東洋医学の理論~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

土鍋による炊飯〜その論理的捉え返し〜

2016-11-15 07:06:01 | 生活の整え
土鍋による炊飯、その意義について。

半月ほど前から土鍋による炊飯を行っている。炊飯ということを弁証法的に考えると、米と水との相互浸透であるが、ただ米と水とを相互浸透させても、ごはんにはならず、それでは米が水を含んでやがて発芽する、あるいは腐っていくということにしかならないので、水をある程度含んだら(これも相互浸透)、水を沸騰させるという水とガスの火の相互浸透を起こさせると直接に沸騰していく、している水と米との相互浸透を起こさせる必要がある。

その場合に、水と火を直接に相互浸透させるわけにはいかないので鍋や釜という媒介物が必要となるが、何を媒介物とするかで火と、水と米の相互浸透のありかたも違ったものになってくる。アルミ、鉄、ステンレス、陶器、ガラス等々材質によって相互浸透も違ったものとなる。ここでは、鍋と水との相互浸透と火と鍋との相互浸透のそのまた相互浸透となる。それゆえ、全体として見れば、鍋と水との相互浸透と火と鍋との相互浸透のそのまた相互浸透である水と米との相互浸透の過程が炊飯ということになる、と思う。


一方、食というものは生命体と地球=自然との相互浸透の過程であり、そういう意味では出来るだけ人間が加工していないものが理想である。もちろん、人間の場合は雑食であるから食べ物によっては、消化吸収して利用出来るレベルまでの加工は必要とはなるが、その場合とて、なるべく自然から離れ過ぎないことが、手を加え過ぎないことが必要である。

そう考えると、火と、水と米の媒介物となる容器=鍋もまた、あまり加工されていない自然物に近いものが理想ではないか、シリコンやポリプロピレンの容器で電子レンジで調理するのと金属の鍋でガスの火で調理するのとでは違ったものがある、そういう意味で土鍋は、自然=地球そのものである土を焼成しただけのものであるから、人間の食の調理のためには最高の器ではないか、と思う。

炊飯用の土鍋ならば、玄米も簡単に美味しく炊ける。

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