醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  291号  白井一道

2017-01-13 12:58:30 | 随筆・小説

 俳句は老後の楽しみ

句郎 「俳諧は老後の楽しみ」と今から3百年も昔に芭蕉さんは言っていたようだよ。
華女 へぇー、現代でも通じる言葉ね。
句郎 そうでしょ。さらに「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」とも言っていたらしい。
華女 確かに、そうよね。俳句を詠んで生活できるわけないものね。俳句は夏の火鉢、冬の扇子よね。だからといって世間様に背くようなことは何もありませんということかしらね。
句郎 生活のため、お米を得ることもしなければ、鍬や犂を作るともしなかった。ただ「四季の変化をしり、天地の本情」に遊ぶきっかけが提供できたかもしれないぐらいです、というようなことも言っているようだよ。
華女 芭蕉は自分がしていることは遊びだと思っていたのね。
句郎 生活のためにはならないということを知りながら俳諧の道に芭蕉は入っていった。そういう事って今でもあるんじゃないかな。ギターを弾いている男の子がいる。大学には行かない。ギターを弾き、曲を作っていくんだと大宮駅前のスロープの上で毎日、高校卒業後夕方になると自分の作った歌を唄っていた男の子がいた。アルバイトをしては夕方になるとギターを弾いていた。
華女 で、その子はその後、どうなったの。
句郎 一年間、ギターを弾いていたが、自動車整備学校に進学し、親父の跡を継いで自動車整備工場で仕事をするようになった。
華女 初志貫徹できなかったのね。
句郎 うん、でもね。彼がギターを弾いていると毎日、彼のギターを聞きに来てくれた女の子がいたそうなんだ。その彼女と彼は結婚し、真面目な自動車整備士として一家を構える常識人になった。
華女 ほほえましい話ね。
句郎 そうなんだ。彼には自動車整備士への道があったから良かったけれどね。芭蕉にはそのような道が何もなかった。
華女 江戸時代、農民身分の者が江戸に出て来てつける仕事というと何なのかしら。
句郎 丁稚がいいほうなんじゃないかな。丁稚になるには十歳ぐらいの子供からだろうから、芭蕉が江戸に出てきたのは二九歳だからね。ほとんど、仕事らしい仕事にはつけなかったんじゃないかな。
華女 だから、芭蕉は俳諧に命を懸けたのかもしれないわね。
句郎 生活のたしにならない俳諧の道に入っていった。元禄時代は商業が発展していた時代だったから、生業を息子に譲り、余暇を得た老人の遊び、俳諧宗匠として生きる道を切り開こうとしたんじゃないのかな。
華女 暇な老人の遊び相手になったのね。
句郎 まぁー、一種の太鼓持ちなのかな。悪く言えば男芸者。芸能者が俳諧師だった。今も昔も芸能の世界は身分差別は少ない社会だ。有名な女性の演歌歌手は芸能プロダクションの男の社長を首にする。力のある者が誰からも敬われる。これが芸能の社会だからね。俳諧の力を持った芭蕉は江戸時代の身分社会を生き抜くことができたのじゃないかな。「俳諧は老後の楽しみ」。芭蕉の言葉。