今日も 思い出し笑い

気の向くままに…
思いついたことを書いているブログです。
🍭🫤🤭😳🥲

夢を夢見る

2022年02月23日 | 🩺夫の病気・ALS

   Back to the Future』

 

此のところ、ずっと夢なんて見なくなっていたのですが。

それが、最近 浅い眠りなのか、よく夢を見るようになって、何故か 病院の夢ばかりです。怖い、寂しいと言う夢ではないのですが・・・

 

主人が(ALS筋萎縮性側索硬化症)を長年病んで、4年程前に他界)入院していた頃のターミナルケア(終末期医療)の病棟がいつも出てくるのです。

その病棟にお世話になったのは、まだ主人が元気な頃で、と言ってももう病気は進行していて、歩くのもおぼつかなくなって 車椅子でしたが。

まだ自宅で 私が主人の介護をしていた頃です、私の糖尿病が極端に悪化して、私の入院が必要になったため、何処かで主人を預かってもらわなければなりません。

当時の主治医先生が見つけてくださって、それが軍隊の病院のターミナルケアの病棟でした。軍隊の病院ですが、一般の人も普通に診察を受けることができますし、入院もできます。

   

その病棟はとても静かで、人を見かける事もあまりありません。病室はもう余命幾許かの人たちしか入っていないので、恐ろしいほど静かでした。

一般の人は車では敷地内に入ることはできませんが、ターミナルケアの病棟に行くと言えば 検問を車で通過できます。🚙💨

病院の敷地はとても広いので、私はソレを使わせてもらっていました。私の入院は2週間ほどでしたが、私も休める様にと主治医先生の計らいで、主人は確か3ヶ月ほどそこのお世話になりました

 

   

 

毎日 病院には通っていましたが、ある日のこと、「ターミナルケア」をフランス語でなんと言うか?ど忘れしてしまって出てこないのです。😶‍🌫️

軍服を着た門番に訊かれて、お見舞いなら敷地外の駐車場になります、と敷地に入ることは断られました。

Uターンして門の外に出た時、今日は行くのやめよう〜という気になり、家に戻ってからその件を主人に電話し、今日は行かないと言いました。たまには休もうっと。

 

🌺 ところがその直後、なんと!病院の院長先生から電話があり、大変に申し訳ない事をしてしまいました、門の係の者には充分注意する様言い聞かせました、と。

姿は見えませんが、深々とお辞儀されて話されてる様な、こちらが恐縮するほど謝られたのです。私が面会ですと言ったためであり、本来、門番に問題はないのですが。

私も冷や汗の出る思いでした、院長先生をこんなに謝らせて・・・スミマセン。

 

   

 

今までにも、このことは何回も夢に出てきて、私は夢の中で冷や汗をかいているのです。それが最近また夢に出てくる・・・

 

映画『Back to the Future』みたいに過去や未来に行ったり来たりできるのなら!過去に戻って その辺りをやり直したい。

あの映画は過去も変えれる人間の究極の願望「夢」ではないかと。(*˘-˘*)..:* ஐ 

 

       

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「ALS」と「パーキンソン病」

2020年02月08日 | 🩺夫の病気・ALS

初め 夫は「パーキンソン病」ではないか⁈  と想定され 投薬が試されていきました。転びやすい事など 症状がいくつか似ているからでした。

パーキンソン病は やはり脳の異常のために、体の動きに障害があらわれる病気です。手足 または全身の震えが起こる事くらいですが 私もこの病気の事は知っていました。

1817年に イギリスのドクター・パーキンソンによって最初の患者が報告され このドクターの名前を取って 病名になったようです。 病気が確認されたのは 200年も前なんですね!

 

                   ☘          ☘          ☘          ☘          ☘

 

まもなく、パーキンソン病の協会(アソシアション)があるから 会合に参加してみたら と勧められて 夫はもちろん 私も入会しました。

一回目に参加した会合には 車椅子の方が2名ほどいて 直ぐこの方が御病気なんだと分かりましたが。全体で20人ほどいる中 どなたがパーキンソン病の方で どなたが付き添いの方なのか ぱっと見 分かりませんでした。

パーキンソン協会の責任者は50代くらいの女性でした。ご主人が この病気を患っていた事から 活動を始められたようです。病気が分かって3年くらい経つと聞いても この方のご主人も 体の震えのようなものは全くなかったです。車の運転もされ お仕事も普通にされていました。

いわゆる 車座になってお喋りしたり 時には 紙を使っての工作みたいな事をする日もありましたね。とてもみなさん明るくて どこどこにスペシャリストの教授がいるなどと 情報ももらえて 何しろ 何年も病気を持っていても ほぼ普通に暮らせる様子を見て 私たちも 希望がありました。

しかし、ある日 主治医から 病名が特定された事を知らされました。「ALS」(筋萎縮性側索硬化症) だと言うのです。「残念ながら パーキンソン病ではありませんでした。」と。

パーキンソン病なら 良い特効薬が開発されていて 病気の症状を抑えて より長く生きれるよう研究が進んできているそうです。それでも パーキンソン病だって いずれは体の機能を失われていく大変な病ですが・・・。 残念ながら って⁈  その意味は後々 だんだん分かってきましたが。

 パーキンソン病のアソシアションからは 相変わらずお知らせが届いていました。食事会があったり ダンスパーティのお知らせなんかも来ましたね。もちろん 脱会のお知らせをしました・・・

 

                    🍬        🍬        🍬        🍬        🍬

 

つい最近のニュースで、『パーキンソン病の患者3人に「iPS細胞」移植 経過順調』という報道を目にしました。

山中教授の研究は着々と進められてるんだなあ、凄いなあ、良かったなあ と思うとともに、パーキンソン病の 200年っていう 年月を思うと 複雑です。人間の脳は 摩訶不思議な なかなか入り込めない世界なんですね、時間が掛かるんですね……。☘

 

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フランスの個人主義のせい?!

2020年02月07日 | 🩺夫の病気・ALS

今日も夫の事です。

夫の病気の事は 書けば書くほど 解放され 気持ちも軽くなるかと思いきや、 なんだなんだ 段々 暗く重い気持ちになっていくようです。忘れかけていた嫌な事が思い出されるからでしょうか。でも、どんどん出てきてしまうので 続けます。

 

夫の闘病中の約10年間、最も寂しく辛かったのは 同じALSの病気の人 そして 介護に当たっているであろうご家族など、ただの一人にも会えなかった事です。

🇫🇷  病院の医者や施設の人やら あらゆる機会に 何かアソシアションのような活動はないのか⁈ 会いたい旨 訴えましたが 不可能でした。ALSの患者、家族も あなたのように会いたがる人はどこにも居ない と。

🇯🇵  日本は ALS患者でブログをしている方もいましたし 各種会合もあったり 講演会もあったり・・・ネットで 地球の向こうを 眺めて 限りなく一人ぼっちでしたね……。

たとえ病気が特殊だとしても、フランスのこの非常に非情な閉鎖的は 個人主義だからでしょうか?!

一緒に心配してくれる

こんな猫ちゃんと 暮らしたい❣️

 

 

ちょっと疲れちゃったので ココまでで。

次は ALSとパーキンソン病、として 続けます。🍀

 

 

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そんなの書いてたの!遺言書

2020年02月06日 | 🩺夫の病気・ALS

実は 私の知らないところに 主人が書いた 遺言書がありました

まだ彼が文字を書ける頃に 直筆で書いたものですから……だいぶ前に存在していたのですが、私がその存在を知ったのは ずっと後になります。

 

 庭のバラの花をブーケにして 旦那さんに!と友人が持ってきてくれました。亡くなって 大分経っていましたが、風の便りで聞いたと。

 

いずれは 呼吸することも 食べ物を飲み込む事も 自力では出来なくなると聞いていましたので 人工呼吸装置とか胃瘻とかの延命装置が必要なのだろう〜と恐る恐る子供達に話してみた時、お父さんは 恐らくそれはしないよ!と。遺言書として、一切の延命処置をしない……と既に書いていたのを 子供達は 薄々知っていたのです。

施設の園長さんが それを預っているそうで 確認しましたが 間違いありませんでした。主治医のドクターにも訊きましたが それは彼の選択です と。

知らなかったのは私だけで この時の驚きは 今思い出しても体が震える思いです。ええ、なんでぇ~⁇ と大声で叫びたいくらいでした。

              ☘        ☘        ☘        ☘        ☘

きっと私に言うと反対されると思ったのだと思います私は 少しでも長く生きなくっちゃあネ!と励ましのつもりで いつも言っていましたので。

どうして遺言書を書いたこと 私に言ってくれなかったのかと 彼に訊いても 薄く笑っているだけで 何も言いませんでした。私は反対なんかしませんよ、あなたの決めたことは 尊重しますよ!と言ってあげましたが、実際 心の中は複雑でしたね。

 

 

l

これらの花は 主人がまだ自宅に居る時かな。友人が訪ねてくれました。花屋さんって 綺麗に作るものですね!記念撮影しておきました。

 

 

どんな風に最期を迎えるのか、本当に恐怖でした。本人の気持ちは 想像に絶します。彼の遺言通り 人工呼吸も 胃瘻も 延命処置はしませんでした。

元気な頃は 買い物にもよく一緒に行きました。何でも一緒に決めてきたし、彼はすごい心配性なので どちらかと言うと 私が決めてあげて、まるでこれでは 三男ではないか!と子供扱いしていましたが、生きる事そのもの そして死にゆくであろう最期の形は 彼が一人で決めました。

 

 

日本から送られてきたお花です。なんで セロファン取ってから写さなかったんだろう。ほんとバカです。それにしても 🇯🇵日本からですよ〜‼︎

 

彼の最期は それは穏やかで 全く苦しむ事なく まさに眠るように逝きました。その事はまた 思い出したら 続きも書いてみます。🍀

 

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バラの周りを歩く

2020年02月03日 | 🩺夫の病気・ALS

主人の病気の兆候はよく転ぶことでした。それと酷い疲労感に襲われていました。でも私たちももう年だから 仕方ないよね などと話していたのですが、実は ALS (筋萎縮性側索硬化症) という病に冒されていたのです。

主人はよく転んで  一体 どのように転ぶのか? 反射的に体を守る動きが出来なくなっていたからか、歯を欠いたり 頭や顔が血だらけになったり大事になり 2度も 救急車を呼ぶ騒ぎになりました。

 

奥の方に マリア様の銅像があります。

 

主人がまだ 自宅で過ごせた頃のアパートの中庭です。彼は いずれは歩けなくなるかも知れないと承知していたので 歩くことに酷く固執していました。  歩行器を使ってよくこのバラの周りを歩いていました。

まだ歩いてるよ、まだ歩いているよ!と 皆が 呆れるほど 毎日 毎日ぐるぐる歩き続けていましたね。でも段々 足も弱ってきて 倒れたら大変なので  医師からもストップされ 歩行器から 車椅子になっていきました。

 

 

このアパートは monuments classés historiques デス、と聞いています。日本語にすると歴史的建造物とでも言うのでしょうか、業者さんが内装を変えて改造し アパートにして使って保護していくということのようです。かつては 修道士の宿舎だったそうです。ですから 庭内に マリア様がいたりします。

 

 

ベランダに飾られている鉢植えの赤い花 (😶名前が出てこない) は春になると 毎年 花屋さんがトラックで運んできて 各家庭に分けて 飾られます。庭師さんがしょっちゅう来て花を剪定してました。

主人は病院から施設に移って行って もうここに戻ることは無いとわかった時、主人のいる施設の近くに引っ越しました。ここは主人と住んだ 懐かしい場所です。🍀

 

追記:花の名前は ゼラニウム です。 

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