古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「舒明」「皇極」「天智」という存在の意味

2018年09月08日 | 古代史

 『書紀』には「六二〇年」を初出とする天文観測記事があります。しかし、「皇極」の時代以降約「三十年間」観測記事が消えてしまいます。次に現れるのは「壬申の乱」の前年です。この間よく目立つ「日食」などあったと思われますが、一切記録されていません。つまり、「皇極」「孝徳」「斉明」「天智」の四天皇の時代「天文観測」は行われなかったと考える必要があります。
 また、その後『天武紀』になると、天文観測記録が再び現れますが、「持統」の時代になると不思議なことが起こります。そこには「日食」の記録があるのですが、書かれた全ての「日食」記録が「日本では観測できない」ものばかりです。つまり、ここに書かれた記録は「観測したもの」ではないわけです、これらは「予報」(推測)であったと思われ、それを「観測したあるいはそのような事象があった」として書いていることとなります。
 これらに関しては不明な部分が多いのですが、最小限度言えることは、『持統紀』においても「天文観測」はしていない、ということであり、そして、それを隠そうとした、ということではないでしょうか。

 天文観測記録がない理由としては「暦を作る必要(権利)がなくなった」からか、この間の記事自体が「捏造」であるからだと思われます。「捏造」と言う場合は実際の天文事象との整合が問題になるため、記録を書かなかった、(書けなかった)という場合です。
 ところで、この期間の記事については「本格漢文」で書かれており、明らかに他の部分の「倭臭漢文」と趣を異にしており、用語法なども違うこと、さらにそのためか他の部分に比べ「訓注」が頻出している事実があり、この「天武紀」付近は「森博達氏」のいわゆる「α群」(※)であり、「唐人」により編集された部分と推定され、彼らは「稗田阿礼」のように記憶していた種々の記録を彼らが口誦するのを耳で聞いて紙に落としたとされますから、この部分の日付や日食等の記録についても同様に実際に残されていた古資料に依拠したものとみるべきかもしれません。しかし「暦」とそれに基づいた「日食予報」が記憶されていたとは思えませんから、この部分は後になってからの書き足しである可能性を考えるべきでしょう。この期間の記事が「実際」の資料に拠っていない可能性があると考えられるのは、この「三十年間」の各天皇には(「皇極」から「天智」までの天皇も含みます)以下の「疑問と矛盾」があることからもいえます。

 たとえば、有力豪族である「大伴」「物部」の系譜には「舒明」「皇極」(斉明)に「仕えた」という記事が見当たりません。彼らの記録によると「推古」に仕えていた人物の息子の代には「孝徳」に仕えていたこととなっています。この事は、彼らが仕えていた「天皇」の記録としては、『推古紀』と『孝徳紀』が元々連続していたことを示すものであり、さらにそこから直接『天武紀』へとつながるものではなかったかということとなるでしょう。

 また疑いを生じるものとして「石上神宮」への「奉祭」記事があります。この両天皇(及び「天智」については、「石上神宮」の奉祭記事が『書紀』に見えません。しかしそれ以前の代には存在しており、彼らだけが「奉祭」しなかった理由が不明です。
 これについては、この「奉祭」は以前「石上神宮」の神宝を管理していた「物部」の独占する所であったものが、「守屋」滅亡後「蘇我」に相続権があるということが「蘇我」の側から主張されるようになり、その結果「祭祀」の権利が奪取されたとされます。(「物部守屋」が滅ぼされた時点で「守屋」の財産を継承可能な人物が彼の妹である「蘇我馬子」の妻であったためと推定されています)
 そして、いわゆる「大化の改新」で「蘇我」が排除されたため、その後「奉祭」する人間がいなくなったと理解されているようですが、しかし、それはその前代の「舒明」の時代において既に「奉祭」がされていない説明がつきません。つまり「大化改新」がその原因ではないとみられるわけです。

 また「伊勢神宮」への新天皇即位の際の皇女派遣という制度(慣習)についても、この三天皇(舒明・皇極・天智)について派遣記事がありません。もっとも、確実な「斎宮派遣」は「天武」に始まるという説もあります。(「壬申の乱」の際の「伊勢神宮」への祈願の代償として斎宮が派遣されたという考えです。)こう考えると「斎宮」派遣記事がないのは理解できるといえますが、それではそれ以前の天皇の代になぜ派遣記事があるのかが不審です。これら以前の「天皇」の代の「斎宮派遣記事」が「潤色」であったとすると、逆になぜ彼ら(舒明・皇極)の代にはその潤色が施されていないのかが不明となり、やはり「矛盾」が残ります。

 さらに「和風諡号」に「たらし」(足)が付く天皇は古代の天皇を別にするとこの二人しかいないということも指摘されています。
「舒明」の場合は「息長足日廣額天皇」、「皇極」(斉明)の場合は「天豐財重日足姫天皇」とされ、ともに「足」(たらし)がつきます。この「足」(たらし)という語の意義がやや不明であるわけですが、明らかに「称号」的な要素を持つものであり、「充分に足りている、充ち満ちている」等の美称とみるべきですがこの称号が『書紀』の中の近い過去の代においては彼らだけに使用例があるのは、彼等と他の天皇の出自が異なるという可能性を示唆します。

 上に見た『皇極紀』以降の三十年間(『天智紀』終わりまで)天文観測記録がない、という事実と、いわゆる「森博達氏」の研究による「α群」とされる期間がこの三十年間にぴったり重なっている事実、そして、この「α群」が『持統紀』に書かれた、と推察される事、そして「舒明」「皇極」「斉明」について近畿王権内の豪族に「仕えた」記録がないことなど上に見た事案を総合して考えると、これらは「天智」が「革命王」であったとしたとき始めて首肯できるものです。
 つまり「舒明」と「皇極」(「斉明」も)は「天智」の両親であったものの、彼が「革命王」であるなら、彼等は当然「倭国王」ではなかったし、「近畿王権」の王でもなかったのですから、彼等に「物部」や「大伴」が仕えたはずがないからです。
 それに対し彼らの間に挟まるように存在している「孝徳」には二人のような不思議な部分はありません。「物部」「大伴」両氏族には彼に仕えた記事があり、その他の点でも存在が確実な人物なのです。
 ところが、これが『万葉集』になると一変し、この「舒明」「皇極」「斉明」という三天皇の事跡、歌が複数掲載されています。逆に「孝徳」の歌は全くありません。
 また『伊豫三島縁起』を見ると、冒頭に各代の「異族来襲」を撃退した話やそれに関連する事績などが書かれていますが、「舒明」「皇極」のところだけ「飛んで」います。つまり「舒明」「皇極」の前後を見ると以下のように記事が並びます。

「三十三代崇峻天王位。此代従百済國仏舎利渡。此代端正元暦。配厳島奉崇。面足尊依有契約。同奉崇彼島。毘沙門天王顕彼嶋秘書也。三十四代推古天王位同二暦《庚戌》。三島迫戸浦雨降。此〔石+切〕〔号+虎〕横殿。于今社壇在之。〔車+専〕願元年《辛丑》。従異國渡同亡。三十七代孝徳天王位。…」

 ここでは「辛丑」とされる「〔車+専〕願元年」記事が「推古」の条に書かれているように見えるのがわかります。これは西暦で言うと「六四一年」のはずですから、「舒明」の末年であり、また「皇極」の初年でもあります。しかしあたかも彼らはいなかったかの如く「推古」の代の記事として書かれているように見えるわけであり、「推古」からいきなり「孝徳」へとつながるように見えます。
 また、これ以前には「用明」の代が「飛んで」いますが、彼は「三年間」と短い治世であったためという理由付けが可能であるかもしれませんが、「舒明」「皇極」は両者ともそれほど治世期間が短いとはいえず、また特記すべき事項がなかったともいえません。さらに「用明」の代は確かに飛んでいるものの、彼の治世の中の記事であるにもかかわらず他の天皇の代として書かれているということでもありません。そう見ると、明らかに「舒明」と「皇極」の不在は不審といえます。

 また「意外」に思えるかもしれませんが、「飛鳥」に宮殿を構えた天皇はこの「三天皇」(「舒明」「皇極」「斉明」)と、それに加え「天武」だけなのです。彼らの宮殿だけが「飛鳥(明日香)」を冠して呼ばれているのです。たとえば「推古」は「小治田」を冠して呼ばれていますし、「孝徳」は「難波」に宮殿がありました。 
 これらのことから、この「飛鳥」の地については、ある特別な意味を持った場所であることが推定されます。彼らは上に見たように「近畿王権」に深い関係があると考えられる「大伴」「物部」などと縁が遠く、「倭国王朝」の勅撰集が元となっていると考えられる『万葉集』には出てくるという性格があり、しかも「彼ら」の宮殿のあった場所である「明日香」という土地は「近畿王権」の誰も「王宮」を建てていないのです。しかもその王宮は「正方位」つまり正確に「南北」を向いた建物だけで構成されていました。これらのことから、ここが「倭国王権」の聖地であり、(いわゆる)「天領」であり、「離宮」が造られていたと考えられます。
 「近畿王権」はこの土地には「オフリミット」であり、関与することが出来なかったと考えられます。後の「藤原京」もこの土地の至近に造られるわけであり、それも「聖地」に造られることとなったものと思料され、倭国王権の都であったことが推定できます。

 この「離宮」は本来の「王宮」のある場所と同じ土地名がつけられたと考えられ、その「雰囲気」としても「元の王宮」を良く再現するものであったと考えられます。
 この土地(宮殿)が「飛鳥浄御原」と名付けられた理由(事情)が『書紀』に書かれていますが、それによれば「改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮。」と改元理由と関連して語られているようです。しかし、この文章はいわば「意味不明」であり、「朱鳥」と「飛鳥浄御原」の間にどんな関係があるかは全く触れられていません。というより「明らかに」この二つの間には「何の関係」もないと思われます。(「朱鳥」の方は国号変更と関係していると思われます。)
 つまり「飛鳥浄御原」という宮殿名の命名理由は全く別個のことと考えられ、これは「離宮」の「本宮」である「筑紫」の「地名」ないし「宮殿名」を単になぞったものという可能性があるように思われます。つまり「筑紫」の地にこのような「地名」なり「宮殿名」が存在していて、それをこの「奈良県」の「飛鳥」の地に「コピー」したものではないかと思われるわけです。

 筑紫に「飛鳥」という地名があったことは、「宇佐神宮」の『八幡託宣集』の中にも出て来ます。

「…御由来記に曰く大帯姫御八幡此の朝に其れ渡り給いして、浄地を占いて御在所定め給いし時、大帯姫占いて香椎に枌(そぎ)を逆に植え給い『阿須加』枌 是也。…」

 これによれば「香椎」に地に「あすか」と発音する地名があったことは明確であり、しかもその地は「浄地」とされていることから此の場所ないしは至近に「飛鳥浄御原宮」があったと考えることが可能です。
 ただし、この「近畿」の「明日香」の地はあくまでも「離宮」的場所であったと思われ、「都」(京)とするものではなかったと考えられます。それは建物群が「正方位」を取ってはいるものの、「条坊」が造られなかったことでもわかります。


(この項の作成日 2011/01/07、最終更新 2015/06/06)旧ホームページ記事から転載

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