"Das echte Leid gibt einem die geistige Haltung wieder."(眞の苦難は吾人に氣魄を取り戻させる。)
コロナ感染症の影響で(自身も含めて)多くの人が諸々に追い詰められていき、の現在である。しかしながら、それだけに、何があっても悔いを残さないように、可能な限りの努力を!と(何よりも自身の問題として)思う。
鍼灸・東洋医学もまた同様に、その存亡の危機に立たされているのでは、とも(自身には)思えるのだが......。それだけに、かつて西洋医学の前に滅亡しようとした時に「経絡治療」が誕生させられたが如くに、コロナ後に、とも思えるのだが......いかなる事になっていくのだろうか?
さて、書くことの大事性について、その二重の意義について、これまで説いてこなかった、もう一つの意義について自身の理解を説いてみたい。
これまで、「書くことは考えること」として書くことの意義の自身の理解を何度か説いた、例えば、書く事による自身の認識の発展を「絶対精神の自己運動」のミニマム的な一コマとして自身の理解するところを説いてみた。それらは端的には、書くことがアタマの働きを見事にしてくれる、書くことで認識が深まる、レベルアップしていくということであった。しかしながら、書くことには、もう一つの大事な意義がある。それは、自身が為したこと、成したことを、精神・文化として残せる(可能性がある)ということである。
具体的にいえば、鍼灸の名人・達人がいて、誰も真似できないような見事な治療をして、様々な病を片っ端から治しているとして、それはそれとしてお見事なことなのではあるが、通常は、そのことは直接的にすら受け継ぐことが困難であり、ましてその形式は広まることはあっても、その中身までは広まっていかない、まして残ってはいかないものである。(つまり、人類の文化遺産とはならないのが通常である。)
しかしながら、自身が為した、成したことを、どのように考えてそのようなことを為したのかを書くことができれば、その名人・達人が為したことの中身が分かるということにも繋がっていくのであり、成したことの中身も分かることに繋がっていくのであるから、その名人芸が受け継がれていく可能性が、現実性を持つこととなっていく、それだけ自身の為したこと、成したことを書くということは大事なことである。それはまた、その名人・達人にとっても、自身の為していること、成したことを自身でしっかりと見て取れる、ということにもなるのであるから、自身のより見事な発展へとも繋がっていくことにもなっていく、という二重性がある。
ここは、多くの(自身の実践を文章化しようと取り組んだことのない)人は誤解しているかもしれないが、名人芸的施術の中身は、その名人芸を行う当人にとっては、少しも明確では無い筈である。これは例えば、料理の塩加減を何十年の経験の積み重ねで覚えた料理上手の主婦にとっては、この分量の材料には大体これくらいの塩、という捉え方であって、自分にも正確な量はわからないし、まして人に教えることは出来ないものである。人に教えるとなって初めて実際に量ってみると「大さじ一杯」であったとなるようなものである。それだけに通常の名人・達人は、見て覚えろ、技を盗め、となるのである、なるしかない。それだけ、そのモヤモヤとして訳の分からない自身のアタマの中身を書くということは、大袈裟に言えば至難の技なのである。
これは、鍼灸でいえば、ある患者のある部位に鍼を打ったとして、打って病が治ったとして、なぜそこに打つのかということは、なかなかに説明し難いものである。なぜならば、それを説くには、自身のアタマの中の像=認識を追えなければならず、つまり自身のアタマの働きをしっかりと見て取れねばならず、そのことは訓練なしには、つまり書くことの修業無しには、なかなかに出来ないことであるから、である。
また、逆から言えば、自身のアタマの中の像=認識を書けるということは、それなりに自身の認識を追う実力を何かで培っていたということでもあるのだが......。
コロナ感染症の影響で(自身も含めて)多くの人が諸々に追い詰められていき、の現在である。しかしながら、それだけに、何があっても悔いを残さないように、可能な限りの努力を!と(何よりも自身の問題として)思う。
鍼灸・東洋医学もまた同様に、その存亡の危機に立たされているのでは、とも(自身には)思えるのだが......。それだけに、かつて西洋医学の前に滅亡しようとした時に「経絡治療」が誕生させられたが如くに、コロナ後に、とも思えるのだが......いかなる事になっていくのだろうか?
さて、書くことの大事性について、その二重の意義について、これまで説いてこなかった、もう一つの意義について自身の理解を説いてみたい。
これまで、「書くことは考えること」として書くことの意義の自身の理解を何度か説いた、例えば、書く事による自身の認識の発展を「絶対精神の自己運動」のミニマム的な一コマとして自身の理解するところを説いてみた。それらは端的には、書くことがアタマの働きを見事にしてくれる、書くことで認識が深まる、レベルアップしていくということであった。しかしながら、書くことには、もう一つの大事な意義がある。それは、自身が為したこと、成したことを、精神・文化として残せる(可能性がある)ということである。
具体的にいえば、鍼灸の名人・達人がいて、誰も真似できないような見事な治療をして、様々な病を片っ端から治しているとして、それはそれとしてお見事なことなのではあるが、通常は、そのことは直接的にすら受け継ぐことが困難であり、ましてその形式は広まることはあっても、その中身までは広まっていかない、まして残ってはいかないものである。(つまり、人類の文化遺産とはならないのが通常である。)
しかしながら、自身が為した、成したことを、どのように考えてそのようなことを為したのかを書くことができれば、その名人・達人が為したことの中身が分かるということにも繋がっていくのであり、成したことの中身も分かることに繋がっていくのであるから、その名人芸が受け継がれていく可能性が、現実性を持つこととなっていく、それだけ自身の為したこと、成したことを書くということは大事なことである。それはまた、その名人・達人にとっても、自身の為していること、成したことを自身でしっかりと見て取れる、ということにもなるのであるから、自身のより見事な発展へとも繋がっていくことにもなっていく、という二重性がある。
ここは、多くの(自身の実践を文章化しようと取り組んだことのない)人は誤解しているかもしれないが、名人芸的施術の中身は、その名人芸を行う当人にとっては、少しも明確では無い筈である。これは例えば、料理の塩加減を何十年の経験の積み重ねで覚えた料理上手の主婦にとっては、この分量の材料には大体これくらいの塩、という捉え方であって、自分にも正確な量はわからないし、まして人に教えることは出来ないものである。人に教えるとなって初めて実際に量ってみると「大さじ一杯」であったとなるようなものである。それだけに通常の名人・達人は、見て覚えろ、技を盗め、となるのである、なるしかない。それだけ、そのモヤモヤとして訳の分からない自身のアタマの中身を書くということは、大袈裟に言えば至難の技なのである。
これは、鍼灸でいえば、ある患者のある部位に鍼を打ったとして、打って病が治ったとして、なぜそこに打つのかということは、なかなかに説明し難いものである。なぜならば、それを説くには、自身のアタマの中の像=認識を追えなければならず、つまり自身のアタマの働きをしっかりと見て取れねばならず、そのことは訓練なしには、つまり書くことの修業無しには、なかなかに出来ないことであるから、である。
また、逆から言えば、自身のアタマの中の像=認識を書けるということは、それなりに自身の認識を追う実力を何かで培っていたということでもあるのだが......。
これは人類の精神の歴史に見ても、結論のみならず、どのように考えてそのような結論を出したのか?と考えて、それを見て取れる実力(アリストテレス)というものは、ましてそれを文章化すると言うことは、大変な実力であったということからも、と思う。
本当かな?と思う方は、自身のアタマの中身の像(アタマに浮かぶ言葉=知識で無くて)を是非に書いてみていただきたい。論より証拠、であるから。
本当かな?と思う方は、自身のアタマの中身の像(アタマに浮かぶ言葉=知識で無くて)を是非に書いてみていただきたい。論より証拠、であるから。