古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大伴部博麻」の収容されていた場所についての考察(二)

2018年09月05日 | 古代史

 「大伴部博麻」の収容先について「唐」の地である可能性が高いと推量したわけですが、他方「半島」のどこか(百済あるいは新羅の地)であるとみることもまた可能である様に思われます。

 先に見た「慶雲年間」の「捕虜」の帰国も、また『天武紀』の「捕虜」の帰国記事からも、当時の「捕虜」達が「」という半奴隷的立場に落とされていたことが明らかになっていますが、当時戦争捕虜が「」として扱われるのは通常のことであったものです。もし「博麻」達が「唐」に連れて行かれて「」ないしは「官」という立場となったとすると、この場合は「逃亡」(特に国外への逃亡)はかなり困難であったと思われ、「博麻」が身を売ったところで「唐国内」から脱出し、列島に戻ることはとても不可能であると思われます。
 また結果的に「博麻」は「身を売った」とされていますが、三十年経過の後に釈放されて帰国しています。この釈放は上で見た『続日本紀』の「刀良」等などとは当然異なるものです。「刀良」は「身を売った」わけではありませんし、釈放されたのは「長年月」年月経過して「老年」に達したための一種の「恩赦」のようなものであったと思われます。(そういう制度や運用は実祭にあったもののようです)しかし「博麻」の場合は明らかに「仲間の帰国費用」という「債務」を負い、その返済のために必要な期間「労働」に従事したものであり、その期間が過ぎたため「解放」されたものと考えられ、この二つは明らかにその「性質」が異なるものです。
 この「博麻」の場合は「律令」に言う「役身折酬(えきしんせっしゅう)」と呼ばれる「負債」の返済方法であったと考えられます。
「役身折酬」とは『養老令』「雑令」では「債権者が債務者の資産を押収しても全ての債権を回収できない場合には未回収分の範囲に限って債務者を使役できる」というものです。

(以下『養老令』雑令十九「公私以財物条」)
「凡公私以財物出挙者。任依私契官不為理。毎六十日取利。不得過八分之一。雖過四百八十日不得過一倍。家資尽者役身折酬。不得廻利為本。若違法責利。契外掣奪。及非出息之債者。官為理。其質者。非対物主不得輙売。若計利過本不贖。聴告所司対売即有乗還之。如負債者逃避。保人代償。」

(大意)
「公私が財物を出挙(すいこ)(=利子付き貸与)したならば、任意の私的自由契約に依り、官司は管理しない。六十日ごとに利子を取れ。但し八分の一を超過してはならない。四百八十日を過ぎた時点で一倍(=百%)を超過してはならない。家資(けし)(=家の資産)が尽きたなら、役身折酬(えきしんせっしゅう)(=債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻(めぐら)して本(もと)とする(複利計算)ことをしてはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(せいだつ)(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債の場合は、官司が管理する。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし、利子を合計しても本(もと)(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対して売るのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(ほうにん)(=身柄保証人)が代償すること。」

 ここで書かれたような「債務返済」の一方法としての「役身折酬」というような規定を「博麻」達が知っており、それを自らに「適用」しようとしたのではないかと考えられます。(これは彼等に「律令」の知識があったことを示しており、この「六六〇年代」において「倭国」に「律令」が施行されていたことを「示唆」するものでもあります。)
 彼らはこれを「抑留」されていた場所で行おうとしたものであり、これは彼らが「官」や「」という立場ではなかったことを示しているでしょう。確かに『持統紀』の記事では「虜」となったとは書かれているものの「没」されたとは書かれていませんから、「」や「官」となったわけではないことが窺えます。
 元々このような返済方法は「良民」(自由民)にしか許されておらず、「官」のような立場にいる人間には、そのようなことは不可能であったでしょうし、そのようなことを考えるという「発想」がなかったものと思われます。
 「唐」に連行され、「」ないし「官」などという立場に「落とされた」人間が、更に「債務」を負い、そのために「労働」で返済しようというのは、基本的には「無理」な話であると思われます。そもそも「」の労働は「無対価労働」とされ、いわば「ただ働き」です。けっしてそれが何十年続こうと解放されるということはありませんでしたが、「良民」が「債務」を払いきれず「労働」で返済するという場合は「賠償」が済むと解放されるのが普通でした。(但し、債務があまりに多い場合はその労働期間も長くなり、「終身」「」同然に労働させられる場合もあったとされます)
 
 この事からの推論として、「彼等」は「唐」国内において「」でも「官」でもなかったこととなり、「自由民」として存在していたと推定されることとなります。そのようなことが実際に可能だったのでしょうか。そうは思えません。
 また「唐」国内では人身売買ができなかったと考えられます。「唐」で自分の身を売ったとすると、買ったのは「唐人」であることとなりますが、「唐律」では「人身売買」は「死罪」とされていました。「人」を掠(かすめる・さらう)し、掠売し、あるいは和売して「」と成したものは「死罪」とされていたのです。また、それを買ったものについても「別」に「罪」が決められており、「唐律」では「良人」を「」としては買えないこととなっていました。
 確かに彼等は「戦争捕虜」であって、「良人」でないのは確かですが、だからといって自由に「売買」ができたとも思えません。というより「戦争捕虜」だからこそ自由には売買できなかったという可能性があると思われます。それは、戦争は国家対国家で行われたものであり、「戦争捕虜」の「所有」は「国家」に帰するものと考えられるからです。(あるいは官となるのが通常)しかも、戦争終結に当たっては往々にして「捕虜同士の交換」などの「戦後処理」が行われるなど、外交活動の道具ともなるものです。
 彼等が収容されていた場所が「唐」国内であったとした場合は、一応「軍」の監視下にあったはずであり、そのような人間である立場の者を「買った」人物がいたとしたらまた不思議です。少なくとも、「唐」において、自分の身を売るとしても「買い手」が付かない可能性が高いと思われます。(そのような「リスク」を犯す意味がないと思われます)
 「」や「官」であったとすると「良人」ではありませんが、それは別の意味で売買はできないわけですから、いずれにしろ「博麻」が「身を売る」ということは「唐国内」ではできなかったという可能性が高いものと思料します。

 「持統の詔」に現れた彼等は割合自由に活動していたと思われ、「衣糧無きにより」とされていることから、逆に「衣糧」さえあれば帰ってくることが可能であると彼等が認識していたことを示すものですが、更に、彼等を「買う」というものがいたと言うことなどを総合すると彼等が収容されていた場所は「唐」の国内ではなく、「彼等」が「唐」の国まで連れて行かれたわけではないことを示しているとも思えるものです。
 これに関係していると考えられるのが『斉明紀』の「斉明」による「軍派遣の詔勅」です。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…
詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主 云云。詔曰 乞師請救聞之古昔。扶危繼絶 著自恒典。百濟國窮來歸我 以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可 分命將軍百道倶前。雲會雷動 倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」

 ここに書かれた「翦其鯨鯢」とは「鯨」や「サンショウウオ」などになぞらえられた「敵」を切り捨てる(倒す)ということを示しますが、「李白」の「赤壁歌送別」という詩にもあるように「鯨鯢」は「海」や「大河」に住む「大魚」の一種とも考えられていました。

「二龍争戦决雌雄,赤壁楼船掃地空。/烈火張天照云海,周瑜于此破曹公。/君去滄江望澄碧,鯨鯢唐突留餘迹。/一一本来報故人,我欲因之壮心魄。」

 このように基本的にはこれらの「動物」(怪物)は「海」に棲息しているとされ、「海」が戦いの場であることが想定されているようです。
 また、同様に文中に登場する「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地であることを想定すると、この時の「倭国軍」は直接「新羅」の本国を攻撃する意図を持っていたことが判ります。つまり、「百済」に向かったのではなく、「新羅」そのもののを攻撃する作戦であったと思われるのです。
 この「詔勅」により戦いが始められたとすると、『書紀』に書かれた「阿曇連」「阿部臣」の両者が将軍となっている派遣軍は一旦「新羅」に向かったものです。しかし、『書紀』にはこの戦いの情景が活写されていません。あくまでも「戦いの場」は「百済」であったかのように書かれています。これは「百済再興」という目的ならば首肯できるものですが、「百済支援」というのであれば「新羅」本体を攻める方が道理にかなっています。つまり「斉明」によるとされる「発遣の詔勅」の目的は「百済再興」ではなく、「百済支援」であり、そうであれば「唐」と「新羅」の攻撃にさらされていた時点が最もふさわしいと思われることとなります。これがその一年後であって、また「扶余豊」を「百済国王」にするためという目的であるなら、違和感はぬぐい得ないものです。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

 このため、戦略的「効果」としては薄いものになったと見られ、この後再度今度は「阿曇連」だけを大将軍として同様の戦いが行われます。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 この記事では「百済」に向かったように読めますが、少なくとも一部については「新羅」へ向かって「背後」を衝く作戦が行われたと見られます。この時は「阿曇連」の水軍が主体で戦うというより、「地上戦闘員」を多数擁していたと見られ、そのかなりの部分が「新羅」へ向かったものと思われ、彼らにより「上陸」作戦が敢行されたと見られますが、その中に「倭国王」も「親征」したものと考えると、彼とその周辺の人物達が一斉に「捕囚」となったとした場合、それは「新羅」の地であったという可能性が高いでしょう。
 そして「百済」が「唐」「新羅」の連合軍に敗れた後、彼ら(連合軍)は「旧百済」の首都であった「熊津」に「都督府」を設置しました。それに伴い、「薩夜麻達」は「重要人物」と言うこともあり、「新羅軍」の手に落ちた後は「旧百済国内」のどこか(「熊津都督府」からそう遠くない場所と思料される)へ移送され、「都督府」の監視下に置かれていたのではないかと推測されます。つまり、「唐軍」ではなく実質的には「新羅軍」の「捕囚」となったというわけであり、「唐国内」まで連行されたとは考えにくいこととなるでしょう。

 このように「旧百済」の国内で「捕囚」生活を送っていたと考えられるわけですが、この時「帰国費用」を「博麻」に「貸し付けた」(形としてはそうなる)人は、彼ら「博麻達」の立場や思惑、心情などを「知っていた」(分かっていた)ものと推察され、彼らに「同情的」な人物であったのではないかと考えられます。
 「百済」は元々「倭国」と深い関係にあり、これらのことは「博麻」に対して「融資」に応じ、帰国に要する費用を立替えた人物は「旧百済」関係者と推測され、彼は「百済」の「富貴層」に属する人物で、何らかの形で「倭国」と「関係」の深かった人物であったという可能性を想定させます。(「熊津都督府」の経営はもっぱら「旧百済国人」がこれに当たっていたとされることもこれを裏書きするものです)

 この「百済を救う役」とそれに引き続く「白村江の戦い」では推定で「総計七万四千人」という多数の「倭国人」が派遣されたものと考えられ、そのうちのかなりのものが戦死し、(多くは海戦での死者と考えられます)また、戦後一部のものについては帰国できたものの、かなりの数の人間(数千人以上ではないか)が「捕虜」となったものと思料されます。
 これだけ多数の「捕虜」が発生すると、彼等を一時的に収容する場所も複数必要となると考えられますし、「唐軍」と「新羅軍」の関係を見ると別々に戦っていたように見受けられ、その際の捕囚も各々の軍の帰属で収容場所も変わったとも見られます。その中には確かに「唐」まで連行されたグループもいたものです。
 その後、「倭国」との戦争状態が六七〇年代に終結したことを受け、その時点で「熊津都督府」の管理下にあった捕虜は解放されたものと見られますが、半島情勢がその後大きく変化し、「旧百済」の地であった「熊津都督府」も「新羅」に制圧されるところとなるなど、新羅」が「唐」を追い出して半島全体を支配する構図となったため、「唐」に連行されたグループの中には「帰国」が出来なくなったものもいたものでしょう。
 もちろん「衣糧」ないし「旅費」を持っていた「遣唐使」などはその一部のものが「新羅」経由で帰国できたものもいたようですが、全体としては帰国が大幅に遅れたものです。
 しかし、「旧百済」の地に「収容」されていたグループの大多数はその後「帰国」出来たものと考えられ、「百済」であれば、「倭国」ともそれほど遠距離ではありませんし、人身売買に関する「唐律」を「百済」が受容していたとも考えられませんので、「博麻」のように「身を売って」旅費を稼ぐというようなことも可能であったものと考えられるものです。


(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2015/08/15)旧ホームページを転載


「大伴部博麻」の収容されていた場所についての考察(一)

2018年09月05日 | 古代史

 『書紀』には「持統四年(六九〇年)九月条として「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。そしてその「直後」にその「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「百済を救う役」で捕虜になった際に、同じく捕虜になっていた「筑紫君薩耶麻等」等が「唐人所計」を本国に伝達するための旅費を稼ぐために、自分の身を売って金に代えた、というものであり、「持統」はこの行為を「激賞」しています。
(「博麻」は帰国後この話を「関係者」にしたと思われますが、しかしその話を「証明」するものがなければ誰も信じるものはいないでしょう。彼の話を周囲が信じたとすると、彼のことを知っていたあるいは事の経緯を知っていた人物がこの時点でまだ生きていたと言うこととなります。それは彼がその提案をした時点で同席していたうちの誰かではないかと見られ、「土師連富杼」がもっとも考えられる人物です。なぜなら「氷連老人」は「七〇四年」にならなければ帰国できませんでしたし、この「六九〇年」という時点では既に「薩夜麻」は死去していたと考えられるからです。つまり「可能性」が高いのは「土師連富杼」か「弓削連元寶兒」のいずれかと見られますが、「弓削連元寶兒」は「七〇四年」に「氷連老人」と共に帰国した「趙元宝」と同一人物という説もあり、そうであれば彼も該当しないこととなりますから、その場合は「土師連富杼」だけが可能性があることとなります。)

「(持統)四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」

「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。爰天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并絁五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

 上の「詔」によれば、「大伴部博麻」が「自分の身を売る」という提案をした時に同席していたのは「土師連富杼」「冰連老」「筑紫君薩夜麻」「弓削連元寶兒」の計四人であるとされています。
 ところで、ここには「冰連老」という人物が出てきますが、彼は以下に見るように元々「白雉」年間に「遣唐使」で「学生」として派遣された人物である「冰連老人」と同一人物と考えられます。

『孝徳紀』
「(六五三年)白雉四年夏五月辛亥朔壬戌。發遣大唐大使小山上吉士長丹。副使小乙上吉士駒。駒。更名糸。學問僧道嚴。道通。道光。惠施。覺勝。弁正。惠照。僧忍。知聡。道昭。定惠。定惠内大臣之長子也。安達。安達中臣渠毎連之子。道觀。道觀春日粟田臣百濟之子。學生巨勢臣藥。藥豐足臣之子。『氷連老人』。老人眞玉之子。或本。以學問僧知辨。義徳。學生坂合部連磐積而増焉。并一百廿一人。倶乘一船。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂。更名。八掬脛。副使小乙上掃守連小麻呂。學問僧道福。義向。并一百廿人。倶乘一船。以土師連八手爲送使。」

 ここに出てくる「冰連老人」は「遣唐学生」という身分ですから、首都である「長安」(ないしは「洛陽」)に滞在し、「法制度」「技術」など多岐に亘って勉学に励んでいるはずの人間です。その人物が何故か「戦争捕虜」である「筑紫君薩夜麻」達と一緒にいたというのです。

 一般的にいうと、派遣された遣唐使団のうち大使や通事、録辞等は皇帝への謁見などが終了した後はすぐに帰国の途につくものであったと思われますが、彼等「学生」や「学問僧」などはそのまま居残るはずのものであり、彼らが「大使」達と共に帰国したとか、翌年派遣された「白雉五年」の遣唐使船で帰国したとか言う「短期」の滞在であったとは考えられず、当然もっと長期のものを想定する必要があると思われます。つまり遣唐学生であった「冰連老人」は少なくとも、「斉明朝」で派遣された「遣唐使」(伊吉博徳が一行に入っていた)が唐に到着した「六五九年十月」という段階ではまだ「唐」に滞在していたと考えざるを得ません。
 さらに、「冰連老人」の動向を見てみると以下のことが推定できます。

 「斉明紀」(六五九年)の遣唐使団については、「倭種」とされる「韓智興」の従者である「西漢大麻呂」に「讒言」されるなどのトラブルの後、「皇帝」から「『海東の政』があるから『汝らは帰国できない』とされ、東西両京に分置・幽閉され、帰国できなかったとされる事件が起きています。

「斉明紀」六五九年十一月の条に引用された「伊吉博徳書」
「十一月一日 朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中 倭客最勝。後由出火之亂 棄而不復檢。十二月三日 韓智興傔人西漢大麻呂 枉讒我客。客等獲罪唐朝 已決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博德奏。因即免罪。事了之後敕旨 國家 來年必有海東之政。汝等倭客 不得東歸。遂逗西京 幽置別處。閉?防禁 不許東西 困苦經年。」

 彼等は「百済」が「滅亡」した後の「六六〇年九月」になって釈放され、帰国の途についています。

「斉明紀」六六〇年七月の条に引用された「伊吉博徳書」
「秋七月 庚子朔…伊吉連博徳書云。庚申年八月。百濟已平之後。九月十二日。放客本國。十九日。發自西京。十月十六日。還到東京。始得相見阿利麻等五人。十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福國。弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引■向天子天子恩勅。見前放著。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。」

 また、この記事中の「百済王」達が「皇帝」の面前に連れてこられた、と書かれていることについては、他の中国史書にも同様の記載があります。

「顯慶五年(六六〇年)十一月,戊戌朔,上御則天門樓,受百濟俘,自其王義慈以下皆釋之。蘇定方前後滅三國,皆生擒其主。赦天下。」『資治通鑑』

「顯慶五年(六六〇年)、命左衛大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送於京師,上責而宥之。」『旧唐書百済伝』

 このように「彼等」「遣唐使」達が「留置」され、帰国が叶わなかったのは、「百済」に対する「機密」の漏洩を恐れたからであり、「百済」が滅んだ後になっては拘束する理由がなくなったものと思われ、解放されたというわけです。
 ところでこの時「留置」された人たちの中に「冰連老人」もいたのではないかと考えられるものです。
 彼等がトラブルに巻き込まれたのは「冬至之會」という皇帝主催の催しの際のことであり、そこで「出火騒ぎ」が起きたものです。この時の「冬至」は「十九年に一度」という「朔旦冬至」(十一月一日の朝に冬至を迎える)であったものであり、これは「章」と呼ばれる「暦」の周期が一巡りする期間の始まりを示すものでしたから、当時は「皇帝」の治世と関連づけて考えられ、統治の新たな期間の開始とされて盛大なお祝いの会となったものです。
(既に述べたようにこの「伊吉博徳」達「倭国」からの遣唐使達はこの「冬至之會」への出席要請によって来たものではないかと推量します。彼等はなんとしてもこの「冬至之會」に間に合う必要があったものであり、そのためにやや「無理」な行程を踏んでいますが、そのことは彼らが本来「遣唐使」と言うよりは「祝賀使」であったのではないかと推察されることとなるでしょう。)
 そのような重要なイベントであったにも関わらずトラブルが発生してお流れとなったものであり、「唐皇帝」としてはある意味「メンツ」もつぶされたわけですから、その後それについて何の動きもないとは考えにくいものでしたが、案の定、その後三週間ほど経ってから「韓智興」の供人「西漢大麻呂」が「我客」を「讒言」したとされます。(伊吉博徳書による)この「讒言」の内容は不明ですが、「出火騒ぎ」に関係があると考えるのが普通でしょう。
 そしてその「冬至之會」の場には「韓智興」という人物(倭種)がいたと推測されますが、彼がいつから「唐」にいるのかは不明ですが、少なくとも「伊吉博徳」達の遣唐使団とは「別」の立場の人物であったことは間違いありません。なぜなら「彼」の「供人」である「西漢大麻呂」は「我が客」を「讒言」したと「伊吉博徳書」に書かれており、この事は「韓智興」達は「我が客」ではないこと、つまり「斉明期の同じ遣唐使団の仲間」ではないことを示唆していると考えられるからです。
 ではそれ以前に発遣されていた「白雉四年」の遣唐使団にいたのでしょうか。それも違うと思われます。なぜなら『書紀』に書かれた「伊吉博徳言」という部分で言及されている使節団の数名の生死等の情報は全て「白雉四年」の使節団のものであり、彼がこれを書いているのはこの使節団が彼と同じ組織に属する人々だからであり、その意味で「我が客」と似た性質の人達であったとみられます。それを考えると「韓智興」達がこの使節団にいたとは考えにくいこととなるでしょう。
 彼らについて書かれた「伊吉博徳言」という記事中に「別」という言い方で「韓智興」と「趙元寶」の両者について書かれているわけですから、この「別」というのが「文脈」に沿って素直に解釈すると他に挙げられている遣唐使団メンバーとは「別」という意味と考えられることから、この「白雉四年」の遣唐使団には「いなかった」人達であったと考えられるわけです。彼らは「たまたま」帰国(慶雲元年の際の)が一緒であったため、ここに書かれただけであると推察されます。
 また、「白雉四年」以前には遣唐使は長く途絶えており、その前の遣唐使は「六三一年」のことでした。この時の遣唐使がそのまま唐の国に残っていたとすると、その後派遣された次の「遣唐使」である「白雉四年」ないし「五年」の「遣唐使船」に同乗して帰国しなかったことになり「不審」と考えられます。
 このことは、彼ら(「韓智興」及び「趙元寶」及びその供人達)については、「白雉五年」(六五四年)の「遣唐使」の一員であると考えざるを得ません。
 つまり「以前」に派遣されていた「遣唐学生・遣唐僧」達も「遣唐使船」到着の知らせにより、「帰国」のため集まっていたものと見られ、「唐皇帝」はそのような立場の人たちも「招待」していたものと見られます。(次の遣唐使船で帰国するという仕組みができあがっていたものか)
 そして、そのような中で「出火騒ぎ」が起きたものであり、これに関してはその後一旦「韓智興」に対して「三千里の外の流罪」という刑が下されるなど相当重い罪状であったことから考えて「謀反」を疑われたという可能性があります。そうであれば、その時点でそこにいた関係者全ては「捜査」のため留め置かれていたものと見られ、その後「西漢大麻呂」の証言により「倭客」が逮捕されるという結末となったものと推量されます。このような過程を経た後「皇帝」により「帰国不可」という「勅」が出されたものです。
 こう考えると、この時発せられた「汝等倭客」という「皇帝」の言葉の中には「以前から」「唐」国内に滞在していた人たちを含む、当時宮殿内にいた「倭国関係者」全員が含まれていたと見るのが相当であり、このことから「留置」された人物の中に「冰連老人」などの「白雉年間」の「遣唐学生」なども含まれていたとみるのが自然です。
 そして、翌年の「百済滅亡」後の時点で「百済王」や「百済王配下」の将軍達と共に、彼等も「恩赦」を下され、「放免」されたものと考えられます。
 この時「冰連老人」も「伊吉博徳達」と同様「恩赦」を賜って「解放」されたと見られるわけですが、しかし、この時「冰連老人」が「伊吉博徳」達と同行して帰国したかどうかが「不明」なのです。
 この時に同行しなかった「学生」などがいたことは「博麻」の帰国が「大唐学問僧」に同行するものであったことからも判断できます。この「大唐学問僧」という人物も「唐」に居残ることとなった人達であると考えられ、その中に「冰連老人」が居たとしても不思議ではないと思われます。
 そもそも派遣された遣唐使団の員数を考えると、この時以前派遣された者が全員帰国できなかったとしても不思議ではないと思われます。つまり「白雉四年」に派遣された遣唐使団のうち「大使大山下高田首根麻呂」が乗船した船は難船しましたが、「大使小山上吉士長丹」の乗った一隻は「唐」の国へたどり着きました。この員数が「一百二十一人」、それに加え「新羅」を経由して送られた「白雉五年」の遣唐使団は全て「唐」までたどり着けたものと見られ、この時の乗船者数は記載されていないため不明ですが、「分乘二舩」と書かれていることからも「白雉四年」とほぼ同数であったのではないかと推測され、この時の員数の総数は約二五〇名ほどと見積もられます。
 「遣唐使船」は「帆」を使用して航行しますが、無風や逆風も想定し、「水手」(漕ぎ手)を乗船させていたと思われますし、また「海賊」や漂着した際の防備を考え「射手」も同船していたと思われますから、実際の「遣唐学生」や「遣唐学問僧」の総数はそれほど多くはなかった可能性はあります。「白雉四年」の遣唐使団に「学生」と「学問僧」として『書紀』の中で「名前」が乗っている人数である「十八名」は主要なメンバーを示すものとは思われますが、他のある程度無名のメンバーを入れてもこの倍程度であったかも知れません。
 つまり、「六五九年」の遣唐使団が派遣された時点では「唐」には五十名程度の「学問僧」と「学生」がいたと推定されるものです。
 これらの「学生」と「学問僧」の多くは(「学業」の成果に応じてではあるものの)、次回の船で帰国する予定であったと考えられますが、これに対し「六五九年」の遣唐使はやはり「大使」の乗った「一隻」が難船し、「伊吉博徳」も乗船していた「副使」の乗った船だけが「唐」に到着できたものです。このため「船」は「一隻」しかなく、そのため彼等全員が「乗り切れなかった」という可能性もあると思われます。このような事情もあって、そのまま「残留」した「学生」などがいたのかもしれません。
 そう考えると、「冰連老人」は終始「唐」国内にいたという可能性が強いと思われ、そうであれば彼と同席していた「博麻」達も「唐」国内に抑留されていたという推測することも可能と思われます。

 また「唐」との「戦後処理」が終った後については、彼等「薩夜麻」他の三人が「博麻」の措置に「無頓着」であったとは考えられません。「博麻」が自分達のために「身を売った」事は、もちろん「薩夜麻」を含むその時同席していた他の三人は承知していたわけであり、彼等が帰国後「博麻」の身分回復措置を行なっていなかったとしたら、それも不思議です。
 「博麻」が「体を売り」そのことにより「薩夜麻」達が「唐人所計」を伝達可能となったとすると、帰国した後で「薩夜麻」達が「博麻」を探し出し、その費用を弁済することぐらい簡単なことではなかったでしょうか。しかし、何故か「薩夜麻」や他のメンバーは「博麻」の解放に尽力したようには見えません。
 「薩夜麻」帰国以降は「新羅」との関係はそれほど悪くありませんでしたし、「遣新羅使」はかなりの数に上ります。そのような中で「博麻」について照会し、調査することは可能であったと考えられますが、そのようなことがなされた「形跡」は見あたらないようです。

 「新羅」と「唐」が交戦状態となって以降、「倭国」は「唐」ではなく「新羅」の側に立って行動していたことは明らかです。そして「半島」からは「唐」が撤退し、事実上「半島」は「新羅」により統一された形となった後については「新羅」とそれほど険悪な関係ではなかったと考えられます。
 もし「旧百済国内」に「博麻」がいたとしたら、彼らは「新羅」と連絡を取って彼(博麻)を捜索することも、また早期に帰国させることも可能であったはずです。しかし、「博麻」は「六九〇年」にならなければ帰国することはできませんでした。また彼は「大唐学問僧」と帰国を同行しています。このことは「彼」が拘束されていた場所が「唐」であり、「倭国」と「唐」との間には使者などの「往還」がなくなった事に起因して「博麻」を救出することができなかったという理由もあり得ることとなります。
 これらのことから「博麻」が当時「旧百済」や「新羅」などにはおらず、「唐」国内のどこかで「債務」返済のため「労働」していたという推測は有力であるようにも思われます。
 
 また、「七〇四年」の遣唐使船の帰国に同乗して来た人物の中に、この時の「百済を救う役」という戦いで「捕虜」になった人たちがいました。

『続日本紀』
「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。各(おのおの)衣一襲及鹽穀とを賜ふ。初百濟を救ひしとき官軍利あらず。刀良等唐の兵に虜(とりこ)にせられ、沒してと作り、?餘年を歴て免(ゆる)されぬ。刀良是に至りて我が使粟田朝臣眞人等に遇ひて、隨ひて歸朝す。其の勤苦を憐れみて此の賜(たまもの)有り。」

 彼ら「讃岐國那賀郡錦部刀良。陸奥國信太郡生王五百足。筑後國山門郡許勢部形見等。」は(「等」とされていますから、まだ他にもいたのかも知れません)「捕虜」になった後「唐」に連行され、そのまま「」に「身を没して」いたものです。この「」とは、「唐制」では「官」の一種であり「官」より少々ましな程度の存在です。しかし、本来「戦争捕虜」は「官」として遇されるのが通常であったと思われ、彼等はそれなりに良い待遇であったとも言えます。「官」ではなく「」の場合は「長年月」経過して「老年」に達した場合、「良民」として解放される場合もあったからです。彼らもこの例に漏れず、「解放」されたものでしょう。
 また、『天武紀』にも「大唐学問僧」と同行帰国した「捕虜」の例が書かれています。

「(天武)十三年(六八四年)十二月戊寅朔癸未。大唐學生土師宿禰甥。白猪史寶然。及百濟役時沒大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。傳新羅至。則新羅遣大奈末金儒。送甥等於筑紫。」

 彼らの場合も「没大唐」とされていますから、「七〇四年」の帰国者と同様「唐」で「」とされていたと考えられます。この時の彼ら「猪使連子首。筑紫三宅連得許」も「老年」となったため「恩赦」があり、解放されることとなっていたものでしょう。 
 更に『持統紀』にも捕虜の帰国記事があります。

「(持統)十年(六九六年)夏四月壬申朔…戊戌。以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石。并賜人絁四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地。」

 ここで「唐」で「捕虜」になっていたと思われる「伊豫國風速郡物部藥」と「肥後國皮石郡壬生諸石」の二人について、冠位を授けると共に「褒賞」を与えていますが、彼等がどのようにして帰国できたのかについては詳細が記されていません。しかし、その前年の九月に「遣新羅使」が発せられた記事があります。

「(持統)九年(六九五年)秋七月丙午朔…
辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。務大貳伊吉連博徳等物。各有差。
庚戌。小野朝臣毛野等發向新羅。」

この「遣新羅使」については「帰国」記事がなく、いつ帰国したのかが明確ではありませんが、翌年の「四月」に「元捕虜」であった彼等の帰国記事があるわけですから、彼等はこの「遣新羅使」の帰国に伴ってきたものという推定も出来るでしょう。
 つまり、彼等も「」として没されていたと思われ、解放された後自力で「新羅」までは帰国途中であったものと思われるものです。
 「博麻」の場合も「大唐學問僧智宗 義徳 淨願」と同行して帰国したこととなっており、また「從新羅送使大奈末金高訓等 還至筑紫」とあって、『天武紀』の場合と同様「新羅送使」により送り届けられているようです。
 これら一連の「元捕虜」の帰国記事から見て、「博麻」がそれまで「唐」に滞在していたと考える事はかなり有力であると考えられます。


(この項の作成日 2012/07/12、最終更新 2012/08/09)旧ホームページより転載