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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(5)

2014年04月06日 | 古代史

 「古田氏」は「裴世清」が国書を持参したという「推古紀」記事が実際には「初唐」の時期のものである「傍証」として以下の「舒明紀」にある「百済」の「義慈王」が「王子」である「豐章(扶余豊)」を「質」として「倭国」に派遣したという記事に疑いを持たれました。この実際の年次として十年以上繰り下げた「六四一年付近」へと移動させて理解され、それは「遣隋使」記事と同じ「ずれ方」であるとして、「遣隋使」が実際には「遣唐使」であるという論の補強とされました。

「(舒明)三年(六三一年)三月庚申朔条」「百濟王義慈入王子豐章爲質。」

 確かに、「義慈王」が「百済国王」となったのは「六四一年」であり、それから考えると「扶余豊」が「質」とされたのは「義慈王」がまだ「皇太子」時代のこととなりますから不審といえばその通りです。人質はそれなりに位の高い人物でなければならず、現国王の「孫」というのではそれこそ多数に上る訳ですから「質」としての価値はそう高くないこととなるでしょう。

 そもそも相手国から見てある程度「質」を差しだした国の政治的行動範囲を制約せざるを得なくなるほどの近親の人物でなければ「質」としての意味がないと思われます。そう考えると、「義慈」が「百済王」となった時期(六四一年)という段階以降に「倭国」へ「人質」を差しだしたと仮定した方が合理的であると言えるのは理解できます。その場合であれば「新百済王」としての「倭国重視」というその後の大動乱につながる政治的スタンスも良く理解できることとなるでしょう。そう考えると、「百済王子豐章爲質」という記事は「義慈王」即位時点付近の記事という可能性もあることとなります。そして、その場合は「十~十二年ほど」の年次移動が行なわれているという可能性があることは確かですが、その意味では「古田氏」の見解については首肯できる部分はあるものの、問題は、その「ずれ方」がどの程度まで遡及するものかということではないでしょうか。
 それは「隋代」と「唐代」というように時代区分が違うことでもわかるように年次として大きく離れていることもからも、そのような「義慈王」記事と「遣隋使」記事とを同一に扱うことの難しさを示しています。「書紀」の記事移動があったとしてもそれは「隋書」の網羅する年代に留まるのではないかという可能性がある事を示すものです。

 「倭国側」では「書紀」の編集段階において明らかに「隋書」を見ていると思われます。しかし、当然「旧唐書」を見ることができたはずはありません。「旧唐書」は「八九五年」の完成とされていますから、「書紀」の編纂時期とは大きく異なるといえるものです。そうであれば、「初唐」の時期の外交資料は純粋に国内に残存していたものを資料としていたとも考えられます。
 つまり「書紀」が(「推古紀」が)「隋書」を見て書かれたとすると、それから続く「唐代」の時期の記事には参照すべき「中国資料」が存在していないこととなります。(「六四八年」以降は「起居が通じた」とされますから、それなりに参照資料があったでしょうけれど、それ以前については参照すべき資料がないということとならざるを得ません)それに対し上に見たように「書紀」の「隋代」の記事は「隋書」に「合わせる」ために年次を変更して書かれていると考えられますが、そのことはそのような「年次移動」が「初唐」の時代まで及ぶとは思われないことを示します。
 このことから、「書紀」の編纂段階では「初唐」に関しては当時国内に残っていた何からの資料を参考にせざるを得なかったものと見られ、「初唐」の資料と「隋代」の資料とはそもそも「セット」として考えられていたとは思われないこととなります。もし「扶余豊」の「質」の記事が本来の年次ではないところに書かれていたとしても、それが「隋代」まで遡及すべきものか(あるいは「隋代」から続くものか)は別途証明が必要なのではないでしょうか。(続く)


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