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【正岡子規・夏目漱石・白洲次郎・吉田茂(2)】      田添明美

2018年11月10日 07時46分38秒 | 「いたずら」田添明美

3)白洲次郎
この本は、運良く捨てられずに残っていた。
「風の男 白洲次郎/青柳恵介」
・大正14年ケンブリッジ大学卒業。親友ロビンとの終生の交わりを結ぶ。
・昭和3年大学院で歴史を学び、学者になろうとしていたが、実家が倒産したため帰国。9年の英国での生活を終える。
 同じ年、妻正子の実家の父の勤め先も倒産し、正子もアメリカから帰国。
・昭和4年樺山(白洲正子)正子と結婚。
 新聞記者の後、商社の取締役に就任。
・昭和12年日本水産の取締役に就任。1年の大半を外国で暮らす。
 麻生和子の母方の祖父が外交官の牧野伸顕、正子の父が樺山愛輔で、二人は親しかった。
 因って、この頃より、吉田茂と親しくしていた。
・昭和15年38才で、仕事から退き、開戦すれば敗戦し、食糧不足になると判断し、鶴川村に移住、農業に専念する。
・昭和20年吉田に請われ「終戦連絡事務局」参与に就任。
・昭和21年「日本国憲法」誕生の現場に立ち会う。「終戦連絡事務局」次長に就任。
・昭和22年「終戦連絡事務局」次長を退任。
・昭和23年初代貿易庁長官に就任。商工省を改組し通産省を誕生させる立案者の中心的存在だった。
・昭和26年東北電力会長に就任。
・昭和34年東北電力会長を退任。
以後様々な仕事を終え、軽井沢ゴルフクラブ理事長を務めた。
・昭和60年83才逝去。

白洲語録は、余りにも有名なので、2点に留める。
(占領期間中、GHQが「従順ならざる唯一の日本人」と本国に連絡した男、そしてホイットニーが
「白洲さんの英語は大変立派な英語ですね」と言った際
「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えた男、)

(天皇の地位を規定していて、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている点は、
さすが外務省きってのわが翻訳官たちも大いに惑わせた。
「白洲さん、シンボルというのは何やねん?」小畑氏はぼくに向かって、大阪弁で問いかけた。ぼくは
「井上の英和辞典を引いてみたら、どや?」と応じた。
やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振りこう答えた。
「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」
新憲法の「象徴」という言葉は、こうして一冊の辞書によって決まったのである)

年を経て、再読し、私の胸に迫った箇所は、次郎とロビンとの別れのシーンだった。
昭和54年、次郎77才。次郎とロビンは、子供のように戯れた。
最後のイギリス旅行になるだろう事を、二人は勿論知っていただろう。
次郎滞在最後の日、タクシーで空港に向かったが、ロビンは、とある駅迄同乗した。
二人の口数が急に減った。座席の前に同乗した女婿の牧山は、カメラを後の二人に向けた。
二人は照れたように笑顔を浮かべ談笑を始めた。
駅に着くと、牧山はドアを開き外に立った。
ロビンは次郎と一寸手を上げるような挨拶をし、そのまま駅へと歩き始めた。
次郎は「何をしてるんだ、早く乗れ」と手を振ってわめいている。
ロビンは背中をみせたまま、どんどん遠ざかって行く。
ロビンは一度も後を振り返らなかった。

私事で、大変恐縮だが、父の親友の事を思い出したので、付記する。
父は高校1年の時、親友に出会えた。
当時その高校は、「新入生への歓迎の平手打ち」というのを、毎年上級生が行っていた。
父は上級生にそれを止めるべきだと反撃し、反撃する度に、上級生から決闘を申し込まれ現場へ一人で直行した。
父の親友は柔道をしており、地獄耳で毎回の決闘日時を聞き出し、毎回現場へ駆けつけた。
そこで、二人と数名か・二人と10名かを忘却したが、毎回父達が勝ち、互いに泥だらけの顔で笑ったそうだ。
そして、その年から、「新入生への歓迎の平手打ち」の伝統は、廃止されたそうである。

親友は、柔道で日本一になった直後に、彼の父親が倒れ、未来の出世や名誉を捨て、故郷へ戻った。
そして、父との交流は続いたのだが、80を過ぎ癌で倒れ、父は盛んに病院へ通ったが。
最後に(来て欲しいと望んでいる)と迎えが来たので、病院へ行くと、親友は、
父を拝むように手を合わせ
「清人さん、今迄ありがとう。先に行って、待っているからなあ。
 次のモルヒネで話せなくなる」と言ったそうだ。
父は、その年、彼の為に、年賀欠礼の葉書を出した。

以上、様々な別れ方があるだろうが
どの別れも
愛しく思える。



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