鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

難経69難による選穴について〜哲学的一般教養の必要性〜

2017-10-01 23:44:23 | 鍼灸理論・東洋医学
 鍼灸・東洋医学にかかわる諸々の問題を考えていくと、一般教養、より正確には哲学のであろうか、の必要性を痛感する。

 これは以前にも説いたことではあるが、鍼灸・東洋医学の世界(に限らないのではあるが)では、何事かを説くときに、あるいは説かれたことを判断するのに、その説の大元であるところの「どのように考えてそのような結論となったのか、そう説いているのか」ということを少しも考えてみることをしないで、結論としての説いたこと、説かれたことの成否をそれ自身から、その結論から判断しようとする。
 それゆえに、その大元となる物事の見方考え方からすると、なんとも稚拙な説を大真面目に果たしてこの説は真なるか、それとも偽なるかと考え込んでしまうことになってしまている。

 例えば、難経69難による選穴法がそうである。専門外の方のために簡単に説くと、難経69難に「然虚者補其母実者瀉其子」と虚実に対しては補瀉すべしとその選穴法が述べられているのであるが、これは経絡ごとに末梢から木火土金水(陰経では、陽経では金水木火土)と五行に対応させて経穴が決められておりその経穴を使って、五行の相生関係を母→子として、たてた証の五臓の虚実にしたがって、例えば、腎虚証であれば、腎は五行では水であるから、その母は金であり、肺であるということになって、その経穴に補法を行うということになる。
 そしてその場合に二つの方法があり、一つは腎経の金にあたる経穴「復溜」への補法であり、もう一つは金の経絡である肺経の、金にあたる経穴「経渠」に対しての補法を行う。あるいはその両方の併用、というものである。(この説明では専門外の方には理解いただけないとは思うが、目的が「難経69難」の解説では無いので……興味のある方は例えば鍼灸学校の教科書である『新版 東洋医学概論』(教科書検討小委員会著 医道の日本社)等をお読みいただければと思う)

 この難経69難の選穴法には、いろいろ問題があると思えるが、それらは要するに「論理のレベルの無視」ということに尽きると思える。より具体的には、一般論である、としては正当性を持つ五行論(説?)を、事実レベルのものとしてしまって、実践の解決に無媒介に持ち込んでしまっている、結果として中身の無い単なる形式主義的な物に、論理遊びに?五行論をしてしまっている。という誤謬をおかしているということが、「その説の大元となる考え方を問う」という発想(能力?)が無いので分からない。
 それゆえに、その説かれることの形式の複雑さに騙されて、何かたいそうな事が説かれているのでは無いか、となっていったり、効果があることが正しさの証明であると、論理の問題を事実の問題にすりかえてしまって、の現実があると思えるだけに、「その説の大元を問うこと」の必要性を、哲学的一般教養の必要性を、それは鍼灸・東洋医学を専門とする者にとっても必須のことであると……。

 本日のブログは、自身の「難経69難」に対しての異和感、気持ちの悪さの中身を明確にとらえ返したい、として書き始めたものなのであるが、その靄のかかったような像を明確にしていく作業を行うことで、五行論、陰陽論という東洋医学の一般論の問題が、それを如何に役立てるべきなのかが、自身のなかで形あるものとなって行きつつあると思える。(そのことで、何故に日本では陰陽論・五行論による「弁証論治」等の東洋医学の実践論?が一般的にならなかったのか普及していかなかったのか、そして何故に中国では、陰陽論・五行論による「弁証論治」等の東洋医学の実践論が一般的になりえたのかということも、なんとなく分かって来たように思える。それは日中の文化、国民性?の違いによるものなのではと思える。これは改めて説きたいと思うが、端的には、中国人が理論は理論、実践は実践と簡単に乖離させて平気な精神性?を持つのに対して、日本人はあくまでも律儀に一つの筋を通したいという精神性?を持つからに他なら無いと思える。)

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