「都督」と「都督府」について考えてみます。
唐はその領域拡大政策の元、周辺国に従属を強い、それに逆らったり抵抗すると軍を送りこれを制圧し、その後の統治については、「都護府」を置きまたその下に「都督府」を置くことでその「版図」を拡大していました。そして「都護」には「唐」側から適材を送り、「都督」は現地の人間を充てるというのが常套でした。
半島の場合「高句麗」制圧後「平壌」に「(安東)都護府」が置かれ、その下に「都督府」が六カ所置かれたとされます。その一つが「熊津都督府」であるというわけです。『書紀』に出てくる「都督府」記事はこの「熊津都督府」と、同じ文章中に出てくる「筑紫都督府」が見えるのがただ唯一の例です。
この「筑紫都督府」について「唐」が設置した、さらに『書紀』に出てくる「筑紫君薩夜麻」についてその帰国は「都督」としてのものであったという議論があります。しかしこの「筑紫都督府」が「唐」が設置したものというならその上部組織である「都護府」はどこに置かれたのでしょう。半島に置かれた「安東都護府」がそうだというなら「都督府」が一カ所増えることとなります。そもそも海を越えた場所に「都督府」を設置した例がないことと「都護府」がどこなのかという問題は議論されていないようです。
しかもこのようないわゆる「羈縻政策」として「都督府」をおいた場合は、その統治範囲に「州」も設置し、そこには「刺史」を配置したとされています。つまり単に「都督府」を設置し「都督」を任命しただけでは「政策」として不十分であり、機能を発揮しているとは言えないわけです。しかし「白村江の戦い」以降のどこかで列島内部にそのような行政制度の改変があったとはどのような史料からも窺えません。
また「都督」の人選についても、当然ながら「現地の人間」であれば誰でもよいというわけではなかったものです。基本、戦いの相当早い段階で「帰順」し、「唐」に対し忠誠を誓うというようなストーリーがない人物は充てられなかったものです。それはその人物の「信用」と関わってくることだからでしょう。「都督」が「唐」として重要な地域を統治するのに重要なキーパーソンであることを考えると、「唐」から見て疑わしい人物やその行動に不審があるような人物はそもそも充てられないこととなります。
たとえば「太宗」と「突厥」の関係からもそれは窺えます。「太宗」の場合「突厥」との戦い後「都督」にしているのは、戦いが始まる以前や戦いのごく初期から帰順した「突厥」の人物だけです。後に高位の将軍になるような人物でも戦いが本格化して以降帰順した人たちは「都督」にはしていません。
これは次代の「高宗」も同様であり、「唐-新羅」連合軍が「百済」とぶつかった時点以降早期に帰順した「百済禰軍」は「将軍」に抜擢されていますし、同じタイミングで降伏したと見られる「黑齒常之」も高位の将軍として遇されています。しかし彼等も「都督」としては考えられていなかったようです。
また「太子隆」は確かに早期に帰順していますが、「唐」の軍勢が城に迫ってからの降伏でしたから、その意味では「都督」としては不適かもしれません。実際、当初は「唐」側の人間が「都督」として赴任しています。(「王文度」や「劉仁願」など)これは「百済」の人材に「都督」として適当な人物がいなかったことの表れであり、「扶余隆」の就任はある意味「やむを得ない」事情(ほかに代わりがいない)によるものであったと思われます。もっとも、彼の兄弟や父である「義慈王」は最後まで抵抗を続けたものであり、その彼等とかなり早い段階で袂を分かっていますから、そのことも彼が「都督」として「旧百済」の地を治めることが可能であるという理由付けとしてあったかもしれません。
「薩夜麻」の場合にも、彼が「都督」として帰国したとするには「自ら帰順し、唐皇帝に忠誠を誓う」という行動が不可欠であるわけですが、その割には彼は「唐人」の計について「本朝」に伝えようとしていたことなどもあり、「唐」側の人間として活動していたようには(少なくとも当初は)見えません。そもそも他の倭人達と一緒に「軟禁」されていたような人物が後に「都督」として帰国したと想定するには「無理」があるのではないでしょうか。
また自ら帰順した場合、早期に唐の官職が与えられ、唐の軍事組織に組み込まれ活動することとなりますが、「薩夜麻」の場合はそのようなことがあったようにはみえません。(『書紀』の帰国時の記事にも「唐」の官職名は書かれていませんし、唐側史料にはそのような記述が全くありません。)
本来戦いの中で最後まで抵抗した場合などは「捕虜」となるものであり、通常は「官」とされ漢代の「金日禅」のように「馬飼い」など下賤の仕事を義務づけられた者もいたようです。「薩夜麻」についても同様であったのではないかと思われますが、彼は「持統」の「詔」の中身から見て「唐軍」によって捕虜となり、「唐国」まで連行されていたものというより「新羅軍」により「捕囚」となって「熊津」周辺のどこかに「軟禁」されていたのではないかと考えられます。
また彼が早期に帰順したのであるなら帰国ももっと早かったと思われます。
彼が帰国したとされるのは六七〇年であり、これは百済はもとより、白村江の戦いで倭国軍が敗北してからずいぶん時間が経過していますし、高句麗が滅ぼされてからも二年ほど経過していることとなり、このような帰国の遅れが示すものは、彼が「簡単に帰順しなかった」ことを表すものと思われます。(「三千里の流罪」となっていた可能性があるでしょう。)そう考えれば彼が「都督」として帰国したとはいえないといえます。
そもそもすでに指摘していますが「都督府」記事は「薩夜麻」帰国以前ですから、「薩夜麻」が「都督」かどうかということと、「都督府」が「唐」が設置したものかという話は本来全く別の事柄と考えます。
唐はその領域拡大政策の元、周辺国に従属を強い、それに逆らったり抵抗すると軍を送りこれを制圧し、その後の統治については、「都護府」を置きまたその下に「都督府」を置くことでその「版図」を拡大していました。そして「都護」には「唐」側から適材を送り、「都督」は現地の人間を充てるというのが常套でした。
半島の場合「高句麗」制圧後「平壌」に「(安東)都護府」が置かれ、その下に「都督府」が六カ所置かれたとされます。その一つが「熊津都督府」であるというわけです。『書紀』に出てくる「都督府」記事はこの「熊津都督府」と、同じ文章中に出てくる「筑紫都督府」が見えるのがただ唯一の例です。
この「筑紫都督府」について「唐」が設置した、さらに『書紀』に出てくる「筑紫君薩夜麻」についてその帰国は「都督」としてのものであったという議論があります。しかしこの「筑紫都督府」が「唐」が設置したものというならその上部組織である「都護府」はどこに置かれたのでしょう。半島に置かれた「安東都護府」がそうだというなら「都督府」が一カ所増えることとなります。そもそも海を越えた場所に「都督府」を設置した例がないことと「都護府」がどこなのかという問題は議論されていないようです。
しかもこのようないわゆる「羈縻政策」として「都督府」をおいた場合は、その統治範囲に「州」も設置し、そこには「刺史」を配置したとされています。つまり単に「都督府」を設置し「都督」を任命しただけでは「政策」として不十分であり、機能を発揮しているとは言えないわけです。しかし「白村江の戦い」以降のどこかで列島内部にそのような行政制度の改変があったとはどのような史料からも窺えません。
また「都督」の人選についても、当然ながら「現地の人間」であれば誰でもよいというわけではなかったものです。基本、戦いの相当早い段階で「帰順」し、「唐」に対し忠誠を誓うというようなストーリーがない人物は充てられなかったものです。それはその人物の「信用」と関わってくることだからでしょう。「都督」が「唐」として重要な地域を統治するのに重要なキーパーソンであることを考えると、「唐」から見て疑わしい人物やその行動に不審があるような人物はそもそも充てられないこととなります。
たとえば「太宗」と「突厥」の関係からもそれは窺えます。「太宗」の場合「突厥」との戦い後「都督」にしているのは、戦いが始まる以前や戦いのごく初期から帰順した「突厥」の人物だけです。後に高位の将軍になるような人物でも戦いが本格化して以降帰順した人たちは「都督」にはしていません。
これは次代の「高宗」も同様であり、「唐-新羅」連合軍が「百済」とぶつかった時点以降早期に帰順した「百済禰軍」は「将軍」に抜擢されていますし、同じタイミングで降伏したと見られる「黑齒常之」も高位の将軍として遇されています。しかし彼等も「都督」としては考えられていなかったようです。
また「太子隆」は確かに早期に帰順していますが、「唐」の軍勢が城に迫ってからの降伏でしたから、その意味では「都督」としては不適かもしれません。実際、当初は「唐」側の人間が「都督」として赴任しています。(「王文度」や「劉仁願」など)これは「百済」の人材に「都督」として適当な人物がいなかったことの表れであり、「扶余隆」の就任はある意味「やむを得ない」事情(ほかに代わりがいない)によるものであったと思われます。もっとも、彼の兄弟や父である「義慈王」は最後まで抵抗を続けたものであり、その彼等とかなり早い段階で袂を分かっていますから、そのことも彼が「都督」として「旧百済」の地を治めることが可能であるという理由付けとしてあったかもしれません。
「薩夜麻」の場合にも、彼が「都督」として帰国したとするには「自ら帰順し、唐皇帝に忠誠を誓う」という行動が不可欠であるわけですが、その割には彼は「唐人」の計について「本朝」に伝えようとしていたことなどもあり、「唐」側の人間として活動していたようには(少なくとも当初は)見えません。そもそも他の倭人達と一緒に「軟禁」されていたような人物が後に「都督」として帰国したと想定するには「無理」があるのではないでしょうか。
また自ら帰順した場合、早期に唐の官職が与えられ、唐の軍事組織に組み込まれ活動することとなりますが、「薩夜麻」の場合はそのようなことがあったようにはみえません。(『書紀』の帰国時の記事にも「唐」の官職名は書かれていませんし、唐側史料にはそのような記述が全くありません。)
本来戦いの中で最後まで抵抗した場合などは「捕虜」となるものであり、通常は「官」とされ漢代の「金日禅」のように「馬飼い」など下賤の仕事を義務づけられた者もいたようです。「薩夜麻」についても同様であったのではないかと思われますが、彼は「持統」の「詔」の中身から見て「唐軍」によって捕虜となり、「唐国」まで連行されていたものというより「新羅軍」により「捕囚」となって「熊津」周辺のどこかに「軟禁」されていたのではないかと考えられます。
また彼が早期に帰順したのであるなら帰国ももっと早かったと思われます。
彼が帰国したとされるのは六七〇年であり、これは百済はもとより、白村江の戦いで倭国軍が敗北してからずいぶん時間が経過していますし、高句麗が滅ぼされてからも二年ほど経過していることとなり、このような帰国の遅れが示すものは、彼が「簡単に帰順しなかった」ことを表すものと思われます。(「三千里の流罪」となっていた可能性があるでしょう。)そう考えれば彼が「都督」として帰国したとはいえないといえます。
そもそもすでに指摘していますが「都督府」記事は「薩夜麻」帰国以前ですから、「薩夜麻」が「都督」かどうかということと、「都督府」が「唐」が設置したものかという話は本来全く別の事柄と考えます。