K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

持つべきものは友!

2008-12-23 21:06:28 | どうでもよいこと
いやはや、何とかロンリーオンリークリスマスイブを避けることができそうです。

やっぱり友というのはよいものですな~
その模様は後ほど書くかも。

英語による授業?

2008-12-23 11:48:43 | 日本情勢
日本のニュースをインターネット見ていたらこんな記事が目に入った。
「13年度から高校において英語で授業」
どれほど日本でニュースになっているのか分からないけど、気になったので簡単に私見を述べてみることにする。
(ちょっとニュースで読んだだけなので、もしかしたら若干間違った情報を基に議論をしているかもしれないけど、その場合はご容赦を。)

そもそも、日本の官僚制の議論は全くもって的外れなことが多いので、あまり批判ばっかりしたくないのだが、今回ばかりは文科省はかなり本末転倒なことをしたなと思う。新学習指導要領の実行可能性についてかなり疑問があり、おそらく成功しないだろう。

そもそも目的は「使える英語」の育成、すなわちコミュニケーション能力の向上にあるらしい。おそらく目的の方向性は間違っていない。日本人の学生のスピーキングやリスニングの能力ははっきりいって相当ひどいものがある。一流の大学を出ても、国際的な交渉や議論ができる学生は一握りしかいない。これは他の国と比べて非常に特異であり、日本の国際的なプレゼンスを下げかねない。だがこの指導要領には、以下の点について問題がある。

第一に、コミュニケーション能力に対するインセンティブをいかに与えるのか分からない。日本における英語の勉強は基本的にテスト重視の形をとっている。「優秀」といわれる学生たちは、各レベルの入学試験にむかって勉強せざるを得ない。しかし、その試験が文法や読解重視である以上、コミュニケーション能力向上のインセンティブは一定以上に達するとは考えがたい。一方で、英語を苦手とする学生は授業が英語化することをいかに感じるだろうか。おそらく余計英語から離れていってしまうのではないかと思う。

第二に、教室の授業でほんの少しの英語を使うことが「使える英語」育成につながるのかよく分からない。そもそも「使える英語」とはどのレベルを指すのかを定義しないまま、感覚だけで「使える英語」といっている気がする。ただ単に、自己紹介ができて、マクドナルドで買い物ができるのが「使える英語」といえるのか。いえないのなら、教室の授業でどのようにそれ以上のレベルに達するのか。非常に疑わしい。

第三に、日本人自体が英語を苦手とするので当たり前なのだが、英語教師がしっかりコミュニケーションを指導できるのか、極めて疑問だ。ニュースで読んだ限りでは無理なら「ページをめくって」という簡単なことからでいいという。それで本当に意味があるのか。そこまでひどくないにしても、しっかり正しいスピーキングやリスニングを指導できるほどレベルの高い教師がどれほどいるのだろうか。

結論としては、日本の指導要領の変更は、語学のインセンティブ向上という最も重要な要素をおざなりにして、表層の機能だけを変更しようとしている。しかし、問題は学生のインセンティブがコミュニケーション能力に向かわない社会的な構造にある。インセンティブがなければ、語学は成長しない。文科省には数々の入試を経験してきたエリートの官僚もいるだろうに、なぜこんな基本的なことが分からなかったのか、少し情けなく思う。