東洋医学の理論~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

「パッチ・アダムス」〜上達論的見地から考える鍼灸術の学びかた〜

2015-05-27 07:31:44 | 解剖生理学・その他
 「臨床心理学」の授業で映画「パッチ・アダムス」観、その後に、医療従事者と患者との関係性は如何にあるべきかを説いていただきました。

 映画では、主人公パッチの「医者は患者とふれあうことが、心の交流が何よりも大事!」として、大学のルールを無視して実習病院に入り込み患者を笑わせようと関わって行く姿が描かれ、それと対比する形で、「医者は患者から権威ある存在として仰ぎ見られる様にならねばならない。そのためには感情を殺して患者に接する必要がある。最後に患者が求めるのは友達ではなくて医者なのだ。」との学部長ウォルコットの主張が描かれて、両者の確執を描く形で話は進んで行き、最後は主人公パッチの勝利となるのですが・・・・・。

 これに対して、主人公パッチの主張も学部長ウォルコットの主張もどちらも正しい。どちらの態度が良いかは条件次第であり、要は問題の起こらない様な関係性を患者との間に築くことが肝心であるとして、そこを<転移>(フロイト?)の問題として説いていただきました。

 にもかかわらず、映画を如何に捉えておくかについて自身の中では釈然としない思いがありました。その思いの中味を考えて見るとそれは端的には、この映画で描かれていることには上達論の視点が無い、物事の過程性が無視されているということです。

 医師の専門性とは患者の<診断・治療>ですから、医科大学の学生は、まずはその実力をつけるべく学ばねばならないと思います。そういう意味では、しっかりと基礎医学の学びを行なって3年時に病棟実習で臨床を学ぶという映画で描かれるシステムは正当な順序であると思います。
 ただし、基礎医学の学びを単なる知識では無しに、実際の生きた患者の<診断・治療>に役立つものとして行くための学ぶとするには、学びの当初に医師像を一般的に描かせる必要がある。そういう意味で、また基礎医学を学んだ後の臨床の学びとしては、主人公パッチの言う様に患者と関わることの大事性はいくら強調してもし過ぎるということは無いと思えます。(とは言え、主人公の扮装しての悪ふざけが通用するのはアメリカの社会の持つ特殊性ではないかとは思えますが・・・・・。)

 そういう意味で、上達論的には学部長ウォルコットの主張も主人公パッチの主張もどちらも正しいし、逆にどちらか一方だけでは誤りとなってしまうのだと思えます。にもかかわらず映画では、学部長ウォルコットが正しいのか主人公パッチが正しいのか<あれかこれか>とやって、結局は主人公パッチの勝利になって終わるので、観終わって何か釈然としない思いが残ってしまったのだと・・・・・。

 上記の内容は、鍼灸術の学びにおいても全く同じことがある筈です。「医学教育概論(1)〜(5)」(現代社)の一読をおすすめします。

 

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