鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

鍼灸学校での学びはいかにあるべきか(2/2)〜生き生きと臨床をイメージすることの大事性〜

2015-06-07 22:49:27 | 日記
 端的に説きます。生き生きと臨床(=闘い)をイメージしての鍼灸学校の諸々の学びと臨床(=闘い)のイメージ無しでの鍼灸学校での学びはどう違って来て、どう同じなのか?

 まず学ぶものとしては、近頃の専門学校は出席が厳しいので(昔々は 大学、専門学校ともなれば代返というものすらが存在したのですが、今は中学生並みに管理されての学びとなって来ている様です。)まずはどの学生も同じものを同じ様に教わるということになります。
 問題は、つまり違いは、教わったものをどう受け取り、その後どうして行くかということになります。

 例えば、東洋医学概論で「標本」について学んだとします。
 「標本」とは、教科書によれば「・・・・・本は病の本質的な病態を指し、標は結果として現れて来る症状のことである。・・・・・治療に際しては、まずは本の治療を行うことが原則となる。標本の治療については標本同治(標本同じく治す)、あるいは急則治標緩則治本(急なれば則ち標を治し緩なれば則ち本を治す)などがある。・・・・・)」等と説かれます。

 これを読んで臨床経験が少しある場合なら、「そうだよなあ。やっぱり本当の原因をなんとかしなければならないんだよなあ。家の中で座ったきり寝たきりで間食して、韓流ドラマ三昧では膝・腰の痛みや肩凝りが良くなって行く訳が無いものなあ。でも、腰痛や酷い肩凝りで辛いという訴えがあれば、 生活が悪いから生活を正してというだけではなくて、まずは腰痛や肩凝りをなんとかしなければならないというのも間違いではないんだなあ・・・・・。」等々と自身の施術・治療している患者の具体的な生き生きとしたイメージを重ねて理解出来るから、この場合であれば「標本」という見かた考えかたの有効性を感情レベルで分かることが出来、結果として意欲的に学んで行くことが出来る可能性大となって行くと思われます。

 それに対して、全くの臨床経験の無い場合、「『標本』というのは、要するに症状と原因ということか。原則が本の治療で、標本同治(標本同じく治す)、あるいは急則治標緩則治本(急なれば則ち標を治し緩なれば則ち本を治す)という場合もあるんだな。これで国試は完璧!」と知識的に理解して終わりで、それ以上の深まりも無く、意欲も湧かないということになってしまいかねません。

 そういうことが、東洋医学概論、はりきゅう理論はもちろん、解剖・生理学、臨床心理学、鍼灸実技というすべての学びにわたって存在しかねないということです。
 結果として、鍼灸学校を卒業して臨床の場に立って初めて、どう診断治療していくかに迷って初めて、「東洋医学概論(に限りませんが)をもっとしっかり勉強しておけば良かったなあ!」となってしまいかねないということです。

 要するに、生き生きとした実際の診断治療のイメージを持って学んで行くこと無しには、鍼灸学校の学びも、単なる国試対策にしかなりえない、学校を出て資格を取ったけれども・・・・・となりかねないということです。

 それ故に、臨床の場を持ち得なかった、持ち得ない学生は、もちろんそうでない学生もですが、家族や友人を相手の簡単な体調不良の診断治療を行うということ等を行うことで、学ぶことの実際の使う場面を生き生きとイメージする努力は是非にも行わねばならいと思います。

 そういう意味では、昔々は、学生ということで、実際の診断治療が公然とではないにしても可能であることもあったと聞くと、学ぶ環境としては昔は良かったなあと・・・・・。

 

 


 


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