古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「文武」天皇と「浄原御寓」

2018年09月05日 | 古代史

 すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます)
 この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。
 以下『続日本紀』編纂についての「藤原朝臣継縄」の「桓武天皇」宛の上表文です。

『日本後紀』巻三逸文(『類聚国史』一四七国史文部下)
「桓武天皇延暦十三年(七九四年)八月癸丑(十三)」「右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等。奉勅修國史成。詣闕拝表曰。臣聞黄軒御暦。沮誦攝其史官。有周闢基。伯陽司其筆削。故墳典新闡。歩驟之蹤可尋。載籍聿興。勸沮之議允備。曁乎班馬迭起述實録於西京。范謝分門。聘直詞於東漢。莫不表言旌事。播百王之道猷。昭徳塞違。垂千祀之炯光。史籍之用。蓋大矣哉。伏惟聖朝。求道纂極。貫三才而君臨。就日均明。掩八州而光宅。遠安邇樂。文軌所以大同。歳稔時和。幽顕於焉禔福。可謂英聲冠於胥陸。懿徳跨於勳華者焉。而屓戻高居。凝旒廣慮。修。國史之墜業。補。帝典之缺文。爰命臣與正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道。少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等。銓次其事。以繼先典。若夫襲山肇基以降。浄原御寓之前。神代草昧之功往帝庇民之略。前史■著、燦然可知。除自文武天皇。訖于聖武皇帝。記注不昧。餘烈存焉。但起自寶。至于寶亀。廃帝受禪。號遺風於簡。學南朝登祚。長茂實於從涌。…。」

ところでこの記事とは別に『日本後紀巻五』に『続日本紀』編纂に関する記事があります。

「『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)二月己巳十三条」
「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰續日本紀。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之龜鏡。炳戒昭簡。作千祀之指南。伏惟天皇陛下。徳光四乳。道契八眉。握明鏡以惣萬機。懷神珠以臨九域。遂使仁被渤海之北。貊種歸心。威振日河之東。毛狄屏息。化前代之未化。臣徃帝之不臣。自非魏魏盛徳。孰能與於此也。既而負・餘閑。留神国典。爰勅眞道等。銓次其事。奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年。卅四年廿卷。前年勒成奏上。但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案卅卷。語多米鹽。事亦踈漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足。刑部卿從四位下淡海眞人三船。刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等。分帙修撰。以繼前紀。而因循舊案。竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已。寳字元年之紀。全亡不存。臣等搜故實於司存。詢前聞於舊老。綴叙殘簡。補緝缺文。雅論英猷。義關貽謀者。惣而載之。細語常事。理非書策者。並從略諸。凡所刊削廿卷。并前九十五年・卷。始自草創。迄于斷筆。七年於茲。油素惣畢。其目如別。庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善□惡。傳萬葉而作鑒。臣等輕以管窺。裁成国史。牽愚歴稔。伏増戰兢。謹以奉進。歸之策府。」

 この記事の年次は上の「逸文」の記事の「以降」のものであり、時系列としては「逸文」が先行しています。しかし、内容を見ると「逸文」では「菅野真道」以下による『続日本紀』撰進が「中途半端」であったので、再編集したという意味のことが書かれていると考えられるのに対して、それ以降の記事とされる「巻五」の方が「逸文」で否定された「菅野真道」等により『続日本紀』が撰上されたという趣旨の記事が書かれています。このふたつの記事は明らかに「矛盾」であり、両立できないと思われます。このことはこの両者の真偽に対する根本的な疑いが発生するところです。

 『日本後紀逸文』は「菅原道真」が「勅」によりまとめた『類聚国史』などに引用されていたものですが、「巻五」及びそれを含む計十巻は江戸時代になって突然出現した史料です。「応仁の乱」以前には四十巻存在していたとされていますが、その後散逸したとされていたもので、これについては「塙保己一」(の門人)が京都で発見したとされていますが、そもそもそこまで全く史料として見つけられていなかったと言うことも不思議です。
 『日本後紀』には「偽書」の疑いがあるものもかなり多く、この「塙保己一」版にもその疑いが発生するところです。
 一般にはこの巻本については「偽書」とはされていないようですが、「逸文」と矛盾するとすれば、どちらかに問題があることとならざるを得ません。(一説にはこの「塙保己一」版は「柳原紀光」(公家)による「校訂本」であるというものもあるようです)
 史料的には「逸文」の方が確実性が高く、また「素性」も確かであるのに対して、「十巻本」については一抹の不明確さがあると思われます。このことはこれら異なる系統の写本の間で「互いに矛盾する」記事があった場合「逸文」の方が信憑性が高いと判断できることを示します。その問題の「十巻本」の中には「但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。」と書かれた部分があり、これによれば「文武」が「七世紀末から」「八世紀」にかけての人物であると判断できる訳ですが、これと「矛盾する」と考えられるのが冒頭の「逸文」の記事内容です。
 この「逸文」の中には「先典」という言い方が出てきます。これは『日本紀』のことと推察されます。(この『日本紀』が、「現行日本書紀」とイコールではないと思われることについては述べたとおりです)
 そして、その「先典」としての内容は「襲山の基を肇くを以つて降ち、清原御寓の前、神代の草昧の功、往しへの帝の庇民の略」と表現されているわけです。つまり、「天孫降臨」以降「浄原の前」までが「前史」として『日本紀』に書かれている、と言っているわけです。そして、編纂が続いている『続日本紀』については「文武天皇より」とされ、その「文武」以降「聖武」までは必要な事項がちゃんと書かれている、といっています。(そこから以降が「不十分」なのか「未完成」なのかは不明ですが、再編纂の余地があるとしているわけです。)
 この文章の内容から判断して、「文武天皇」は「浄原宮」で統治した(「浄原御寓」)という事になると思われ、これらのことから「先典」(「前史」)としての『日本紀』には「浄原御寓之前」までが書かれていることとなるでしょう。しかし、「浄原(宮)」というものがいつ出来たのかと考えると、旧説とは異なり、「天智」の革命王朝の時点ですでに存在していたと推定されます。
 「国史大系」の『日本後紀逸文』の「注」では、この「浄原」を「天武天皇御宇」としていますが、それでは「持統」が不在になるばかりか「浄原御寓之前」までが『書紀』に書かれているとすると『天武紀』さえも『書紀』にないこととなってしまいます。この解釈には通釈としても問題があることは間違いありません。
 現代ではこの部分については「浄原」と「藤原」の書き間違いとして処理されているようです。つまり「浄原御寓」とは「天武」ではなく「持統」であるとする訳です。しかしそれは「元明」の即位の詔にも「持統」に対する「敬称」として現れている「藤原宮御宇」というものと齟齬することとなります。

「慶雲四年(七〇七年)秋七月壬子条」「天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇』倭根子天皇丁酉八月尓。…」

 これによっても「持統」は「浄原」「清原」「浄御原」などではなく「藤原宮」に「御宇」したと表現されており、「藤原御寓之『前』」ではありません。
 さらに『続日本紀』には「浄御原天皇」と「藤原宮御宇天皇」とが併記された例が存在します。

「養老六年(七二二年)十二月戊戌朔庚戌条」「勅奉為浄御原宮御宇天皇造弥勒像。藤原宮御宇太上天皇釈迦像。其本願縁記写以金泥。安置仏殿焉。」

 この例からは「浄御原宮御宇天皇」と「藤原宮御宇太上天皇」とは別の人物であり、「浄御原宮御宇天皇」が「天武」、「藤原宮御宇太上天皇」は「持統」を指すことと考えざるを得ませんから、この『日本後紀』の文章の「浄原」を「藤原」との「書き間違い」と見なすことは実は非常に困難であると思われます。
 そもそもこの『日本後紀』の「逸文」とされる部分には系統を異にする諸本があり、『国史大系巻六日本逸史』(経済雑誌社)などではこの部分は「浄御原御寓」と書かれているようです。このため単に「清」と「藤」の書き間違いとすることは、その意味でも容易に成立するものではないと思われます。つまり、この『日本後紀逸文』の文章はどのように解釈しても現行の『日本書紀』と『続日本紀』の中身とは食い違ってしまうものであり、「矛盾」を引き起こすこととならざるを得ないのです。
 そうすると「持統」はやはり「浄原御寓」の「前」の統治者であるとならざるを得ず、ここでは「文武」を指して「浄原御寓」と呼称していると考えるのが相当であることとなります。 
 上に見たように「逸文」の記述では『続日本紀』の記述対象期間としては「干支」などが記載されておらず、その点が「十巻本」と異なっています。しかし、この「十巻本」のこの部分の記述に「不審」があるのですから、この「干支表記」も同様に疑わしいと考えざるを得ないこととなるでしょう。
 そのことは鎌倉時代の僧「凝然」が著した『三国仏法伝通縁起』からも裏付けられます。


(この項の作成日 2011/04/27、最終更新 2017/03/11)旧ホームページ記事を転載



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