醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  280号  白井一道 

2017-01-01 15:40:00 | 随筆・小説

 
 「元日や手を洗ひをる夕ごころ」 芥川龍之介

 俳句は写生と聞いたが、この句は写生じゃないなぁー。写生とは何なの。

 句郎 先月、孝夫さんが事実と俳句の事実は違うということを説明していたよね。どう違うのか、分かったのかな。
華女 もちろん、分かったわよ。分かったなんて、失礼じゃないの。
侘助 そうだよね。写生とは、どういうことを言うのか、結構、難しい問題があるようにも思うんだけどね。
華女 写生は写生でしょ。正岡子規が言ったことなんでしょ。高校の頃、美術の先生が言っていたわよ。見えるように描きなさいとね。言っていたわよ。自分の目に見えたように描くのが写生でしょ。小学生にも分かることよ。
句郎 そうだよね。問題は見えるように木だって、葉っぱだって、鳥だって、飛んでいる蜻蛉だって見えるようには描けないんだよね。
華女 そりゃ、そうね。飛んでいる蜻蛉を見えるように絵に描くなんて、そう簡単には描けないわね。
句郎 見えるように描けるようになるには訓練が必要なんだよね。
華女 そりゃ、そうでしょ。だから絵描きはデッサンなんかして修行しているんじゃないの。
句郎 きっと文章でも同じことが言えるんじゃないのかな。
華女 文章もと、言うことは俳句も同じだということなの。
句郎 そうなんじゃないかな。私も同様でね、分かっちゃいるけど、できないからね。
華女 空っぽの蜂の巣に二匹の蜂がいるのを見つけ、そのまま詠むことが写生じゃないと孝夫さんは述べていたわね。たとえ本当に二匹の蜂が空っぽの蜂の巣にいたとしてもね。
句郎 写生とは事実をそのまま詠むことではないんじゃないかな。
華女 写生とは事実をそのまま詠むことではないのね。
句郎 見た事実を詠まなければ写生じゃないからね。事実を詠むんだけれども、目に入る事実は無限にあるでしょ。だからその無限の事実の中から何を選び取るかということなんじゃないかな。
華女 だから空っぽの蜂の巣に二匹、秋の蜂がいたと詠んだんじゃないのかしらね。
句郎 でも、それでは句にならないと孝夫さんは言っていたよ。多分、秋の蜂を表現するため空っぽの巣に二匹の蜂がいたことに作者は秋の蜂の姿を見たのかもしれないけれども、それでは秋の蜂を表現していないということなんじゃないのかな。
華女 問題は「秋の蜂」を表現することなのね。
句郎 「冬蜂の死にどころなく歩きけり」という村上鬼城の句があるでしょ。よたよた歩いている冬蜂の姿に鬼城は冬蜂の本意を見たんじゃないかな。
華女 じぁー、「空っぽの巣」の句は「秋の蜂」の本意を詠んでいないと孝夫さんは言ったのかしら。
句郎 そうだと思うけど。「蜂」の季は春でしょ。咲き始めた花に群がる蜂の姿には若々しい活力が漲っているけれども秋の蜂の巣は抜け殻になってしまっている。その侘しさ、寂しさのようなものをどう表現するかということが俳句を詠むということなのかもしれない。
華女 なるほどね。帰る宿を失った秋の蜂という視点はとても良かったんじゃないのかしらね。
句郎 確かに、そうだよね。だから写生は難しい。