鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

『恩讐の彼方に』を読む〜信仰とは何か〜

2020-05-12 22:32:00 | リハビリ室閉鎖中の日記
 『恩讐の彼方に』(菊池寛)を、本来の信仰とはのリアルなイメージを描かせてくれる書である、と感動とともに読んだ。像として理解することの大事性、実感する。

  「信仰と学的観念の違いは何かを説けば、観念というのは、客観的世界を頭脳活動としてアタマの中に宿すことです。そして信仰というのは、逆に自分の信仰としての思いを客観の世界、つまり外界に創っていくことです。確かに信仰は何かを信じることであり、信じて敬う対象を外界に求めていくのですが、学問は信じて敬うものでは全くないのです。つまり、自分から外へと思いを致して、それに自分の心を向かわせるのではなく、森羅万象である外界が、まともに自らの五感器官へと反映できるように実践することから始まり、そしてそれを意図的に頭脳の中で現象化から表象化、そして抽象(論理)化していくことにあるのです。一言では、外界である客体の、頭脳への論理的な収納です。」と南郷継正は、信仰と学的観念の違いを『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第三巻』(現代社)で説いてくれる。

 ここに説かれる「信仰」ということ、言葉としてはよく分かる、と思えるものの、「信仰というのは......自分の信仰としての思いを客観の世界、つまり外界に創っていくこと」と説かれること、分かったようで、もう一つ明確なイメージとして描けないものであった。強いて描いてみれば、キリスト教の大聖堂等の建造物とか戒律に従った生活とのイメージであった。

 しかしながら、信仰とは?の問題意識を持って、『恩讐の彼方に』を読んでみると、そこに描かれる了海の姿に、「自分の信仰としての思いを客観世界に創っていくこと」とは、まさにこういうことなのだと、生き生きと強烈なものとしてイメージが描けた、との思いがした。了海は、「衆生済度」という信仰としての自身の思いを山国谿の大岩壁を刳り貫くことで、客観の世界に「青の洞門」として創ったのだ、と。

 そういう意味では鍼灸・東洋医学も、その学びのあり方から、信仰を常識レベルで揶揄して用いられる、確たる根拠も無しに訳も分からずにただただ信じているだけ、というのでは無しに、本来の信仰レベルへの、と成っていかねばならないのだと......。


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