古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大伴部博麻」の「三十年」の拘束の理由(二)

2013年12月23日 | 古代史

 既に考察したように「伊吉博徳言」の中で「今年」とされている年次は「七〇四年」(慶雲元年)であると見られる訳です。
 そもそも「遣唐使」は「六六九年」の「小錦中河内直鯨」等の「遣唐使」を最後に長期間(三十年以上)途絶えていたわけであり、前記したように「新羅」の船で帰ってくる者もいたと思われますが、大多数の人間は「帰るに帰れない」状態となっていたものでしょう。つまり、ここに消息を書かれた「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶」達というように多数に上っている原因は「前回」の遣唐使派遣から相当長い年数が経過していることの証左であると思われます。
 また、この時の遣唐使船を(たまたま)利用して帰ってきた人たちの記事が「続日本紀」にあります。

「続日本紀」「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 讚岐國那賀郡錦部刀良 陸奧國信太郡生王五百足 筑後國山門郡許勢部形見等各賜衣一襲及鹽穀 初救百濟也 官軍不利刀良等被唐兵虜沒作官卅餘年乃免 刀良至是遇我使粟田朝臣真人等隨而歸朝 憐其勤苦有此賜也.」

 彼らは「斉明七年」の「百済を救う役」で「捕虜」になったものと考えられ、その彼らと一緒に「伊吉博徳」が挙げた人間達も帰国したものと考える事ができるでしょう。
 彼ら(刀良、五百足、形見)がここに特記されているのは、彼らが戦争に参加し捕虜になり、その後非常に苦しい人生を送らざるを得なくなったからであり、「大伴部博麻」と同様彼らの「忠孝」精神を称揚する事が目的であったと思われます。
 しかし、「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶」達は元々「遣唐使」であり、唐において学業等に励む事が仕事であったわけで、滞在期間が長かったとしても別に「不遇」な人生というわけでもなかったと判断されたのでしょう。そのため、帰国に際して「特記」すべき事情がなかったものと判断され、記事として残っていないのではないかと推察されます。

 「伊吉博徳」についていうと、彼は「八世紀」に入って「大宝律令」撰定に関わった人物として「続日本紀」にその名前が書かれています。

「続日本紀」「文武二年(六九八)六月甲午条」「勅淨大參刑部親王 直廣壹藤原朝臣不比等 直大貳粟田朝臣眞人 直廣參下毛野朝臣古麻呂 直廣肆伊岐連博得 直廣肆伊余部連馬養 勤大壹薩弘恪 勤廣參土部宿祢甥 勤大肆坂合部宿祢唐 務大壹白猪史骨 追大壹黄文連備 田邊史百枝 道君首名 狹井宿祢尺麻呂 追大壹鍜造大角 進大壹額田部連林 進大貳田邊史首名 山口伊美伎大麻呂 直廣肆調伊美伎老人等 撰定律令 賜祿各有差」

「続日本紀」「大宝元年(七〇一)八月癸夘三 遣三品刑部親王 正三位藤原朝臣不比等 從四位下下毛野朝臣古麻呂 從五位下伊吉連博徳 伊余部連馬養 撰定律令 於是始成 大略以淨御原朝庭爲准正 仍賜祿有差」

「続日本紀」「大宝三年(七〇三)二月丁未 詔從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人 預定律令 宜議功賞 於是古麻呂及從五位下伊吉連博徳並賜田十町封五十戸 贈正五位上調忌寸老人之男田十町封百戸 從五位下伊余部連馬養之男田六町封百戸 其封戸止身田傳一世。」

 このように「大宝律令」選定という事業に関わり、その「功」を認められ、多大な褒賞を受ける栄誉に浴しています。そして、この「褒賞」を受けたのは、推定される「今年」である「七〇四年」の「前年」のことです。
 彼は「倭国」の外交の第一線で長年活躍してきた人物であり、その後律令編纂に携わるという大業をも成し遂げたものです。その彼がこの時点でその外交その他自己の活動の詳細を記録した「覚書」の様なものを残そうとしたと考えたとしても不思議ではありません。そして、それが「伊吉博徳書」として「書紀」に引用されているものと考えられます。
 こういう一種「回顧録」のようなものが、自分の一生の終わり近くに「自分の人生の総括として」書かれるものであろう事を想定すると、それが書かれたのがこの「律令選定」修了時点であると考えるのは自然です。もちろん「メモ」的資料は以前からあったと考えられますが、それが「書」としてまとめられたのは「八世紀」に入ってからではなかったでしょうか。
 その「伊吉博徳書」と「書紀」中の「伊吉博徳言」というものが「同系統資料」であることは明白でしょう。つまり、この「伊吉博徳言」という記事は、「八世紀」に入ってから「話された」可能性が高いものと思われます。
 そもそも「書紀」自体が「八世紀」に入り「七二〇年」という完成時期まで編纂が続いていたとされるわけですし、その「八世紀」の朝廷に彼は参画していたわけですから、彼への直接取材があったとしても不思議ではありません。
 
 以上のことから「伊吉博徳言」の「今年」とは「七〇四年」のことであり、しかも「遣唐使帰国後」の事と考えると「秋七月」という帰国日時以降年末までのどこか、と考えるのが有力と思慮されるものです。しかもこの「秋七月」というのは「筑紫」(「大宰府」)への到着日時と考えられ、「朝廷」への帰朝報告はその年の「十月辛酉」とされていますから、更に時期は限定できると思われます。

 もし「今年」というのが「七〇四年」ではなく、彼らの帰国がもっと早かったとする場合(たとえば「天智四年」(六六五年)の「劉徳高」の来倭の時期など)、それは「伊吉博徳書」のもっと早い完成を想定する場合や、もっと早い時期に彼の話を聞いて書いたとする場合に想定しますが、その場合「智宗以庚寅年付新羅舩歸」の一文を後になって付加したと考えざるを得なくなるわけであり、そう考えるにはそれを証明する(ないしは「示唆する」)別途の記録などの存在が不可欠と考えられます。

 以上のことから「大伴部博麻」が「自分の身を売って衣糧に充てる」という提案をしたときにそこにいた人物のうち、彼の提案を実行したことによって実際に「衣糧」を手にして帰国が叶ったのは、実際には「土師連富杼」と「弓削連元寶兒」の二人であったと推定される事となりました。つまり「博麻」は二人分の衣糧のために身を売ったとする訳ですが、これが「」になったと云うことではなく、「負債」を負ってその間「労働」により返済をするという「役身折酬」を行なったと見られるわけです。その場合彼ら二人分の帰国費用と考えると「三十年」も「ただ働き」する必要はあったのかは、はなはだ疑問ではないでしょうか。


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