醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  287号  白井一道

2017-01-09 12:42:04 | 随筆・小説

 俳句を見てもらうと説明だと 

華女 野火句会の新年会は楽しかった?
侘助 うん、主宰者の孝夫さんは「行きも帰りも羽子板市の中通る」という句を特選に選んだ。
華女 何でもないただ事のような句ね。
句郎 一見するとそんな感じを受けるよね。でもそうじゃないようなんだ。
華女 年の瀬の羽子板市が表現されているのかしらね。
句郎 そうなんだ。「行きずりの人とも会話初参り」という句を詠んだ人がいた。この句は報告になっている。句になっていないというような説明をしていた。この説明に納得したな。
華女 そういうことなのね。
句郎 羽子板市が行われる近所に住む住人が用足しに「行きも帰りも羽子板市の中を通」って帰ってきた。その羽子板市では羽子板の人形を眺めて通ったに違いない。賑わいや知り合いに出会い、挨拶をかわしたかもしれない。そのようなことがすべて省略されている。ただ事実だけを述べ、羽子板市を表現した。だから俳句になっていると孝夫さんは主張していたのだと思ったんだ。
華女 どうしても余計なものを言いたくなってしまうのよね。
句郎 そうだよね。どうしても余計な言葉を使いたくなってしまうんだよね。
華女 そうよ。言わないと伝わらないと思ってしまうのよ。
句郎 「行きずりの人とも会話」。これは確かに報告というか、説明しているよね。説明では俳句にならないということのようだよ。
華女 説明でなく表現をしなくちゃ俳句にはならないのね。
句郎 そうなんだろうな。「雲雀より空にやすらふ峠哉」という芭蕉の句があるんだ。芭蕉は初め、「雲雀より上にやすらふ峠哉」と詠んだ。その後、推敲し「上に」を「空に」にした。なぜ芭蕉は「上に」ではなく、「空に」にしたのだと思う?。
華女 「上に」の方が分かりやすいようにも思うけれど。
句郎 「に」という助詞は使い方によって説明的になってしまうという話を聞いた。正木ゆう子という俳人が「すなどりの孤舟の上に寒昴」というNHK投稿俳句を「すなどりの孤舟の上の寒昴」と添削していた。その理由は「上に」は説明だと述べていたよ。
華女 確かに、「上に」だと説明のようにも思うわね。
句郎 そうでしょ。だから芭蕉は「上に」では報告というか、説明しているなと感じたんじゃないのかな。表現になっていない。そう感じて「上に」を「空に」と推敲したんじゃないのかな。
華女 芭蕉は三百年も前に現代に生きる人々にも大きな影響を与えているのね。
句郎 空高く舞い上がりなく雲雀より高い空に一服していると芭蕉は詠んだ。
華女 正に、俳句ね。
句郎 説明と表現。ちょっとの違いがある。それがなかなか分からない。どうしても説明して俳句を詠んだつもりなっている。だから余計な言葉を付けてしまう。自戒、自戒だ。
華女 説明だと余韻がでないのじゃないの。
句郎 そうなんだよね。表現してこそ、感動とか、余韻とかが響いて、隣の人にも伝わるということ