出させてくれなかった、型にはまった従来の教育現場のあり方、そういった現存の学校システムや社会を嫌いました。
私はある意味では“いい子”でした。
その時代時代にある価値観を私はそのまんま吸収しました。
我慢はするものだ。犠牲は払うものだ。誰かが得をすれば誰かが損をする。自分が生きようと思えば誰かが死ぬ。等々。そんな限定された有限的な感覚や価値観を、素直で純粋な私は何の疑いもなく受け入れて来ました。
しかし、事有るごとに、教えられたことと自分の心の奥底に感じる純粋なものとの矛盾や違和感に、いつしか自分の力では処理出来なくなっていき、この世での生き辛さに私の心は死んでしまいました。
しかし、私は真理を知りました。愛(神様)を知りました。この世界の本当の姿を知りました。私の心臓を動かす、滞ることない自然なリズム。朝が来て夜が来て、また朝が来て夜が明ける、繰り返される自然な流れ。そんな当たり前な自然な力に私は生かされている!私は愛であって生命である!だったら、私はこの世を生きられる!!そう思いました。
私はただ、“無知”だったのです。
無知な人間は苦しみます。無知でありながら素直で純粋な人間は結果的にはこの世を生きては行けません。私のように鬱になり苦しみ、自らの生命を絶つ人たちが出てきてしまいます。〝もう、これ以上子供たちを殺してはいけない!〟と強く思いました。〝すべての人間は本当の真理を知るべきだ!学ぶべきだ!!〟そのように強く思ったのです。
学校という教育現場で行われるべきは、真理を教えることが最も重要な課題だと思います。
生命、愛、光を、子供たちに教えるべきではないでしょうか。
人間は素晴らしい存在なのだと、「あなたは素晴らしい生命なのだ」と。
子供にとって先生は学校であり、学校は社会であります。社会は人間一人一人の想念の産物だと考えるならば、問題のある子供は究極、現社会を創り出している人間やその象徴である先生や学校を恐れ、不安を感じ不信感を抱いているのだと思うのです。そういった意味を教えてくれるために、学校や社会に出ることが出来ないような登校拒否やひきこもり、働けない者たちに姿を変え、問題提議をしてくれているのではないかと思います。
≪子供と学校との信頼関係≫において大切なことは、子供たちが安心して頼れる「生命を大切にする大人」との関係を構築することが、一番大事なのではないだろうかと思います。
「生命を大切にする大人」そういった大人(先生、親、社会人・・)との関係において初めて、子供たちは安心し信頼を寄せ、そういった大人たちの創る学校や社会に明るく楽しく生きられるのではないでしょうか。
>>>つづく
みみかが学校へ行けなくなった事をきっかけに見えてきた、今起きているいじめや自殺、事件事故などの生命に関わる社会的現象問題の本質的な原因や意味を、安倍総理大臣宛てに郵送しました。
その全文をご紹介します。
安倍総理大臣 様
常日ごろの安倍総理の日本を愛する心、我々国民を思う心に深く感謝申し上げます。
総理の「美しい日本」への改革熱意の思いを拝聴し、国民の一人として心打たれ大変嬉しく思っております。私も日本国民の一人として「美しい日本」顕現に向け日々祈り、自分に出来ることを精一杯実践させて頂こうと願っております。
一個人、一国民の意見を大事になさって下さると言う安倍総理をご信頼申し上げ、私一個人の拙い体験からの思いでありますが、しかしその内容は現在急務である教育に関わるものであり、またひいては様々な問題の解決の糸口となる可能性が潜むものではないかと感じておりますので、この切なる思いが届くことを願って、不躾でありますが突然のお手紙を差し上げた次第です。
総理におかれましては大変お忙しいことと存じますが、ぜひ一読頂ければ幸いでございます。
私は、小学校2年生の子供を持つ母親です。
毎日元気に楽しく登校しておりましたこの子供が、突然9月に入ってから普通に学校へ行けなくなってしまいました。朝目を覚ますと開口一番「学校行かない!」で始まり、「お母さんがいい!」そう言って号泣し、私から離れようとはしません。無理やり切り離そうとすればするほど子供の号泣は激しさを増し、離されまいと泣き叫びながら私に抱きつこうとします。
もちろんこういったことは、保育所や幼稚園などで母子が離れる瞬間の風景によく見られることでしょうが、うちの子供の場合(その状況を実際にご覧いただければ分かると思いますが)一過性としては必要な範囲を遥かに超えた異常な表現で、余りあるものが有ります。
初めは、色々なことに疲れが出て甘えているのかも知れないと思い、学校をお休みさせていただきました。その後は、私から全く離れない状態の子供を引きずりながら一緒に登校したり、無理やり集団登校の渦の中に押し込み走って逃げ帰ってきたりもしました。
子供の抵抗がひどく通常の登校時間に間に合わないときには母子登校をし、先生方が子供に優しく説得して下さったりしながら、懸命に引き離すという場面もありました。それでも泣き叫んで埒があかないときには、お母さんは別室で待っているからと子供を安心させ、一日中学校に私が待機していたこともあります。
しかし、子供の母親に対する執着心は凄まじく、そのうちに別室にいる私に幼児のように抱きつき離れられなくなってしまいました。それではと、別室で勉強できるものは私と一緒にし、給食も(私はお弁当を持参し)一緒に食べ・・と、あらゆる方法を試みてみました。
しかしどんな場合も、子供は引き離す者(特に大人たち)に対して物凄い態度で抵抗し、周りの様子など何もお構いなしで、ひたすら「イヤー!お母さんがいい!」と言って泣き叫ぶのです。普段から必要なこと以外あまり泣かない子供でしたので、周りの大人も子供たちも大変驚き戸惑いました。子供を母親から切り離そうとする大人たち、私自身や先生方はもちろん、周囲でそれを見る大人たちや子供たちにも、心が痛むほどの情景がそこにあります。
するとそのうち、「学校は怖いところ!」「学校へ行ったら自分は死んじゃう!」「学校へ行ったら帰って来られなくなる!」「学校怖い、人間も怖い!!」そういう訴えをするようになりました。
何故、学校が怖いのか?
何故、学校へ行ったら死んじゃうのか?
何故、帰って来られないのか?
何故、人間が怖いのか?
どうしてそんな風に思うのかを子供に聞くのですが、「怖い」「怖い」を連発し「どうしてだか分からないけど怖い」「どうしてか分からないけど何かが怖い」と泣き叫んで言うばかりです。そして、「学校なんか潰れてしまえ!」「学校なんか無くなってしまえ!」「学校なんか大っきらいだー!」と、【学校】を激しく罵倒し始めました。
子供が「学校へ行きたくない」そう思う最大の理由は2つあると私は考えました。
それは≪子供と学校との信頼関係≫と、≪子供と母との信頼関係≫です。
それぞれの理由について、私の考えを述べさせていただきたいと思います。
1.≪子供と学校との信頼関係≫
子供への教育は「子供に内在する生命力(個性的無限の能力)を、如何に引き出すか」ということが本質であると思います。その点において、学校という施設の存在は実に素晴らしく、私たち親にとっても大変有り難いものだと痛感しております。
さまざまな専門分野の教養を身に付けられた先生方、図書室や運動場や体育館等のさまざまな施設、長年の教育的ノウハウ、・・・これらを備えた学校という施設は子供の教育に最も相応しいところです。
この素晴らしい教育施設で子供達が喜んで楽しく学び、そこで自分自身の個性的な能力を最大限に見出し、さらに社会に出て人類のお役に立つ有意義な人間に育成されることは、学校の大きな使命だと思います。
しかし、問題は子供がその学校へ〝喜んで〟行き、〝喜んで〟学んでいるか、ということかと思います。
人間は子供でも大人でも、〝喜んで〟学んだり仕事をするのでなければ、その人の潜在的な能力は引き出されることも発揮されることも少ないと思います。
〝喜んで〟学校へ行き、〝喜んで〟勉強するのでなければ、子供の学習意欲は湧かず、その子にしかない素晴らしい生命力(個性)が萎縮してしまうことになりかねません。
うちの子供の場合、「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」・・・そう先生方は仰って下さいました。・・・私もそう思っていました。
そう思えばこそ、私は「学校にさえくれば楽しそうに過ごしている」に焦点を合わせ、無理やり嫌がる子供の手を引き離して来ました。
でも、やはりそれには無理があって自然ではありません、“不自然”だと感じます。
なぜ子供は〝喜んで〟行かないのか?
そこにこそ、問題が潜んでいるのだと気が付きました。
〝喜んで〟行かないのには、それなりの理由が必ずある筈です。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫
そう泣き叫び訴える子供は、暗に次のようなことを私たちに教えてくれているのではないだろうかと感じています。
学校は本来、子供にとって精神的にも環境的にも「安心」で「楽しい」場所の象徴である筈です。しかし、子供の心の世界ではもはや学校はそういう場所ではなくなってしまっています。そういう意味からも、学校になんらかの問題があると感じられてならないのです。それはまた、学校(及び社会全体)が抱えている重大かつ深刻な問題から来ていると思います。
本来人間は生命であります。でも、現状の教育現場では肉体人間としての表面的な教育は為されていますが、人間が霊的実在の生命であるということの教育が為されていません。これは本質的に教育者自身が、「人間が如何なるものであるか」という人生における根本的な問題について、如何に考えているかということに起因していると思います。
子供たちにとって、学校において一番感化されるのは〝先生〟です。勿論、学校のお友達も大切ですが、それらの子供たちに対して最も影響力を持っているのも、やはり〝先生〟だと思います。その〝先生〟が如何なる人生観人間観を持って生徒に接しておられるのか。このことが大変大切なことであり、先生の人格からにじみ出る雰囲気が、子供たちを引き付ける〝魅力〟となり、子供が喜んで学校に行き、勉強する下地を作っているのではないかと思うのです。子供にとっては〝先生〟が〝学校〟なのです。
ヘレン・ケラーの内在の無限力を信じ、愛し、引き出したのは、サリバン先生の力です。サリバン先生という素晴らしい存在が無ければ、ヘレン・ケラーは世に出ることは無かったでしょう。サリバン先生の忍耐強く深い愛をヘレンは感じ取り、またそれに応えようとするヘレンのサリバン先生への信頼と愛があったからこそ、奇跡は起きたのだと学びました。
逆に、赤子の時に〝狼〟に育てられた少年は、その後人間に保護されましたが、一生言葉を覚えず、自分は〝狼〟であると信じて四足で歩き、人間には戻らなかったといいます。
子供の教育にとって、特に〝先生〟の存在は子供たちに絶対的な影響力を及ぼすものと思われます。
学校へ行きたがらない子供たち(登校拒否・ひきこもり等)や昨今のいじめや自殺、今なお止む事のない子供たちの生命に関わるあらゆる事件事故、そういった社会的問題現象の奥底には、私たち大人のそして社会全体の「生命に対する姿勢」が問われているのではないかと感じています。
大袈裟ではなく、砂が指の隙間からどんどんこぼれ落ちてしまうような、今日の生命に対する扱われ方の現状に、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」などと大人たちは必死に子供たちに訴え、子供たちの生命に関わる事件事故に対して「生命を守ろう!」と躍起になって叫びます。
しかし、「生命を大切にしよう!」「仲間を大事にしよう!」と子供たちに訴えるその前に、まず大人たち(先生、親、社会人・・)がそれを実践すること、その姿を子供たちに見せることこそ大切な事だと思うのです。
「生命を守ろう!」そう言う大人たちが、無抵抗な一番弱い子供である赤ちゃんの生命を殺し(堕胎中絶=殺人)、動物生命を殺して肉を喰らい(人間自己中心の欲求)、小さな虫たちの生命を尊ぶことなく平気で殺しています(殺生)。
更に、そういった価値観や意識をもつ大人たち(先生/指導者)に、子供たちは教育を受けています・・・。悲しいですが、それが今の社会の現状だと思います。
家庭においては親が教師の役目を果たします。
我が家の場合は生命尊重、生命礼拝の姿勢で子供を教育しております。そういった意味からすれば、子供にとって家庭教育と学校教育での内容にギャップを感じるのではないかと思います。
≪学校に行きたくない!学校は怖いところ!学校へ行ったら自分は死んでしまう!帰って来られなくなる!学校怖い、人間も怖い!!≫そう泣き叫び訴える子供は、その当たり前の違和感を素直に直感的に訴えているように感じます。母親である私も、子供のその訴えには理解が出来るのです。
純粋で素直で、平和で調和した心を持つ子供たちが、それに反する世界に触れるとき、直感的に抵抗を感じるのは当然だと思います。また、そのような純粋な子供心を大切に育ててあげることが、子供の教育にとってとても大切なことだと思うのです。
また、今までのように私が子供の嫌がる手を無理やり引き離し、学校へ我慢させて行かせた場合、後々取り返しのつかない問題点が残ることも考えられると思うようになってきました。
たとえば、自分(の感覚や違和感)を犠牲にし我慢して、母親の喜ぶこと(学校へ行く)を無理にすることを身に付け、自分を偽ることを覚えてしまうと、「人生は自分を押し殺し〝犠牲〟や〝我慢〟が必要である」との間違った人生観を教育することになると思います。
たとえば、「あなただけではないんだよ、みんなも我慢しているんだよ」と学校へ行かないというその行動を、みんなと違うんだという理由で抑え込もうとすれば、「みんなと同じように我慢できない自分はダメで〝おかしい子〟で〝悪い子〟なんだ」と、自分の個性的な感覚的行動を自身で責めてしまう心を育てることになります。
私は過去に、鬱になった経験があります。
鬱になり死ぬほどの苦しみを体験した私は、そんな風になってしまうような私を育てた常識枠や刷り込み的価値観を教えた学校教育システムをとても憎みました。もっと自由に個性のまま、ありのままの私を出させてくれなかった、型にはまった従来の教育現場のあり方、そういった現存の学校システムや社会を嫌いました。
私はある意味では“いい子”でした。
その時代時代にある価値観を私はそのまんま吸収しました。
我慢はするものだ。犠牲は払うものだ。誰かが得をすれば誰かが損をする。自分が生きようと思えば誰かが死ぬ。等々。そんな限定された有限的な感覚や価値観を、素直で純粋な私は何の疑いもなく受け入れて来ました。
しかし、事有るごとに、教えられたことと自分の心の奥底に感じる純粋なものとの矛盾や違和感に、いつしか自分の力では処理出来なくなっていき、この世での生き辛さに私の心は死んでしまいました。
しかし、私は真理を知りました。愛(神様)を知りました。この世界の本当の姿を知りました。私の心臓を動かす、滞ることない自然なリズム。朝が来て夜が来て、また朝が来て夜が明ける、繰り返される自然な流れ。そんな当たり前な自然な力に私は生かされている!私は愛であって生命である!だったら、私はこの世を生きられる!!そう思いました。
私はただ、“無知”だったのです。
無知な人間は苦しみます。無知でありながら素直で純粋な人間は結果的にはこの世を生きては行けません。私のように鬱になり苦しみ、自らの生命を絶つ人たちが出てきてしまいます。〝もう、これ以上子供たちを殺してはいけない!〟と強く思いました。〝すべての人間は本当の真理を知るべきだ!学ぶべきだ!!〟そのように強く思ったのです。
学校という教育現場で行われるべきは、真理を教えることが最も重要な課題だと思います。
生命、愛、光を、子供たちに教えるべきではないでしょうか。
人間は素晴らしい存在なのだと、「あなたは素晴らしい生命なのだ」と。
子供にとって先生は学校であり、学校は社会であります。社会は人間一人一人の想念の産物だと考えるならば、問題のある子供は究極、現社会を創り出している人間やその象徴である先生や学校を恐れ、不安を感じ不信感を抱いているのだと思うのです。そういった意味を教えてくれるために、学校や社会に出ることが出来ないような登校拒否やひきこもり、働けない者たちに姿を変え、問題提議をしてくれているのではないかと思います。
≪子供と学校との信頼関係≫において大切なことは、子供たちが安心して頼れる「生命を大切にする大人」との関係を構築することが、一番大事なのではないだろうかと思います。
「生命を大切にする大人」そういった大人(先生、親、社会人・・)との関係において初めて、子供たちは安心し信頼を寄せ、そういった大人たちの創る学校や社会に明るく楽しく生きられるのではないでしょうか。
>>>つづく