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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「文武」と「孝徳」の類似点

2018年09月05日 | 古代史

 今回の投稿は2016年10月に一度投稿しているものと基本同じですが、記事のつながりの関係もあり再度投稿します。

 既に見たように当初の『日本紀』は「七世紀半ば」までしか書かれておらず、『続日本紀』はその「七世紀半ば」以降について書かれていたと推定した訳であり、『文武紀』は実は『孝徳紀』の場所に入るべき「記事」でありまた、「倭国王」ではなかったかと考えられることとなったわけです。
 これについては一般に(多元史観論者の中でも)これを「文武」が実在であり、「孝徳」が「造られたもの」という理解がされているようです。それは『孝徳紀』が「宣命体」の文章や『大宝律令』を背景とした記述などが推定され、そのことから「八世紀」の事実を反映したものという理解からのようです。しかし、それは「予断」「偏見」の類ではないでしょうか。つまり、その様なもの(「律令」的制度や文言あるいは「宣命体」の詔等)が「七世紀半ば」に「あったはずがない」といういわば固定観念に縛られている結果と思えます。
 しかし、逆に考えれば、「たかが」数十年程度の差などあって無きに等しいのではないでしょうか。その「年差」はそれほど「絶対視」出来るものであるかと考えると、そうではない見方があっても不思議ではないと考えます。
 
 既に触れたように『書紀』と『続日本紀』を見比べてみると「孝徳」と「文武」には多くの「共通点」があるように思えます。

(1)共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いています。
 「孝徳天皇」は「皇極天皇」からの譲位であり、「文武天皇」は「持統天皇」からの譲位です。また、死後「斉明天皇」と「元正天皇」(共に女帝)が跡を継いでいます。

(2)さらに両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。彼ら以外の天皇は『書紀』で見る限り即位は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており、際だった違いがあります。
 「孝徳」が「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「改元」は同じ月の「乙卯」(十九日)に行われています。(大化)

「天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌。(十四)天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。而詔曰。云々。中大兄退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰。古人大兄。殿下之兄也。輕皇子。殿下之舅也。方今古人大兄在。而殿下陟天皇位。便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望。不亦可乎。於是。中大兄深嘉厥議。密以奏聞。天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位。策曰。咨。爾輕皇子。云々。輕皇子再三固辭。轉譲於古人大兄更名古人大市皇子。曰。大兄命。是昔天皇所生。而又年長。以斯二理可居天位。於是。古人大兄避座逡巡拱手辭曰。奉順天皇聖旨。何勞推譲於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髮。披著袈裟。由是。輕皇子不得固辭升壇即祚。…
乙卯。(十九)…改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」

 これに対し「文武」は「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年から「文武」としての年数が数え始められています。

「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)
「(六九八年)二年春正月壬戌朔。天皇御大極殿受朝。文武百寮及新羅朝貢使拜賀。其儀如常。」

 『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、他の天皇の即位とは際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっていますがこのような改元も「孝徳」と共通しているのです。
 本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。
 「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定してしまいかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が立てられた理由ともなっています。
 『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえるものです。
 
(3)両者とも「明神」「現神」という「神」を前面に出した称号を使用して「詔」を出しています。
 「孝徳天皇」が出したとされる詔には「明神」という称号が使用されています。

「大化元年秋七月丁卯朔 丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神』御宇日本天皇詔旨。」
「大化二年二月甲午朔戊申『明神』御宇日本倭根子天皇(後略)」

それに対し「文武天皇」の詔には「現神」という称号が使用されています。

「文武元年(六九七)八月庚辰十七 庚辰。詔曰。『現御神』止大八嶋國所知天皇(後略)」

 これらの称号はほぼ同じ意味であり、「自ら」を「神」の位置に置くものと思われます。つまり、「天帝」とみなされる「天照大神」からの「直系」という意識が言わせる用語と考えられ、彼らに共通しているのは、自らを「皇祖」「瓊瓊杵尊」と同格な存在と規定していることではないかと考えられます。

(4)共に「皇子」時点の名称は「軽」です。
 「孝徳天皇」は即位前「軽」皇子でしたが「文武天皇」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。

(5)また、共に予定された「皇太子」ではなく、また「即位」でもありませんでした。
 「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極天皇」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。これに対し「文武天皇」は「草壁皇子」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
 父である「草壁皇子」は「皇太子」でしたが、他に「高市皇子」「川嶋皇子」「舎人皇子」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁皇子」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)

(6)「改革」のパートナーが共に「藤原氏」であること。
 「孝徳天皇」は「鎌足」をそのパートナーとしましたが、「文武天皇」はその息子である「不比等」をパートナーとしました。
 『孝徳紀』には「軽皇子」が彼の夫人(妃)に「鎌足」に「奉仕」させる記事があり、「鎌足」はその恩を感じたという記事があります。

「(皇極)三年(六四四年)春正月乙亥朔。以中臣鎌子連拜神祗伯。再三固辭不就。稱疾退居三嶋。于時輕皇子患脚不朝。中臣鎌子連曾善於輕皇子。故詣彼宮而將侍宿。輕皇子深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏淨掃別殿高鋪新蓐。靡不具給。敬重特異。中臣鎌子連便感所遇。而語舎人曰。殊奉恩澤。過前所望。誰能不使王天下耶。謂宛舎人爲駈使也。舎人便以所語陳於皇子。皇子大悦。」

 このように書かれた後「軽皇子」は「天皇」になっているわけです。そして「大化の改新」の後、「孝徳天皇」即位と同時に「鎌足」(鎌子)に「内臣」と「大錦冠」を授け、「宰相」として諸官の上にある、としたのです。

「…以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。中臣鎌子連。懷至忠之誠。據宰臣之勢。處官司之上。故進退廢置。計從事立云々。…」(孝徳即位前紀)

 また、『文武紀』にも「孝徳天皇」が「鎌足」の忠誠ぶりを「武内宿禰」に比したことをあげ、その上で「不比等」に「食封を賜った」ことが書かれています。

「(慶雲)四年(七〇七年)…夏四月…壬午。詔曰。天皇詔旨勅久。汝藤原朝臣乃仕奉状者今乃未尓不在。掛母畏支天皇御世御世仕奉而。今母又朕卿止爲而。以明淨心而朕乎助奉仕奉事乃重支勞支事乎所念坐御意坐尓依而。多利麻比■夜夜弥賜閇婆。忌忍事尓似事乎志奈母。常勞弥重弥所念坐久止。宣。又難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。建内宿祢命乃仕奉覃流事止同事敍止勅而治賜慈賜賈利是以令文所載多流乎跡止爲而。隨令長遠久。始今而次次被賜將往物叙止。食封五千戸賜久止勅命聞宣。辞而不受。減三千戸賜二千戸。一千戸傳于子孫。…」

 ここで改めて「鎌足」を顕彰する「詔」を出す意味、そして「不比等」に「褒賞」を与える意味がかなり不明です。しかもここでは「鎌足」について「難波大宮御宇掛母畏支天皇命乃。汝父藤原大臣乃仕奉賈流状乎婆。」となっており、一般に考える「天智」との関係ではなく「難波朝」に仕えたことについて顕彰しています。
 『続日本紀』の「功田下賜記事」には、「乙巳の変」においての「鎌足」の功績が抜群である(大功とされている)として「褒賞」として、与えられた「功田」について「世世不絶」として「永年」にわたる子孫への継承が許されていることがあきらかとなっています。

「天平寳字元年(七五六年)…十二月…壬子。太政官奏曰。旌功。錫命。聖典攸重。襃善行封。明王所務。我天下也。乙巳以來。人人立功。各得封賞。但大上中下雖載令條。功田記文或落其品。今故比校昔今。議定其品。大織藤原内大臣乙巳年功田一百町。大功世世不絶。…」

 しかし「藤原姓」を与えられるなどのことは「天智朝」において行われているものであり、それらと「難波朝」における「鎌足」の功績というのがしっくりきません。「乙巳の変」においても「鎌足」の出番らしいものは『書紀』には全く書かれておらず、事前の計画段階でも登場しないのです。にも関わらず「大功」であるとされます。
 このように「難波朝」での功績らしいものは特に目立たないのですが、この「文武」の詔によれば明らかに「鎌足」は「難波朝」における功績を激賞されており、「鎌足」の活躍というものは「天智朝」ではなく実際には「難波朝」においてのものであったということとなりますが、その意味では「孝徳」と「鎌足」の関係が深かったことを示唆するものであり、それは「文武」と「不比等」の関係に重なるものであることをこの「詔」そのものが示しています。
 『書紀』や『続日本紀』記事では「中大兄」と「鎌足」というのが「絶妙なコンビ」として描かれているものの、それは実は単なる「印象操作」によるものであることとなるでしょう。

(7)在位期間が近似していること。
 この両者については「在位期間」も似たような長さになっています。

(孝徳天皇)即位:「六四五」六月丁酉朔庚戌(十四日)
    死去:「六五四」白雉五年冬十月癸卯朔壬子(十日)
     在位期間は「六四五年六月 - 六五四年十月」の九年四ヶ月(約一一七ヶ月)

(文武天皇)即位:「六九七」文武元年八月甲子朔(一日)
   死去:「七〇七」慶雲四年六月丁卯朔辛巳(十五日)
     在位期間は「六九七年八月 - 七〇七年六月」の九年十ヶ月(約一二三ヶ月)

 以上のように「孝徳天皇」と「文武天皇」の在位期間は近似しているわけです。

(8)また一見してわかるように「文体」が共通です。
 『孝徳紀』の文章は、まるで『書紀』の中に突然『続日本紀』が出現したような「違和感」があります。これは「宣命体」を下敷きにして書かれていると考えられ、この時点で「宣命体」で「詔」が出されていると「悟られ」ないように、書き改めた結果と思料されます。

 以上、この両者には「類似」(或いは「酷似」と言っても良いでしょう)点があるわけであり、これ「偶然」などではなく「造られた」ものである可能性が強いと思われます。そして、これが「作為」であったとすると、当然それは『書紀』編纂時点であるわけですから、「八世紀」に入ってから行われたものと考えられます。さらに「持統付近」で『書紀』が一部作られていたとすると「文武」に似せて「孝徳」が書かれたはずがないこととなるでしょう。(『日本紀』と『続日本紀』の先後関係から言って)
 つまりこれは「孝徳」に似せて「文武」を作り上げた結果であると考えられるわけです。

 これら上に述べた全てのことは必然的に彼らに禅譲を行った「皇極」と「持統」が酷似していることにもなるでしょう。
 それに関して「皇極」に「堕地獄伝承」があることが注目されます。これは『善光寺縁起』に明確なものですが、「皇極」が死後地獄に堕ち、鬼達に引き据えられ、上半身の衣服をはぎ取られて拷問を受けている様子が描かれています。そのように彼女が地獄に堕ちた理由として挙げられている中に興味ある一節があります。

「…此女人、罪業深重者也、全不可免、其故以五障三従賎身穢十善王位、『妨正道憲法道理』、致非理非法責、故天下不静万民懐愁、吹気成黒煙、只此女人一人身上…」

 ここでは特に『妨正道憲法道理』とされていますが、これに関係があると思われるのが「持統」の「伊勢行幸」です。
 そこでは側近である「三輪君」が「冠」を脱ぎ捨てて諫言したとされますが、それが「聖徳太子」が制定したという「十七条憲法」に違背しているというのがそのような諫言を行った理由と思われますから、「持統」の行いは間違いなく『妨正道憲法道理』であるわけです。
 「聖徳太子」は「阿毎多利思北孤」(上宮法皇)の投影であり、彼は死後「仏陀」と同一化が進行していたようですから、彼に対する違背は「仏陀」に対する「違背」であり、そうであれば「地獄」に落ちたとして不思議ではないこととなるでしょう。その意味でも「持統」と「皇極」は同一人物と見られるわけです。

 上に縷々推定したことから、『文武紀』の記事の中には「七世紀半ば」に遡上するべき記事があることが示唆されます。それを以下に検討してみます。


(この項の作成日 2011/04/28、最終更新 2016/02/27)旧ホームページの記事を転載

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「文武」天皇と「浄原御寓」(二)

2018年09月05日 | 古代史

「文武」の統治した宮が「浄原宮」であることが「藤原継縄」の上表文で明らかとなっているわけですが、『三国仏法伝通縁起』によってもそれは明らかとなります。

『三国仏法伝通縁起(下巻)』
「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光?(もたらす)来所以然者。…」

 この記述によると「道光」が「遣唐使」として入唐したのは「天武天皇」の時代のこととされているようですが、この「道光」は「白雉年間」の遣唐使として派遣されたという記事が『書紀』にあります。

「白雉四年(六五三)五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 『道光』 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聡 道昭 定惠〈定惠 内大臣之長子也〉 安達 安達中臣渠毎連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 氷連老人 老人眞玉之子。或本以學問僧知辨 義德 學生坂合部連磐積而増焉 并一百二十一人倶乘一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」

 つまり彼が派遣されたのは「孝徳」の時代のことであって、「天武」の時代ではなかったはずなのです。しかし、この「道光」が帰国後著した「一巻書」として『依四分律鈔撰録文』という「戒律」に関する「書」があり、その「序」として「浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。」とあったとされています。このことから(「凝然」も含め)一般にこの「浄御原天皇」を「天武天皇」のこととする訳ですが、それでは『書紀』の記述と整合しないこととなってしまいます。
 また、上の『三国仏法伝通縁起(下巻)』中では「而其帰朝。定慧和尚同時。」とも書かれており、「定慧(定惠)」と同時に帰国したとされていますが、「入唐」が同時であったのは「白雉年間」の記事で判明しますから、彼らが行動を共にしていたというのは不自然ではありません。しかし『孝徳紀』に引かれた「伊吉博徳」の言葉として「定惠以乙丑年付劉德高等舩歸」とありますから、彼は「乙丑年」つまり「六六五年」には帰国したこととなりますから、これとは食い違います。
 また「帰国」については『縁起』では「戊寅年」とあり、これは「六七八年」と推定される訳ですが、もし「天武」により派遣されたとするなら「派遣」から帰国まで「七年以内」であったこととなってしまいます。しかし、これは仏教の修学の年限としてはかなり短いのではないでしょうか。
 この時入唐が同時であった「定慧(定惠)」の場合、『書紀』に引用された「伊吉博徳言」によれば「乙丑年」に「劉徳高」の来倭に便乗して帰国したこととなっています。

「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 『定惠以乙丑年付劉德高等舩歸』 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶今年共使人歸。」

 この「乙丑年」はすでに見たように「六六五年」であり、この場合「十二年間」の滞在となりますが、少なくともこのぐらいは修学の年限として必要であったとと思われます。このことについては、「凝然」自身も「不審」を感じているようであり、「道光入唐。未詳何年。」としています。つまり記述にもあるように「天武元年」以降「七年」までのどこかであるとは思っているものの、そのような記録は『書紀』と整合しないことを知っていたものと思われます。それはこの時代に「遣唐使」が送られたという記録は『書紀』にないことからも疑問に思われたのではないかと推察されます。
 『書紀』で「遣唐使」として「道光」と名が出てくるのが『孝徳紀』であり、そこに「入唐」した日付等が書かれているにも関わらず、「未詳」としているのは、『孝徳紀』の記録を知っていて「無視」したと考えられます。それは「道光」の書いた「序」に「浄御原天皇」とあることを重視したからではないかと考えられ、これに注目した結果『孝徳紀』の「記録」を軽視したと言うことかもしれません。
 しかし、これらのことは「道光」が云う「浄御原天皇」というのが「天武」ではないことを如実に示すものと思われ、「七世紀半ば」の「倭国王」が「浄御原天皇」と呼称されていたと云うことを示すと思われます。
 以上のことは「大長」年号についてすでに書いたことでも補強されます。
「大長」という年号はいわゆる「九州年号」中に存在しますが、史料によりその場所(年次)が異なるのが知られています。『二中歴』によれば「大化」の後に入れられており、『八幡宇佐宮御託宣集』でも「持統」の代の記事として書かれています。しかし「常色」と「白雉」の間、つまり「七世紀半ば」に入れている史料もあります。(『如是院年代記』、『開聞山古事縁起』など)
 この記事がもし正しければ『伊豫三島縁起』において「文武」ではなく「天武」と書かれている事とつながります。

『伊豫三島縁起』では「…天武天王御宇『天長九年』《壬子》六月一日。…」(『続群書類従』巻第七十六「伊豫三島縁起」の段)とあり、これらからは「大長」についてその元年が「壬辰」(「六四四年」)であり、「六五二年」までの九年間継続したという推定も可能となります。その場合『伊豫三島縁起』の「壬子」という年は「六五二年」と考えるべき事となるでしょう。つまり「白雉元年」と一致するわけです。

 さらに『伊豫三島縁起』では以下のように「東夷」を「征罰」したとされています。

「天武天皇御宇天長九年壬子六月一日。為東夷征罸。第一王子伊豆國御垂迹云云。」

 ここでは「天武天皇」が「東夷征罸」するために「第一王子」を「伊豆国」へ派遣したように書かれています。この「東夷」が何を意味するかは不明ですが、『書紀』には「天武」が「東夷」を「征罸」した(あるいはそのために「王子」を派遣した)というような記述は見あたりません。ましてこの「天武」を「文武」の書き違いとして、「王子」(これは後の聖武天皇となると思われる)は「文武」の死去した時点でまだ七歳であったとされますから「東夷」など征伐できるはずもなく、またそのような記事は確かに『続日本紀』にはありません。
 この「東夷」がいわゆる「蝦夷」を指すとすると、『書紀』を見ても「蝦夷」への武力対応は『斉明紀』に最も明確であり(「阿倍比羅夫」の遠征として描かれています)、それは「六五〇年代」ですからまさに「七世紀半ば」の出来事となります。その場合「壬子」とは既にみたように「六五二年」を指すとみて矛盾はないわけです。そしてこの記事に対応するのは『天武紀』にある「伊勢王」の「東国限分」記事(以下のもの)ではないでしょうか。

「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」
「(天武)十三年(六八四年)冬十月己卯朔…辛巳。遣伊勢王等定諸國堺。…」
「(天武)十四年(六八五年)冬十月癸酉朔…己丑。伊勢王等亦向于東國。因以賜衣袴。…。」

 これらの記事のうち前二つの記事では「諸国」とされていますが、実際にはそれが「東国」のことであったのは三番目の例が示しています。そこには「亦」とありますから、以前の「諸国」も「東国」を意味していたことも確かでしょう。
 しかし、ここで出てくる「伊勢王」は、すでに見たように生存していた実年代は「七世紀半ば」と見られ、その場合この「東国限分」の実年代としては「六四九年」から「六五一年」にかけての話となりますから、上に見た「六五二年」付近のことと思われる『伊豫三島縁起』の「東夷征罰」と重なることとなります。

 以上から見て、「文武」つまり「浄原御寓」が『日本後紀巻五』に言うように「丁酉年」つまり「六九七年」以降統治していたという記述は疑わしいものと考えられ、実際には「白雉年間」に存在した人物であったと考えられる事を示しました。


(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2017/03/11)旧ホームページ記事を転載

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「文武」天皇と「浄原御寓」

2018年09月05日 | 古代史

 すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
 この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

『日本後紀』巻三逸文(『類聚国史』一四七国史文部下)
「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。臣聞黄軒御暦。沮誦攝其史官。有周闢基。伯陽司其筆削。故墳典新闡。歩驟之蹤可尋。載籍聿興。勸沮之議允備。曁乎班馬迭起述實録於西京。范謝分門。聘直詞於東漢。莫不表言旌事。播百王之道猷。昭徳塞違。垂千祀之炯光。史籍之用。蓋大矣哉。伏惟聖朝。求道纂極。貫三才而君臨。就日均明。掩八州而光宅。遠安邇樂。文軌所以大同。歳稔時和。幽顕於焉禔福。可謂英聲冠於胥陸。懿徳跨於勳華者焉。而屓戻高居。凝旒廣慮。修。國史之墜業。補。帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…。」

ところでこの記事とは別に『日本後紀巻五』に『続日本紀』編纂に関する記事があります。

「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」
「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰續日本紀。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之龜鏡。炳戒昭簡。作千祀之指南。伏惟天皇陛下。徳光四乳。道契八眉。握明鏡以惣萬機。懷神珠以臨九域。遂使仁被渤海之北。貊種歸心。威振日河之東。毛狄屏息。化前代之未化。臣徃帝之不臣。自非魏魏盛徳。孰能與於此也。既而負・餘閑。留神国典。爰勅眞道等。銓次其事。奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年。卅四年廿卷。前年勒成奏上。但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案卅卷。語多米鹽。事亦踈漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足。刑部卿從四位下淡海眞人三船。刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等。分帙修撰。以繼前紀。而因循舊案。竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已。寳字元年之紀。全亡不存。臣等搜故實於司存。詢前聞於舊老。綴叙殘簡。補緝缺文。雅論英猷。義關貽謀者。惣而載之。細語常事。理非書策者。並從略諸。凡所刊削廿卷。并前九十五年・卷。始自草創。迄于斷筆。七年於茲。油素惣畢。其目如別。庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善□惡。傳萬葉而作鑒。臣等輕以管窺。裁成国史。牽愚歴稔。伏増戰兢。謹以奉進。歸之策府。」

 この記事の年次は上の「逸文」の記事の「以降」のものであり、時系列としては「逸文」が先行しています。しかし、内容を見ると「逸文」では「菅野真道」以下による『続日本紀』撰進が「中途半端」であったので、再編集したという意味のことが書かれていると考えられるのに対して、それ以降の記事とされる「巻五」の方が「逸文」で否定された「菅野真道」等により『続日本紀』が撰上されたという趣旨の記事が書かれています。このふたつの記事は明らかに「矛盾」であり、両立できないと思われます。このことはこの両者の真偽に対する根本的な疑いが発生するところです。

 『日本後紀逸文』は「菅原道真」が「勅」によりまとめた『類聚国史』などに引用されていたものですが、「巻五」及びそれを含む計十巻は江戸時代になって突然出現した史料です。「応仁の乱」以前には四十巻存在していたとされていますが、その後散逸したとされていたもので、これについては「塙保己一」(の門人)が京都で発見したとされていますが、そもそもそこまで全く史料として見つけられていなかったと言うことも不思議です。
 『日本後紀』には「偽書」の疑いがあるものもかなり多く、この「塙保己一」版にもその疑いが発生するところです。
 一般にはこの巻本については「偽書」とはされていないようですが、「逸文」と矛盾するとすれば、どちらかに問題があることとならざるを得ません。(一説にはこの「塙保己一」版は「柳原紀光」(公家)による「校訂本」であるというものもあるようです)
 史料的には「逸文」の方が確実性が高く、また「素性」も確かであるのに対して、「十巻本」については一抹の不明確さがあると思われます。このことはこれら異なる系統の写本の間で「互いに矛盾する」記事があった場合「逸文」の方が信憑性が高いと判断できることを示します。その問題の「十巻本」の中には「但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。」と書かれた部分があり、これによれば「文武」が「七世紀末から」「八世紀」にかけての人物であると判断できる訳ですが、これと「矛盾する」と考えられるのが冒頭の「逸文」の記事内容です。
 この「逸文」の中には「先典」という言い方が出てきます。これは『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
 そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「浄原の前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
 この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「浄原宮」で統治した(「浄原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「浄原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。しかし、「浄原(宮)」というものがいつ出来たのかと考えると、旧説とは異なり、「天智」の革命王朝の時点ですでに存在していたと推定されます。
 「国史大系」の『日本後紀逸文』の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それでは「持統」が不在になるばかりか「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまいます。この解釈には通釈としても問題があることは間違いありません。
 現代ではこの部分については「浄原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔にも「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。

「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」

 これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
 さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。

「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」

 この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
 そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。このため単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われます。つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
 そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。 
 上に見たように「逸文」の記述では『続日本紀』の記述対象期間としては「干支」などが記載されておらず、その点が「十巻本」と異なっています。しかし、この「十巻本」のこの部分の記述に「不審」があるのですから、この「干支表記」も同様に疑わしいと考えざるを得ないこととなるでしょう。
 そのことは鎌倉時代の僧「凝然」が著した『三国仏法伝通縁起』からも裏付けられます。


(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2017/03/11)旧ホームページ記事を転載

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氷連老人と薩夜麻が同時に捕囚となっていた理由について

2018年09月05日 | 古代史

 「持統」の「大伴部博麻」を顕彰する「詔」の中でその名前が出てくる「冰連老人」という人物については、彼が「遣唐使」として派遣されて以来、継続して「唐」に滞在していたと考えられるものであるのに対して、「冰連老人」と同席していたとされる「博麻」や「薩夜麻」は「唐」ではなく「百済国内」で「捕囚」になっていたと見るべきと考えられることとなり、これらの事は「何らかの」矛盾を含んでいることを示すものと思われます。
 この「矛盾」に対しては、全くの推測と仮定の世界とならざるを得ないわけですが、一つのストーリーが考えられるでしょう。つまり、彼はそもそも「学生」ではなく、その名目を借りた「軍事スパイ」であったためであり、戦場となることが確実となった「百済」で諜報活動を行っていたが、戦いが始まってしまい、倭国から派遣された軍隊と共に戦いに参加し、「薩夜麻」達と共にそこで捕虜となった、というシナリオです。

 「博麻」「薩夜麻」などは「兵士」であり「将軍」であったわけですが、それに対し「冰連老人」は「遣唐使」であったはずです。その彼らが同じ場所に「収容」されているわけですが、それが「唐国内」であったとすると当時「倭国」や「百済」と戦いになった時点で「唐国」は「倭国」などから派遣されていた人達をいずこかに「収容」したと言うこととなります。(太平洋戦争当時のアメリカにおける日系人の「強制収容」と似ています)果たして、このようなことがあったのでしょうか。
 「唐」側資料を渉猟しましたが、戦争の相手国からの「使人」や「学生」あるいは「諸蕃」の「子弟」を「充てていた」とされる「宿営」などを、「拘束」したとか「収容した」というような資料は見あたりませんでした。(逆に本国に送還したという記事ならありました。)
 唯一確認できるのが「六五九年」の「遣唐使」を「両京」(長安と洛陽)に分かれて幽閉したというものです。この中に「氷連老人」がいたとすると彼等に「薩夜麻」達が合流する必要があり、それは「百済王」達が「唐皇帝」の前に連行された時点以外ないと思われます。これらの中に「薩夜麻」が混じっていたとする他ない訳ですが、その想定は困難でしょう。なぜなら「百済王」達はその場で(倭国からの遣唐使も含め)解放されているからです。それは「薩夜麻」達が「虜」とされて歴年拘束されていたとする状況と整合しないと思われます。
 『書紀』によると「天命開別天皇三年」つまり「六六三年」時点でまだ「虜」とされていたように書かれており、「百済王」達の置かれた状況とは異なることが判ります。このことからこの時点で「氷連老人」と「薩夜麻」達が合流したわけではないこととなります。

 既にみたように、「博麻」は「旧百済」の地で「債務返済」のため労働していたと考えられる訳であり、「氷連老人」が「薩耶麻」達と共に補囚になっているところを見ると、彼は「六五九年」の遣唐使が「派遣」された時点付近で既に「百済」(あるいは「新羅」)にいたという可能性が出てきます。そして、「百済を救う役」が「勃発」した時点で参戦した「倭国軍」の中に「薩夜麻」や「博麻」がおり、彼等と共に「旧百済」の地で「唐・新羅連合軍」の「虜」となったとみる以外にないのではないでしょうか。いずれにせよ「氷連老人」はなぜ「百済」にいたかですが、それは「軍事情報」の収集という重要な任務があったものであり、その最中に戦闘に遭遇したということではないでしょうか。
 「六五九年」に派遣された「伊吉博徳」達を含む「遣唐使」団は「洛陽」で行われた「冬至」の儀式に参列し「暦」などを受領する目的であったと推量されますが、それ以前に派遣されていた「遣唐使」達も同様にこのとき「洛陽」に集まっていたという可能性もあるでしょう。(むしろ「唐」政権により「洛陽」に集められていたという可能性さえあるでしょう。それは一種の「捕虜」としてです。)
 そして発生した「出火事件」の関連で彼等「倭国」からの人々は一斉にその身柄を収監されたということが考えられます。しかしこのときに「氷連老人」がその中にいたとすると「薩夜麻達」と一緒に「捕虜」となることはできません。明らかにそれ以前に「半島」にいなければならず、可能性としては『書紀』で「六五三年」に派遣された「遣唐使団」のうち遭難しなかった「吉士長丹」を「遣唐大使」とする一行がその目的を果たし帰国したという「六五四年」に、同時に帰国したかあるいはその途中「百済」に止まったかということが考えられます。(帰国が「百済」、「新羅」を経由したことはこの両国の送使を伴って帰国したことからも窺えます。)
 このいずれかであれば「六五九年」の遣唐使が派遣された時点ですでに「百済」国内にいることは可能であり、「新羅」が「唐」と連合して「百済」「高句麗」と対処する段階で「百済側」に立って行動していたとみることもできるでしょう。

 そもそもこの「冰連老人」の派遣は「白雉四年」(六五三年)に行われたものであり、「新羅」との間に緊張が走り、また「高句麗」と「百済」の間に結ばれた「麗済同盟」の活発化により、その「新羅」と「唐」との間が急接近している時期でした。
 また「倭国」としては「六三二年」という時点以降「唐」との正式な外交関係が途絶している状態であったため、「六四七年」(常色元年)に即位した「倭国王」は「唐」との正式な外交関係確立を目指し、そのために「新羅」を懐柔する作戦を立てたわけです。そのため「倭国」は「唐」の暦の受容など「唐」の政策にすり寄る形で関係改善を目指したものと思われます。しかし、意に反し「新羅」は「唐」との関係を強化する方向で動き出し、「倭国」にとっては「橋渡し」の役を果たさなくなってしまいました。
 「六五一年」には「新羅」からの使者を追い返す事件が発生した事もあり(「新羅」の服を捨て「唐」の服を採用したことに激怒した)、直接「唐」との間の関係を正常化する目的で「遣唐使」を派遣したものと考えられます。
 またこの時点(六五二年)に「倭国王」は死去したと推定され、代って即位した「新倭国王」の方針の変更により「唐」との親和政策を強化する方針の下派遣されたと思われます。
 このような時点での派遣は多分に「政治的」なものであったはずであり、彼ら派遣された「学生」「学問僧」などの中には「純粋」に「唐」の制度や仏教などを学ぶ者達以外に、「ロビイスト」的活動をその中に含んでいた者もいたと思われます。派遣された彼らは「唐」の都で過ごすこととなったわけですが、その間学業に励みつつ、それを兼ねて「情報収集」などの仕事を行っていたものと思われます。
 その後、更に「半島」の緊張状態が極限に達しようと言う時に、「唐」から「冬至の会」に参加するよう要請があり、これを千載一遇の好機と捉えた「倭国王権」は、最後の切り札的に「六五九年」の遣唐使を派遣したものと思われます。
 この時の遣唐使団には「蝦夷国」の使者が同行していました。これは実は「唐」に対する「示威行動」でもあったと考えられます。すなわち「蝦夷」という「唐」から見て「絶域」中の「絶域」とも言うべき場所さえも「支配」している、という「統治領域」の「広大さ」を誇示することにより、唐に対し「抑止力」としての効果を期待したものではないでしょうか。
 「倭国」としては「唐」など歴代の中国との交渉は長いわけであり、「倭国」の「領域」も既に「唐」としてはほぼ把握していたと思われますが、しかし「百済」をめぐる情勢が緊迫してくると、「倭国」に何らかの軍事的影響が及ぶ可能性が出て来たわけであり、国内では「副都遷都」を含め、各種の「防衛策」を講じていたものと思われ、「隼人」「蝦夷」についてもこれを「服属」させると共に、その事実を「唐」に「披見」する事で、「倭国」の「実力」と「版図」の広さを改めてアピールし、その事により「唐」に対し「軍」を派遣するなどの「行為」を抑制させるための「抑止力」として機能させることにしたものと推察されます。

 ところで、「薩夜麻」はその後解放されましたが、「冰連老人」が同時に解放されたのかどうかは不明ですが、彼はその後「七〇四年」の遣唐使船で戻るまで「唐」国内に居続けたものであり、「薩夜麻」が「唐皇帝」の元に「劉仁軌」により連行された際に「泰山」まで引率したものと推量されます。その後「博麻」や「薩夜麻」達が帰国したあとも「冰連老人」だけが帰国しなかったかあるいはできなかったということも考えられます。もちろん、それは「本来」の業務である「勉学」に努めるという意味もあったかもしれません。あるいは、引き続き「残留」して「唐軍」等についての軍事情報を収集すべきという命令が(薩夜麻から)与えられたという可能性もあり得ると思われます。彼はそもそも「軍事情報」を収拾するのが役割であった可能性があり、そうであれば、その「業務」を貫徹する様に指示が出たのかもしれません。
 またそれを口実として帰国を許可されなかったという可能性も考えられ、それは一種の「口止め」が行われたのではないかと思料します。この点については「大伴部博麻」の帰国が「六九〇年」という段階まで遅れた理由と同一ではないかと考えられ、彼も帰国が許可されなかったという可能性があります。

 ところで、「大伴部博麻」が帰国できた理由のひとつとしては「徳政令」があるかもしれません。「天武」「持統」両時代に出された「元本」と「利息」の双方について「乙酉年」以前についてはこれを免除するというこの「朱鳥の徳政令」は、「債務」を「労働」で支払っていた人たちにも適用され、彼ら「全員」が解放されたことを示します。
 これは「国内」に出されたものですが、「国外」で同様に「労働」による「債務」返済に従事していた人たちにもその恩恵が及んでいたのかもしれません。これは「戸籍」がある限りの者全てに適用されたという可能性もあるからです。
 ただし、「利息」「元本」共にその権利を失う「債権者」側にとっては、「大事件」であり、かなり強烈な「反感」や「拒否」があったかもしれません。または「政府」(「国家」)に対し「肩代わり」を要求するものも多数に上ったのではないでしょうか。
 これに対し全員であるかは不明ですが、一部の者には「肩代わり」することもあったのではないかと思料され、それに併せ「博麻」の場合も「債務」の「肩代わり」をしたと云うこともあり得ます。彼の場合は「主君」のために身を売ったのですから、国家がその賠償をして当然だからです。つまり「薩夜麻」等「博麻」の献身を知っていた人によって、「博麻」の捜索が行われ、発見された彼の「残債」を肩代わり(立替払い)したと言う事も考えられます。それにより彼は帰国できたのかも知れません。
 これに関しては、「天武」の葬儀の際に「倭国」を(たまたま)訪れた「新羅王子」に「博麻」の「捜索」と「支払い」を託したという可能性もあります。
 この「捜索」により「旧百済」領内で「債務」返済のため「労働」に従事していた「博麻」を見つけ、「唐」からの還りの「学問僧」に付けて帰国させたという可能性もあると思われます。


(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2017/02/06)旧ホームページより転載

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三十年にわたる捕囚の理由について

2018年09月05日 | 古代史

 「大伴部博麻」の帰国後「持統天皇」から出されたという「詔」によれば、彼は「土師連富杼等」の「唐人所計」を本国に伝えるために「身を売った」とされています。しかし、先に検討したようにこの時に帰国したのは「土師連富杼」ともう一人(弓削連元寶兒)が一緒であったもようです。彼ら二人分の帰国費用と考えると「三十年」も「ただ働き」する必要はあったのかは、はなはだ疑問ではないでしょうか。

 この「大伴部博麻」達は既に考察したように、「百済」の国内のどこかに「収容」されていた可能性が高いと考えます。
 このように「百済」からの帰国と仮定すると、その道のりは『魏志倭人伝』に書かれた「魏使」の行程と余り違わないかもしれません。そうであればその行程としては「陸行一月」程度以内及び「水行」は実質的には「数日」でしょう。「魏使」の場合は「帯方郡」からですから、水行期間が長かったと考えられますが、「熊津都督府」付近とするとほとんど「陸行」と考えられます。

 時も場所も違いますが、「古代ローマ」での「奴隷」の売買の相場は「年収」程度の金額が相場であったようです。また「秦漢」では「」の購入費用は代々「田一畝分」程度とされています。
 仮に「大伴部博麻」が体を売って得た金額が「新羅」での「年収」分と考えると、その金額は上に述べた帰国行程から見て「二人分」の「帰国費用」としては多すぎるぐらいではないでしょうか。
 このことは実際にはもっと少ない金額で帰国できた可能性が想定でき、そうであればその返済期間に自分自身の帰国費用の工面に要する期間を加えたとしても、「三十年」は余りに長いと考えられるものです。
 もし仮に「新羅」の平均年収程度を借り入れたと想定しても、「十年程度」で返済可能ではないかと思慮します。(収入の20パーセントを返済に充てるとする)
 そして「自分自身」の帰国費用の捻出に更に「五年」程度かかると想定した場合は「十五年」、これをいくらか大目に考えても「二十年」ぐらいの期間があれば帰国可能となると思われ、「三十年」という長期の滞在期間には「不審」が感じられるものです。
 また、天武紀には「遣新羅使」が数多く送られており、これを利用することはそんなに難しくなかったものと思われ、それにも関わらず帰ってこられなかったということに「不審」を感じるものです。
 つまり、三十年も滞在が長期化した理由は「別」にあるのではないかと推察されます。この理由として考えられるのは、「政治的」な理由ではないでしょうか。

 「大伴部博麻」は「六九〇年」になって「新羅」の船で帰国していますが、これは実は「薩夜麻」の死去の話を聞いて帰国したのではないでしょうか。つまり、彼は「薩夜麻」の生存中は、その帰還が「許されなかった」のではないかと思えるのです。
 彼の存命中に「大伴部博麻」が帰国すれば、「捕虜」となっていたこと、さらには「部下を売って帰国した」と「薩夜麻」にとっては印象の悪い話を流布される可能性があり(部下を売ったかどうかは別として)、これは「倭国王」としてははなはだ「不名誉」な事であり、民意が離れていく事を懸念したものと思われるのです。

 「薩夜麻」については『書紀』は帰国記事だけであり、その後のことが(その前もそうですが)一切書かれていません。「百済を救う役」及びそれに続く「白村江の戦い」で捕虜になった人物で「君」の称号で呼ばれるような「高位」の人物の帰還は彼しかいないのです。
 これら一連の戦いでは多くの人間が捕虜になった模様であり、「大伴部博麻」や「八世紀」に入ってから帰国できた「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等」等の人物などもいますが、彼らに対してはその時点の天皇より彼らの労苦に報いるような「顕彰の詔」と多大な褒賞が与えられています。であるとすれば、帰国した「薩夜麻」にも同様に「褒賞」なりが与えられたり、その長期の「捕囚生活」をねぎらう詔が発せられても良さそうなものですが、それらは「全く」記載されていません。
 もし、彼が取るに足らない存在であれば「郭務悰」を伴って帰国するなどの行動や、その帰国に際して「郭務悰」に先立って「対馬」の守備隊に「身分」を明かし、攻撃しないよう要請するなどの行動も不可能でしょう。(彼は「筑紫君」なのですから「対馬」の人間にとっては「既知」の人間であったと考えられます)
 そもそも「郭務悰」と同行している、という事は「郭務悰」はこの「薩夜麻」という人物について「熟知」していたと考えられるものです。つまり、「薩夜麻」が「筑紫君」であること、『書紀』には記載がないものの、推測によれば「倭国王」であり、少なくとも「百済遠征軍」の将軍の一人であったことなどです。
 彼の発言や行動あるいは指示が「倭国」では有効であることを承知していたからこそ、同行したと考えられ、逆に言えば「薩夜麻」の存在が「倭国内」で重要であることが推察されるものです。
 また、他の帰国者のように「褒賞」などを与えられ一種の「お茶を濁す」ような事も可能でしょうが、彼に対してはそのようなことをするわけに行かなかったことが「何も書かれていない」このとの「裏側」にあるのではないでしょうか。つまり、彼は「最重要人物」であったと思われ、そのような人物である「薩夜麻」が「帰国」後もそれなりの地位に復帰したであろう事は想像に難くないと考えられます。

 また「彼は」「筑紫君」という立場でしたが、「大伴部博麻」は「筑後の軍丁」ですから、「薩夜麻」の部下であったわけであり(だからこそ主君のために体を売ろうとしたと考えられますが)、そんな彼(大伴部博麻)に「薩夜麻」の立場を悪くするような「証言」ができるわけもないわけであり、彼(薩夜麻)がその後も生きていたであろう事は間違いないことと思われますから、彼のために「体を売った」とされる「大伴部博麻」が帰国できる条件が整わなかったものと考えられます。
 つまり「薩夜麻」の死去は「六九〇年」という年次にかなり接近した年であることが推定されるものです。そして、「やっと」帰って来ることができた「大伴部博麻」は「捕囚時」のことを話したのでしょう。その結果、「持統天皇」は詔を出すこととなったものです。
 その「持統」の詔では「朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠」とされ、「薩夜麻」達を帰国させるのに「身を売った」ということが「尊朝愛國」とされ、最上の美徳であるように顕彰されていますが、それもそのはずであり「薩夜麻」が国内において「至上」の存在であったことをその過大とも誇張とも思える詔の表現が示しているようです。
 しかしこの「大伴部博麻」が帰国してから話した(話すことができるようになった)内容については、「多くの人々」が「薩夜麻」と結びつけて考え、そして受け取ったものと思われ、この「倭国王」の挙動に対して「失望と怒り」をもって受け止められたのではないかと思われますが、「持統」もそれを念頭においての「詔」であったという可能性もあるところです。


(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2016/12/06)旧ホームページからの転載

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