金元四大家について学ぶ中で、東洋医学の理論というものは、現実の施術と独立にある机上の空論に近いものなのでは無いのか?と思えて来た。
「金元四大家」について教科書では、「D.金元明清の医学」の項で以下の如くに説かれている。
「唐の衰退以降…(中略)…金、蒙古(モンゴル帝国、元王朝)の征服王朝の時代に入る。この時代には医学理論の再構築が行われ、金元四大家と呼ばれる学派がうまれた。代表的なものを紹介する。
劉完素(劉河間)は『素問玄機原病式』(1186年)などを著し、寒涼派の代表で、病の発病・転帰は熱が原因であるため、寒涼薬を用いるべきだとした。張従正(張子和)は『儒門事親』(1217年)を著し、汗法、吐法、下法といった攻撃的な治療法を重視したので攻下派と呼ばれる。この2つは劉張医学と称され治療は瀉法に重点を置いている。
李杲(李東垣)は『脾胃論』(1249年)などを著し、脾胃を補うことを重視したので補土派と呼ばれた。朱震亨(朱丹渓)は『格致余論』(1347年)などを著し、陰の不足を補う治療を主としたので養陰派と呼ばれた。この2つは、李朱医学と称され、治療は補法に重点を置いている。」(新版 東洋医学概論 公益社団法人東洋療法学校協会編 教科書検討小委員会著 医道の日本社)
教科書(上記の引用部分)を読んで自身のイメージしたのは、「金、元という時代に瀉法派と補法派の二大流派があって、前者の代表が「劉完素ー張従正」で、後者の代表が「李杲ー朱丹渓」であった。そして、そのそれぞれが、瀉法を主とした施術体系、補法を主とした施術体系を持っていた。」ということであった。
しかしながら、「金元四大家は、中医学の体系的理論の直接の原点」との同僚の鍼灸師氏の言から、「中医学=東洋医学の最初の理論的展開という意味での原点、東洋医学の始まりは「素問」「霊枢」であっても、しっかりとした理論体系という点での直接の原点は「金元四大家」なのか、つまり、人間の大元の原点は単細胞体であっても、その三重構造の原点が魚類体である。というようなことか?」との思いとなって、「金元四大家」についてもう少し学びを深めておきたいと考えて、『中国鍼灸各家学説』(主編:魏稼 東洋学術出版社)でそれぞれの理論と施術について学び、ついでに中国医学の歴史を治療家の歴史としても学んでおきたい、とも考えて読み始めて見ると、自身の教科書からのイメージと現実?は、大きく違っていると思えた。
「金元四大家」である、劉完素、張従正、李杲、朱丹渓について読んでまず思った(驚いた)ことは、その理論は確かに教科書に説かれる如くに、劉完素(寒涼派)、張従正(攻下派)、李杲(補土派)、朱丹渓(養陰派)で、前二者が瀉法派、後二者が補法派であるとして良いのかもしれないが、施術=実践としては、全員が「刺絡・瀉血」(=瀉法の最たるもの)を行う、補法派であるはずの李杲、朱丹渓も……等と施術の実践としては、時代の鍼灸という大枠でくくれるものである、ものでしかない、ということであった。
端的には、理論と実践は相対的独立である、あるいは、鍼灸もまた時代の鍼灸であるということなのであろうが……自身には、理屈は違ってもやってることは同じ、逆から言えば、施術=実践としては同じことで要は如何なる目的意識でやっているかの違いでしかない、と思えた。
また、これまで東洋医学の学びに必要なのは、東洋医学の理論の歴史の学びとの思いがあったのであるが、それとは相対的独立に存在する、東洋医学の実践の歴史の学びが必要なのでは無いのか?とも思える。
これは、「生命の歴史」が「生命」そのものの歴史としてでは無く「生命体」の歴史として説かれて(究明されて?)いるのと同じこと、なのでは……とも思える。改めて説きたい。
「金元四大家」について教科書では、「D.金元明清の医学」の項で以下の如くに説かれている。
「唐の衰退以降…(中略)…金、蒙古(モンゴル帝国、元王朝)の征服王朝の時代に入る。この時代には医学理論の再構築が行われ、金元四大家と呼ばれる学派がうまれた。代表的なものを紹介する。
劉完素(劉河間)は『素問玄機原病式』(1186年)などを著し、寒涼派の代表で、病の発病・転帰は熱が原因であるため、寒涼薬を用いるべきだとした。張従正(張子和)は『儒門事親』(1217年)を著し、汗法、吐法、下法といった攻撃的な治療法を重視したので攻下派と呼ばれる。この2つは劉張医学と称され治療は瀉法に重点を置いている。
李杲(李東垣)は『脾胃論』(1249年)などを著し、脾胃を補うことを重視したので補土派と呼ばれた。朱震亨(朱丹渓)は『格致余論』(1347年)などを著し、陰の不足を補う治療を主としたので養陰派と呼ばれた。この2つは、李朱医学と称され、治療は補法に重点を置いている。」(新版 東洋医学概論 公益社団法人東洋療法学校協会編 教科書検討小委員会著 医道の日本社)
教科書(上記の引用部分)を読んで自身のイメージしたのは、「金、元という時代に瀉法派と補法派の二大流派があって、前者の代表が「劉完素ー張従正」で、後者の代表が「李杲ー朱丹渓」であった。そして、そのそれぞれが、瀉法を主とした施術体系、補法を主とした施術体系を持っていた。」ということであった。
しかしながら、「金元四大家は、中医学の体系的理論の直接の原点」との同僚の鍼灸師氏の言から、「中医学=東洋医学の最初の理論的展開という意味での原点、東洋医学の始まりは「素問」「霊枢」であっても、しっかりとした理論体系という点での直接の原点は「金元四大家」なのか、つまり、人間の大元の原点は単細胞体であっても、その三重構造の原点が魚類体である。というようなことか?」との思いとなって、「金元四大家」についてもう少し学びを深めておきたいと考えて、『中国鍼灸各家学説』(主編:魏稼 東洋学術出版社)でそれぞれの理論と施術について学び、ついでに中国医学の歴史を治療家の歴史としても学んでおきたい、とも考えて読み始めて見ると、自身の教科書からのイメージと現実?は、大きく違っていると思えた。
「金元四大家」である、劉完素、張従正、李杲、朱丹渓について読んでまず思った(驚いた)ことは、その理論は確かに教科書に説かれる如くに、劉完素(寒涼派)、張従正(攻下派)、李杲(補土派)、朱丹渓(養陰派)で、前二者が瀉法派、後二者が補法派であるとして良いのかもしれないが、施術=実践としては、全員が「刺絡・瀉血」(=瀉法の最たるもの)を行う、補法派であるはずの李杲、朱丹渓も……等と施術の実践としては、時代の鍼灸という大枠でくくれるものである、ものでしかない、ということであった。
端的には、理論と実践は相対的独立である、あるいは、鍼灸もまた時代の鍼灸であるということなのであろうが……自身には、理屈は違ってもやってることは同じ、逆から言えば、施術=実践としては同じことで要は如何なる目的意識でやっているかの違いでしかない、と思えた。
また、これまで東洋医学の学びに必要なのは、東洋医学の理論の歴史の学びとの思いがあったのであるが、それとは相対的独立に存在する、東洋医学の実践の歴史の学びが必要なのでは無いのか?とも思える。
これは、「生命の歴史」が「生命」そのものの歴史としてでは無く「生命体」の歴史として説かれて(究明されて?)いるのと同じこと、なのでは……とも思える。改めて説きたい。