醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  302号  白井一道

2017-01-24 11:14:27 | 随筆・小説

 草臥れて宿かる比や藤の花 芭蕉

句郎 「草臥れて宿かる比や藤の花」。この芭蕉の句、いまいちピンとこない。こんな感じがするよね。でも、名句だと多くの俳人が言っているようだ。
華女 そうなのかしらね。「草臥(くたび)れて」が良くないように思うのよ。
句郎 『三冊子』の中に「此句、始は「ほとゝぎすやどかる比や」と有。後直る也」とあるから初案は「ほととぎす宿かる比や藤の花」を推敲し「草臥れて宿かる比や藤の花」にしたようだ。
華女 「ほととぎす」の句だったら夏の句になるわね。
句郎 そうなんだ。『笈の小文』の中では「草臥れて」の句の後ろに「春の夜や籠リ人ゆかし堂の隅」の句が置かれているからチグハグになってしまう。
華女 それが理由で「ほととぎす」を「草臥れて」に変えてしまったの。納得ではないわね。
句郎 逆じゃないかと思うんだけれどね。「ほととぎす」を「草臥れて」に推敲した結果、「春の世や」の前に「草臥れて」の句を置いたのではないかと思うんだけどね。
華女 「ほととぎす」じゃ、句になりないと芭蕉は感じたのね。
句郎 そうなんじゃないのかな。「大和行脚のときに丹波市とかやいふ處にて日の暮かゝりけるを藤の覺束(おぼつか)なく咲こほれけるを」と前書きして「草臥れて宿かる比や藤の花」と『泊船集』にあるそうなんだ。
華女 春の夕暮れ覺束なく藤の花が咲きこぼれている。この姿がまるで春の日中を歩き疲れてへたっている自分のようだと思ったということなのかしら。、
句郎 風に揺られる藤の花が春の夕暮れ、頼りなく咲きこぼれている。この藤の花に芭蕉は癒されている。そのホッと一息ついた、その刹那を詠んだ句なのじゃないかな。
華女 「草臥れて」という言葉が芭蕉じゃないように思ったんだけれど。
句郎 そうだね。芭蕉は泣き言を言ったり、ぼやいたりしないよね。
華女 泣き言など、句にはならないわ。
句郎 芭蕉は自分の体が弱ってきていることを実感し始めていたんじゃないのかな。そのおぼつかなさのようなものを表現しようと思ったのかもしれないなぁー。
華女 私、江戸川の土手を宝珠花橋から関宿まで歩いたことがあるのよ。往復よ。歩き疲れて終わった時の晴れがましい気持ち、分かるのよ。
句郎 山登りで頂上を極めたときの気持ちのようなものかな。
華女 草臥れそのものが癒しなのよね。こぼしじゃないのよ。充実感なのよ。
句郎 きっと、芭蕉もそうだったんじゃないのかな。だから「ほととぎす」じゃ、歩き疲れた充実感や癒し感のようなものが表現できないと感じたんじゃないのかな。
華女 そうなのかもしれないわ。夕暮れの藤の花、春の夕暮れ、体を動かした快い疲労感、いいんじゃないの。
句郎 今日は歩き疲れたとこぼしているように読んでしまうとこの句の良さが分からないのかもしれないなぁー。
華女 そうかもしれないわ。歩いて道々楽しかった。歩くことがこんなに自分の命が輝くことはないとということよね。
句郎 きっとね。