古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の謀反事件と「長屋王」

2018年12月30日 | 古代史

 『続日本紀』の「養老六年」(七二二年)の記事に「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の「謀反」事件が書かれています。
 ここで「誣告」をしたとされる「多治比真人三宅麻呂」は「大宝三年」(七〇三年)に「藤原房前」等とともに「各諸国」(諸道)に対して派遣された「巡察使」様の使者派遣のために人選された中に入っており、「東山道」の「各国司・郡司」などの「治績」の記録と判定を任されるという栄誉ある仕事に就いています。
 彼はその後も官位の加増を受け、「慶雲四年」(七〇七年)「元明天皇」即位の際の「御装司」にも選ばれており、またその後も「催鋳銭司」という当時発見された「和銅」との関連で発行されることとなった貨幣の鋳造の管理者というかなり栄誉ある地位に就いています。(ただし前の記事にも書きましたが、この「和銅」発見はいわば「フェイク」であったと思われ、可能性としては彼もこれに一枚噛んでいたということもあり得ます)
 その後も順調に昇進を続け「正四位上」という中級官人としてかなり高い地位にあったものですが、「元明太上皇」死去の直後、突然「事件」が起きます。

「養老六年(七二二)正月…
壬戌。正四位上多治比眞人三宅麻呂。坐誣告謀反。正五位上穗積朝臣老指斥乘輿。並處斬刑。而依皇太子奏。降死一等。配流三宅麻呂於伊豆嶋。老於佐渡嶋。」

 ここでは、「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」つまり、「天皇」を「非難・誹謗」するという、重大事案と並べて「多治比眞人三宅麻呂」の「坐誣告謀反」という事件が書かれています。
 「誣告」とは「他人」を罪に陥れるために「虚偽」の告発をすることであり、ここでは「謀反」と書かれていますから、「天皇」個人を傷つける意図を誰かが持っていて、それを実行しようとしている、ということを告発したように受け取れます。(「謀反」と「謀叛」は「令」では明確に区別されています)
 しかし、その対象者が誰であったのかがここでは触れられていないため、その「告発」がすぐに「誣告」つまり「虚偽」と判明したのか、そうではなく、その告発により誰かが「罪」を受けたのかは不明です。
 「謀反」は「死罪」(斬刑)と決められていましたから、この告発が「虚偽」であると判明しなかったならば、当の誣告された本人は「死刑」になった可能性もあります。
 「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」事件の方は間違いなく「謀反」と判断されたでしょうから、同様に「死刑」は免れません。
 問題はこの二つの事件が「関連」があるのかどうか、ということです。
 これに関しては、どちらも同じ日付の事件として書かれているように思え、また「彼ら二人」は上に見るように「諸国」への「巡察使」派遣の際にも「共に」派遣されているなど、似たような経歴を歩んでいます。これらのことは彼らの行動は「共同」して行われたものではないか、という推察ができそうです。
 「三宅麻呂」の「告発」が「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」事件を指すのだとするなら、これは「誣告」でも何でもないわけであり、正当な告発と言えるでしょう。しかし「三宅麻呂」は「罪」を受けているわけですから、彼の告発は「穂積朝臣老」に向けられたものではなく、逆に彼の行動を支援するような性質のものであったと考えなければならず、「別人」を告発したのだとしか考えられません。

 ここでそのようなことが起きたのはいかにもありそうな話ではあります。「天武」死去後の「大津皇子」の場合などもそうですが、前王が死去し後継がまだ不安定なときが最も政変が起きやすいものであり、「謀反」を起こす、あるいはそれを口実に反対勢力の勢威をなきものとするなど権謀術数が繰り広げられるタイミングではあります。この場合「元明」という存在が大きなものであったことは間違いなく、その存在が消えた後やはり「権力の空白」を狙って行動を起こそうとしたものがいたのかもしれません。詳細は不明ですが、「皇太子」が取りなしたという点やその後「聖武」の時代になって(「七四〇年」)、「長屋王」が排除され「十一年」経ったという時点で「流罪」の地である「佐渡」から「京」への帰還を許されるなどの扱いを考えると、「反皇太子勢力」に与する策動ではなかったもののようです。

「(天平)十二年(七四〇年)…
六月庚午。勅曰。朕君臨八荒。奄有萬姓。履薄馭朽。情深覆育。求衣忘寢。思切納隍。恒念何荅上玄。人民有休平之樂。能稱明命。國家致寧泰之榮者。信是被於寛仁。挂網之徒。保身命而得壽。布於鴻恩。窮乏之類。脱乞微而有息。宜大赦天下。自天平十二年六月十五日戌時以前大辟以下。咸赦除之。兼天平十一年以前公私所負之稻。悉皆原免。其監臨主守自盜。盜所監臨。故殺人謀殺人殺訖。私鑄錢作具既備。強盜竊盜。姦他妻。及中衛舍人。左右兵衛。左右衛士。衛門府衛士。門部。主帥。使部等不在赦限。『其流人。多治比眞人祖人。名負。東人。久米連若女等五人。召令入京。』大原采女勝部鳥女還本郷。小野王。日奉弟日女。石上乙麻呂。牟礼大野。中臣宅守。飽海古良比。不在赦限。」

 ここでは「穗積朝臣老」とともに「多治比眞人祖人。名負。東人。」という人物の入京が許されています。彼らは推定によれば「三宅麻呂」の子供らと思われ、本来赦免の対象であった「三宅麻呂」が流罪の地である「伊豆」で既に死去していたことが窺えます。
 この時の「流罪」となる原因となった彼らの行動は「元正」というよりその背後にいる他の有力者にに対するものではなかったかと思われ、想像をたくましくするとターゲットは当時「右大臣」であった「長屋王」ではなかったでしょうか。
 彼は「不比等」亡き後最大の権力者であり、また推定によれば「下野」した旧王権を代表するものであったと思われますから、そのような人物を重用することを憂えた「諫言」、と云うより「非難」が主のものだったのではなかったでしょうか。これに激怒した「元正」か、当の「長屋王」により「死罪」とされたものと考えられます。この時点で「皇太子」(後の聖武天皇)の取りなしにより、彼らは罪一等を減じ「流罪」となったというわけです。
 「穂積朝臣老」はその後「聖武天皇」の遷都の際には「留守官」として「恭仁宮」に残っているなど重用されており、また「三宅麻呂」の子供達もそれなりに官歴を重ねていることが知られていますから、彼らに対する「信任」が厚かったことは間違いなく、彼らの行動が「自分」のためを思っての行動と「聖武」が捉えていたことを意味すると思われます。
 そして、これら「多治比真人三宅麻呂」等の事件は後の「七二九年」の「長屋王」事件につながっているのではないか、という想像をさせるものです。
 この時点は「元明太上皇」が亡くなり、それ以前に「藤原不比等」も亡くなっていますから、「長屋王」の天下と云ってもいい状態となっていました。
 考えられるストーリーとしては、彼らは「長屋王」が「自分が天皇になろうとしている」と考え、それを「元正天皇」に伝えようとしたのでしょう。しかし、「長屋王」の反撃に遭い、危うく「死罪」となるところだったものを「皇太子」(聖武)に救われたとみられるのです。

 「長屋王」は「倭国九州王朝(旧日本国)」に直接つながる系譜の持ち主であり、そのような人物が「政権トップ」にいるようになったことについての「危惧」があったものと思われ、「旧王権」の復活につながるという様に考えたのではないでしょうか。
 この彼らの危惧と懸念は、「長屋王」が宰相的立場にいる間根強く続いたと考えられ、「七二九年」になって、「長屋王の変」という事態になって現実のものとなったのです。
 この時の「長屋王」に対する「嫌疑」というのは「左道」によって「聖武天皇」の「皇太子」を「厭魅」したというもので、当時「聖武天皇」の「皇太子」は生まれてすぐに亡くなりますが、その直前に「延命」の祈祷をするため、という名目で「図書寮」から大量の「祈祷」用の物品が「長屋王」により無断で借り出されています。これらの物品はそのまま逆に「呪い殺す」のにも使用できるものであり、偏見を以って臨めば、疑うのに充分であったかもしれません。
 「穂積朝臣老」や「多治比真人三宅麻呂」の事件はこの時とよく似ていたとも思われます。つまり、「元明太上皇」の死去に関連して同様の疑いが持たれたのかもしれません。「謀反」という表現も天皇個人への何らかの攻撃を意味するものですから「厭魅」は充分「謀反」に値します。彼らは「不比等」と特別の関係にあったとみられますから、「不比等」から「長屋王」に対する警戒を聞いていたという可能性があるでしょう。しかし、「三宅麻呂」の時には「長屋王」に対抗できる(しようとする)人間が誰もおらず、彼らの主張は通らなかったものと思われるわけです。

 『続日本紀』の記事では「長屋王」の変の際の嫌疑に使用された「左道」という表現は「呪術」とほぼイコールであり、「奈良」・「天平」時代には再三の「呪術」禁止令が出されており、中国南朝「陳」の律にも、このような呪術は「道教」の僧(「道士」)によって行われる、とあってこれが「左道」と呼ばれていたのです。しかし「唐」から「鑑真」が来日するに至った動機の中には「長屋王」についての「逸話」があったとされています。それによれば「長屋王」は「袈裟」を「千枚」作り、「唐」の高僧に寄進した、というのですが、その袈裟には「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という「文字」(願文)を縁に刺繍してあったのです。それを聞いた「鑑真」は日本という国に強く興味を持ったことが幾多の困難を経ても日本に渡る、という情熱を失わなかった一因であると思われるのです。
 また、「長屋王」は「大般若経」の「書写」も行っています。「大般若経」は「文字数六万」という大部であり、個人で行う事自体が「希有」な事なのです。
 「長屋王」の夫人は「文武」の妹の「吉備内親王」であり、「文武」追悼という彼女の意向を汲んで「長屋王」が「書写」させたものと考えられています。
 「長屋王木簡」には「経師」「書法模人」「書法作人」「書写人」などの記載があるのが確認されており、この「大般若経」の「書写」に携わった人々を指すものと考えられます。 
 このように仏教に深く帰依していたと考えられる彼ですから、「道教」に興味があったとは思われず、「厭魅」の件は「冤罪」であったものと考えられ(後にそれは明らかとなった)、それは「倭国王権」につながる人物である「長屋王」を亡き者にすることで「旧政権」(倭国王朝)の抹消を図った「陰謀」であったものではなかったかと思われる訳です。


(この項の作成日 2011/08/22、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して転載)


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