333ノテッペンカラトビウツレ

 奇跡は 誰にでも 一度おきる だが おきたことには 誰も気がつかない

近景/遠景

2008-08-31 01:50:24 | SP(Standard Program)
●かつて浦沢直樹氏はテレビのインタビューの中で「自分の作品は単行本ではなく週刊誌の連載で読んで欲しい」というような発言をしていたことがあります。これは実際に週刊誌に連載されている作品を読めばわかります。彼の作品はいずれも「次週に続く」という決まり&制約を巧みに物語の中に取り込んでいるからです。

●ある場面で新しい事実が発覚する。しかし、その全貌は読者にはわからない。物語の登場人物の視線の先には誰かがいる、何かがある、何かを思い出した。しかし、それは読んでいるものには明かされない。そこでキャラクターが「こ、これは!」と言っているのが、その週の最後のコマ。読者は何が起こっているのかと想像しながら7日間待つと…何と物語の場面は先週とは別の場面に変わっている。単行本なら1ページめくるだけなのですが。

●彼はこの空白の7日間を巧みに作品に取り込み続けた結果、物語にある傾向が生まれます。それは「クライマックスの忌避」です。浦沢漫画は常に「クライマックスの予感」に満ちていますが、決してクライマックスは迎えないことで読者の関心と集中力を持続させようとします。そのために時制が組替えられ、複数のプロットが同時進行し、時にクライマックスの場面がスキップされます。

●コミックと映画はまったくの別物ですが、同じ物語を描いているという観点で見ると映画『20世紀少年』は浦沢メソッドが上手に機能しているとは言えません。やはりこれは演出の問題ではないかと。しつこいですけど、この話は常に「何か大変なことがどこかで起こっている気がする」「大変なことになってしまったようだ」「恐ろしい事実が判明したらしい」の積み重ねで成立しているのであって、実際に「出来事そのもの」を見せてしまったら「煽っていたほどスゴくはなかった」で終わってしまうわけです。つまりこの映画は浦沢メソッドの利点を掴み損ね、弱点だけを露呈しているような気がします。スゴいザックリとした言い方で言うと「スケールの大きな物語を描こうとした結果、スケールが小さい話に見える」ということです。この映画が目指すべきは「スケールの小さい話の積み重ねで、とてつもなくスケールが大きい話が展開している…ように見える」だったはずなのですが。

●と書きつつも、2時間20分は寝ないで観てしまったわけで、正直、ギリギリで赤点は逃れたって感じかなぁ。でも、登場人物が増えてエピソードが交錯する第2部以降は危険な予感がするなぁ。しつこいけどさ、やっぱこの映画はポン・ジュノが映画化するべきだったと思うんだけど。堤さん、コミックの絵をそのまま実写にしても映画にはなりません。もっと画の情報量を増やさないと映画がもたないですよ。