「私」にとって、心地いい「人」「もの」「場所」「時間」がどんどん増えています。
同時に。
これまでいいと思っていたものが、そうではなくなり、私の「好き」も様変わりを続けています。
もちろん、今まで通り変わらない「好き」もあります。
どんどん心地よくなってくると、
「私」にとって、そうでない「もの」については、
穏やかな気持ちで手放すことが出来るようになってきましたし、
「私」にとって、そうでない「人」については、
自分がジタバタせずとも、自然と関わりがなくなるように運ばれているし、
「私」にとって、そうでない「場所」については、
気づけばまわりが色々と動いてくれて居心地が良くなってきていますし、
そして、
「時間」については、私自身のとらえ方が変わってきて(言葉で表すのが難しいのですが)、
一つの方向にしか進まない「平面」で見えていたものが、
あらゆる方向へ同時に動いている「立体」で見えて感じるようになってきました。
何か事が起こる度に、私の中の「聖域」にアクセスするのはなく、
「私」が聖域に滞在している時間が長くなってきている…という感じ。
もともとは、わざわざ「アクセスする」と意図しなくても、「すでに、そこにいる」のだと思います。
そのことに、「私」が気付かなかっただけで。
いつも源に包まれ、守られていた。
それを思い出しさえすればよかったんだと。
だから、焦らなくてもいい。
だから、慌てなくてもいい。
守る必要もなければ、攻める必要もない。
同時に。
これまでいいと思っていたものが、そうではなくなり、私の「好き」も様変わりを続けています。
もちろん、今まで通り変わらない「好き」もあります。
どんどん心地よくなってくると、
「私」にとって、そうでない「もの」については、
穏やかな気持ちで手放すことが出来るようになってきましたし、
「私」にとって、そうでない「人」については、
自分がジタバタせずとも、自然と関わりがなくなるように運ばれているし、
「私」にとって、そうでない「場所」については、
気づけばまわりが色々と動いてくれて居心地が良くなってきていますし、
そして、
「時間」については、私自身のとらえ方が変わってきて(言葉で表すのが難しいのですが)、
一つの方向にしか進まない「平面」で見えていたものが、
あらゆる方向へ同時に動いている「立体」で見えて感じるようになってきました。
何か事が起こる度に、私の中の「聖域」にアクセスするのはなく、
「私」が聖域に滞在している時間が長くなってきている…という感じ。
もともとは、わざわざ「アクセスする」と意図しなくても、「すでに、そこにいる」のだと思います。
そのことに、「私」が気付かなかっただけで。
いつも源に包まれ、守られていた。
それを思い出しさえすればよかったんだと。
だから、焦らなくてもいい。
だから、慌てなくてもいい。
守る必要もなければ、攻める必要もない。