樹業人~風の通心

持続可能な社会や森林・建築・木製品について、気ままに こそっと考える為のネタ帳です。

多賀の森林 1

2014-02-11 | 多賀の森林

忘れないうちに、メモしておきます。

多賀町には、大まかに3つの谷があり その一番北 芹川の上流 河内の風穴から少し行った所にある妛原(あけんばら)で、ずっと林業をされている藤本さんに会いに行ってきました。 以前にブログ 妛原ホタル狩りと霊仙 にも書いています。

多賀町史で、昭和15年に48,370棚の薪炭材を伐ったという記録があり、その「棚」という単位の基準が いくつかあるようで、私の父が知らないかという問い合わせがあったのですが、昭和11年生まれの父は詳しくはわからないという事で、山や林業の事をよくご存じの藤本さんに聞きに行ったのでした。

残念ながら、藤本さんは 父より少し若かく「棚」という単位の事も聞いた事がないと。

その他にも、色々お話を聞いたので「ひとり森の聞き書き甲子園」をしてみましたw

炭にする木は「バイタ」と言ったそうです。炭は、供出品で県から検品する方がこられて、簡単に売れなかったそうです。
藤本さんは、昭和12年か13年のお生まれなので、昭和15年の頃の話かどうかは不明。
戦争の時もまだ小さかったので、内容によっては その後 聞かれた話もあるかもしれません。
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事前に私なりに、昭和15年の時代背景を調べてみました。
昭和15年 日中戦争 多賀では 富之尾で亜炭の採掘がおこなわれていた頃でしたので、それが関係するのかと思っていましたが、こんな資料を見つけました。昭和15年の新聞記事。

切符制へ 木炭の山
この冬は心配無用 生産地に聴く

都市で暮らす皆さんに燃料を届ける為に、各地の森林では 炭用の木が伐採され炭の増産が行われたようです。奥山にも入り、炭焼きは行われました。戦後は、こういう山に植林をしていった訳です。
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藤本さんいわく、船や飛行機など戦争に必要な資材として、大きな木は特に強制的に搬出しなければならなかったとの事。
炭窯には、200貫出し、120貫出し という大きさがあった。
200貫出しには 長さ6尺の木(バイタ)を立てて入れた。窯の前に、横向きに1窯に入れる木を積んでいたそうで、父は それを「棚」と呼んでいたのかもという見解でした。窯の大きさが違えば、立てて入れるので「棚」の大きさが違うのも納得できるとの事。
その1俵=4貫目 つまり200貫の窯からは 良い木がやけた時は、50俵 イマイチの木の時は 45俵。樫・ナラ・ホウソ・ジョウボ・イツキなど。
(樹種については、地域の呼び名もあるかも。人によっては、ホウソがコナラで ミズホウソがミズナラだという方もいて、ではナラは何?wと、未だ私の中で解決できていません)

割り木(薪)は、自分たちが使うのと 3尺2寸に伐り 彦根などに売りに行った。割り木山というのを持っている人がいた。
(彦根のある地区が、多賀の山を持っていたりするのも、エネルギーの確保の為だったのですね)


芹谷地区では、炭はこうのくらに集めた。炭は基本は公的にしか取り扱えない。闇でお米と交換するという事もあったらしい。

植林につても聞いてみました。

多賀で植林が始まったのは、明治33年 郡林(営林)で 水害が多発した為だという。
高室・大君ケ畑・霊仙などの奥山になる。
大正7年には、県営林 108haを植林(白谷かな)分収林で、木を育てるのは県の資金、売れたら 7割が県 3割がその森林の所有者に支払われたという。
民間の場合は、家の近く 出しやすい所に植林はしていたが、そう量的には多くなかったそうだ。

ここで、驚いたのが 芹谷地域で初めて植林されて育った木を買ったのが 私の祖父なのだそうだ。
昭和35年か36年。3町歩 約3haに育った木を570万円で買ったそうだ。
45年前後の樹齢という事になる。当時の感覚からすると、高く買ってもらったと いう事らしい。
裕福だった記憶がないので(笑) 孫としては どうやって そんなお金工面したのだろうと思う。
(地元の木が手に入らなかった少し前、そういや 父は相場の何倍もの価格で入札を落としたと後から知った。県の山だったらしいが、色々な同業の方に迷惑をかけたかもしれない。どうも、血 みたいなので許して欲しい。当時は、最近の価格を知らなかっただけだと思う。本当は 父がつけた金額でさえも、かかった経費を思うと、どうなのかはわからないが、真っ当な木材価格に近かったのではないだろうかと、今なら思える。)

話は、それてしまったけれど、その後 拡大造林で 色々な所に植林されるようにはなったが、その前には雑木が生えていて、それは都市部や紙などのチップ用に伐採された事は、皆さんに知っていて欲しいと思う。植林をしすぎた、自然を破壊したと一方的に攻めるのは簡単だが、需要に動かされ翻弄させられてきたのは森林の方ではないかと思う。

やはり、山とずっと向き合ってこられた方は、林道のありようについては とても心配されている。
しかし「木を安定して安くだせ」という要望により、林道をつくる事が大切になっている。
そういう川下の要望が、どういう山づくりにつながるのか、知った上で 利用する側もどうするのか考えなくてはいけないと思う。林道が よい 悪い という二極の話ではすまされない。
林道は、必要である。しかし、手間暇・コストをかても、その山を知り、できるだけ山を傷めない方法を模索している方々を無視して 型にはめた制度を強要する事は 非常に危険だと思う。

事件は、現場(末端)でおきている。
 
まずは、木材から作られる製品を安く提供する為に、安く木を出す事を市場の原理で強要する事が、企業努力だという流通のあり方を変えないと、まずい。少なくとも、コストを抑えた分は、山側が受け取るべきで、為替の変動や諸外国の事情で変動する輸入木材を引き合いに出して、たたくなど 企業としては最低の行為だと思う。
(もちろん、このあたりでは、あいさつのように「勉強して」というし、少しでも安く というものも探す。それをどうしていくかが、悩ましい所ではある。)
出来るだけ、山・森林を傷めない(つまり、川下の私たちの安全を守ろうと努力している)森林資源の利用が優遇されるには、どうすればいいのかと考えていかなくてはと思う。

藤本さんとの出会いは、森林からではない。バーで知り合った方々とのホタル狩りのイベントで お家を借りたご縁による。そこで、初めて 仕事をしていた頃の亡き祖父の話を聞いた事が始まりだ。
先日も、木炭自動車の件で すばらしい出会いがあった。父に話すと、祖父は 木炭バスの燃料を確保する為に動いていたと、その時知った。
広葉樹などの地域の森林に目を向けたのも 自分でエネルギーを確保したいという事もあるが、サントリーのミズナラ樽のウィスキーを知った事にもよる。

積極的に自ら動いた訳ではなく、普段の生活からは想像できない偶然のすばらしい出会いから(ほとんどが お酒絡みw) 森林にかかわるようになり、今に至っているのは どうも 祖父に操られている気がしてならない昨今である。

たぶん、何かをさせようとしているのだろう。お酒で釣って・・・(笑)

そうそう、馬搬ももちろんしていて このあたりでは のたびき と言ったそう。
これは、谷が違っても 同じ言い方でした。

写真で 藤本さんが手にされているのは 滋賀県立大の学生が Taga-Toun-Project で作成してくれた地域の教科書 多賀編 です。この冊子の「山の暮らし」の所に、藤本さんのレポートが載っています。もっと、もっと 色々聞いておかなければならない話がある。

いそげ! 私!