goo blog サービス終了のお知らせ 

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大宝令」と「浄御原令」(再度)

2025年03月16日 | 古代史
 以前「釈奠」について書きました。そのとき「その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われる」と書きました。
 改めて言うと「釈奠」とは儒教の祭祀儀式の一つであり、その祭祀を行う対象として「先聖先師」というものがありました。「唐」の時代、初代皇帝「李淵」(高祖)のはこの「先聖先師」として「周公」と「孔子」が選んでいます。「高祖」は「周王朝」を立てた「周公」を尊崇してたと思われ、自身を「周公」に見立てた結果「祭祀」の対象をそれまでの「孔子」から変更したものと思われます。しかし「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。これは「隋代」以前の「北斉(後斉)」と同じであったので「旧に復した」こととなります。
 これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものです。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。(「隋代」に「文帝」(高祖)により「大学」が廃止されていたもの)
 それが「永徽令」になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなりました。いわば「唐」の「高祖」の時代への揺り戻しといえます。
 さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔子、先師を顔回」とすることが「長孫無忌」などにより奏上されたものであり、「高宗」はこれを受け入れて「顕慶令」を公布します。ここでもう一度「太宗」の時代の古制に復したこととなります。そして、これがそれ以降定着したものです。
 「日本令」は「唐令」に準拠したとされていますが「浄御原令」も「大宝令」も全く失われておりかなりの部分不明ではあるものの、「大宝令」は「浄御原朝廷の制」を準正としたとされており(『続日本紀』による)、復元作業が行われている現在「大宝令」も「浄御原令」も通常は「永徽令」がその根拠令とされているようです。しかし以前考察したように現存している「養老律令」の「学令」には「釈奠」の祭祀の対象として「孔子」と「顔回」が選ばれており、これは「永徽令」とは食い違っています。
 
学令 釈奠条 凡大学国学。毎年春秋二仲之月上丁。『釈奠於先聖孔宣父』。其饌酒明衣所須。並用官物。

また『令集解』の「古記」においても同様の記述があります。

【学令 釈奠条】
釈奠於先聖孔宣父
…古記云。孔宣父。哀公作誄。且諡曰尼父。至漢高祖之曰宣父。…」

 これによっても祭祀の対象として「先聖孔宣父」とあり、「古記」でも同様であるので(「古記」は「養老令」というよりそれ以前の「大宝令」の注釈書ですから)「大宝令」の「学令」でも同様に「祭祀」は「先聖孔宣父」つまり「孔子」に対し行われていたこととなります。つまり「大宝令」そのものが「貞観令」あるいは「顕慶令」に準拠していたと考えるべきこととなるわけです。
 また「延喜式」の中では「釈奠」の対象は「先聖」として「文宣王」が選ばれています。これは玄宗皇帝により開元二十七年に孔子に対し追号されたもので、「養老令」にあるとおりこの時点でも変わらず「先聖」は孔子であったものです。これは「顕慶令」やそれ以前の「貞観令」と同じであったものであり、それが変わらず後代まで使用されていたことを示すものです。

「…以次出。其祝版燔於斎所。祝文維某年歳次月朔日。守位姓名敢昭告于『先聖文宣王』。維王固天攸縦。誕降生知。経緯禮楽。闡揚文教。余烈遺風。千載是仰。俾茲末学。依仁遊芸。謹以制幣犠斎。粢盛庶品。祗奉旧章。式陳明薦。以『先師顔子』配尚饗。維某年歳次月朔日。守位姓名敢昭告子『先師顔子』。爰以仲春。/仲/秋。∥率遵故実。敬修『釈奠子先聖文宣王』。惟子庶幾體二。徳冠四科。服道聖門。実臻壷奥。謹以制幣犠斎。粢盛庶品。式陳明献。従祀配神尚饗。…」(延喜式)

 「開元令」に「文宣王」とあることから「延喜式」は「開元令」に拠っているといわれていますが、基本は「養老令」の施行細則であり、「開元令」も「養老令」も実際には「顕慶令」(および「貞観令」)に拠っていることとなります。ではそれ以前の「浄御原律令」ではどうであったかと言うことが問題になるでしょう。
 以前は「大宝令」と「浄御原令」とはそれほど違いはないのではないかと言われていましたが、最近の研究では両者の間には差がかなりあることが指摘されています。
 「浄御原令」の時代には条文も簡素であったものであり、「大宝令」が条文に「式」部分を含むものであったものが「浄御原令」ではそれがなく、別途「式」様の「詔」を出しているのが確認できます。
以下持統の「詔」です。

(六九一年)五年…
冬十月戊戌朔。…
乙巳。詔曰。凡先皇陵戸者置五戸以上。自餘王等有功者置三戸。若陵戸不足。以百姓充。兔其徭役。三年一替。

この条文に良く似たものが『延喜式』にあります。

凡山陵者。置陵戸五烟令守之。有功臣墓者。置墓戸三烟。其非陵墓戸。差点令守者。先取近陵墓戸充之。

この文は「大宝令」の以下の部分に該当するものです。

喪葬令 先皇陵条 凡先皇陵。置陵戸令守。非陵戸令守者。十年一替。兆域内。不得葬埋及耕牧樵採。

「延喜式」は文字通り「式」であり、これは「令」の施行細則を意味するものですが、上の「持統」の「詔」は一見してわかるように「式」としての「詔」と理解できます。そうすると「詔」では「非陵戸」以降の部分が言及されていないこととなり、「浄御原令」の条文として復元されるものは「非陵戸」以降の部分を除いた部分ではないかと推察され、この部分の有無が「大宝令」と「浄御原令」の差になっていると思われることとなります。
 つまり「浄御原令」は「式」部分をその「令」の中に含んでいないとともに「大宝令」として復元されたものと文章が異なると言えるわけです。
 つまり「浄御原令」は「大宝令」とは異なり、「顕慶令」には準拠してないことが想定できます。そうなると当然「顕慶令」以前の「法令」に準拠しているとみられるわけですが、それは当然「貞観令」ではないこととなり(「釈奠」で考えれば「顕慶令」と同じであるため)、考えられるのは「永徽令」あるいは「武徳令」でしょう。(「隋」では学校を廃止したことから「釈奠」は行われなかったとみられ「隋令」を下敷きにしたとは考えにくいと言えます)

 また『続日本紀』では「大宝」と「建元」する時点で「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。

『続日本紀』
「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。『始停賜冠。易以位記。語在年代暦。』」

 しかし、『書紀』を見ると「六八九年」という年次に筑紫に対して「給送位記」されており、その後「六九一年」には宮廷の人たちに「位記」を授けています。

「(持統)三年」(六八九年)九月庚辰朔己丑条」「遣直廣參石上朝臣麿。直廣肆石川朝臣虫名等於筑紫。給送位記。且監新城。」

「(持統)五年(六九一年)二月壬寅朔条」「…是日。授宮人位記。」

 これらの記事は『続日本紀』の記事とは明らかに齟齬するものであり、しかも、この記事以前には「位記」を授けるような「冠位」改正等の記事が見あたらないこともあり、この「位記」がどのような経緯で施行されるようになったのか不明となっています。つまり「浄御原令」の中の「冠位令」あるいは「公式令」には「位記」に関することが決められていたという可能性があります。
 また「位記」が存在していたとすれば当然その書式も定まっていたこととなるでしょう。つまり「公式令」に表されたものがほぼその当時の「位記」の書式を示しているとみられます。
 「養老令」の「公式令」の「奏授位記式条」によれば「六位以下」に冠位を授与する場合の書式は以下の通りです。

「太政官謹奏/本位姓名〈年若干其国其郡人〉今授其位/年月日/太政大臣位姓〈大納言加名。〉/式部卿位姓名」

 これによれば「日付」は後方に来ます。
 ところで「那須直韋提碑」にはその碑文に以下のように書かれています。

 「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造追/大壹那須直韋提評督被賜」

 この文章については、私見ではそれが「朝廷」からの「任命文書」に沿って書かれたものと理解しています。この任命を「栄誉」と考えたがゆえに「碑文」が書かれたとするならそこから直接引用して当然だからです。当然この文書の書式は任命元である「浄御原朝廷の制」(浄御原令)としての「位記」の書式に則ったものであったはずですから、その記述順序はその時点の『公式令』によったものとみるべきでしょう。
 この文章を見ると「日付」が先頭にありその後に任命する側である「浄御原朝廷」と「本位姓名」から「今授其位」と続きますが、上に見た「養老令」の順序とは明らかに異なります。これは以下に見る「評制」下の木簡とよく似ており、その意味でもこの時点の(「浄御原令」の)『公式令』の「書式」を表現しているとみるべきでしょう。それを示すようにこの「碑」を立てた日付は以下のように「干支」で表されています。あくまでも「私的」な行為の場合は「干支」が使用されているわけであり、冒頭の日付が「私的」なものではないことが窺えます。

「…歳次庚子年正月二/壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云…」

 たとえば「評」木簡の中で日付を記したものは全て先頭に来ています。一例を挙げます。

「甲午(六九四年か)九月十二日知田評阿具比里五木部皮嶋養米六斗」 (031 荷札集成-32(飛20-26 藤原宮跡北面中門地区)

(奈文研木簡データベースよりピックアップしたもの)

 「評制」施行時期はあきらかに「浄御原令」施行下を含んでいますから、この木簡の書式が「浄御原令」の何らかの「定め」に拠っていたことは確かと思われます。つまり「公式令」において「大宝令」と「浄御原令」は異なる内容であったこととなるでしょう。それを示すようにその後の「郡」木簡には日付が後ろに書かれたものがみられるようになります。(以下一例)

「美濃国山県郡郷〈〉三斗十月廿二日〈〉 」( 033 平城宮7-12775(木研23 平城宮第一次大極殿院西面築地回)

この木簡の書式も何からの定めに拠ったと考えれば基本は先に見た『養老令』の『公式令』がその候補として上がるでしょう。
 同様のものとして「多胡碑」では「干支」が日付に使用されていますが、「公式令」にほぼ合致しています。この碑文も大部分が公式文書の丸写しと思われますので「公式令」に合致しているのは当然と言えます。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

 また上に見た「那須直韋提碑」では日付を表す年次が「永昌元年」と「唐」の「武則天」時代の年号が使用されています。しかし『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」の「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「儀制令 公文条 凡公文応記年者。皆用年号。」

「凡公文応記年者。皆用年号。
釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 つまり「大宝令」では「公文」(公的文書を言うか)には「年号」を使用するようにとしているもののそれ以前にはそのような規定がないというわけです。
 この「碑文」は「公式文書」から引用したものと推定しているわけであり、そこには日付として「年号」が使用されており、しかも「唐」の年号が使用されているわけです。その意味でも「浄御原令」は異質と言えます。

 ところで「持統」の「大嘗祭」は「六九一年十一月」に行われたと『書紀』にありますが、洞田一典氏によれば、「持統」の「大嘗祭」は実際には「六九〇年十一月」に行なわれたものであったと「復元」されています。(※)つまり「大嘗祭」実施と共に「暦」の改定及び「周正」へ変更を行ない、「十一月」を「歳首」(年の初め、つまり「一月」)と変更したため、結果的に「大嘗祭」は「一月」に行なわれたこととなったと推測されています。そして、そのような原資料の状況を、「八世紀」の『書紀』編纂者が「不審」として「翌年の」「六九一年十一月」と「誤って」表記されたと考えられたのです。つまり「大嘗祭」は「仲冬中卯の日」に行なわれたはずという「観念的解釈」に縛られた結果、一年繰り延べた記事を作成したと考察されています。これは「生年」の次の年を名前にするという命名法に影響を与えたとみるとその考察が正当であるのが判明します。
 またこの時の「歳首」変更は、「唐」の「武則天」が行なったものに倣ったものという推測もされており、「持統」の「唐」への傾倒がかなり強かったことをうかがわせます。
 それまで「天武」在世中はそのような傾向は見いだせなかったものであり、「持統」の時代になって大きく変化した部分であると思われます。「唐」の年号の採用も同じ流れではないかと考えられるわけですが、いずれにしても基本は「年号」を公文書には使用しないというのは当時の原則であり常識であったものです。
 「古記」の説明によれば「年号」の代表例として「大宝」が上がっており、それ以前のものには言及がありません。それ以前にも「年号」はあったはずですが(例えば「大化」や「朱鳥」など)「古記」の念頭にはそれらの「年号」や「浄御原令」が存在していないこととなりますが、それは「他王朝」のことであったからではないでしょうか。自分たちの王朝の前身ではないというわけであり、そのため例として上がっていないということではないかと思われます。
 また「弘仁格式」にその名が見えないということも言われています。確かに「弘仁格式」の「序」を見ると「国法」の変遷を見ると「十七条憲法」に始まり、「近江令」の次に『大宝律令』「養老律令」となっています。

「弘仁格式序」
「…乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇條、国家制法自■始焉。降至天智天皇元年、制令廿二巻。世人所謂近江朝廷之令也。爰逮文武天皇大寶元年、贈太政大臣藤原朝臣不比等奉勅撰律六巻、令十一巻。養老二年、復同臣不比等奉勅更撰律令各為十巻。今行於世律令是也。…」
 
 これで見る限り「浄御原令」は平安の時代においてすでに学者達からは全く無視されているようであり、あたかも存在していなかったかの扱いです。これも「他王朝」の「律令」という感覚が彼等の時代までに形成されていたことが窺えます。

 また「治天下」と「御宇」の使用の差にも「浄御原令」と「大宝令」の差が現れているように思われます。
 「持統」の時代に「新羅」から来た「弔使」に対する「勅」の中に「治天下」が現れます。

(六八九年)…
五月癸丑朔甲戌。命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級飡金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔『難波宮治天下天皇』崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。翳飡金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於『近江宮治天下天皇』崩時。遣一吉飡金薩儒等奉弔。而今以級飡奉弔。亦遣前事。又新羅元來奏云。我國自日本遠皇祖代並舳不干楫奉仕之國。而今一艘亦乖故典也。…。

 この「詔」の中では「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されています。
 「治天下」は「天皇の統治」を表す用語ですが、『書紀』を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この『持統紀』を除けば)最後は『孝徳紀』です。ただし、『孝徳紀』の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
 それに対し同様の意義として「御宇」も見られます。『書紀』の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)『孝徳紀』です。(ただし「詔」の中に現れるものです) 
 この『孝徳紀』の「詔」については「八世紀」時点における多大な「潤色」と「改定」が為されたものであるとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。例えば『古事記』は「推古」の時代までしかありませんが全て「治天下」で統一されています。
 中国の史書の出現例も同様の傾向を示し「治天下」は古典的用法であるのに対して「御宇」は「隋」以降一般化した用法であると考えられます。
 『大宝令』以降に「御宇」の例が見られることと、この「持統」の詔において「治天下」が使用されているということは「浄御原律令」時点では「御宇」という使用法がまだ発生していないことを示すものであり、「大宝令」と「浄御原令」の差がここにも現れているといえます。
 ただし「文武」の即位詔に以下の文章があります。

「…仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利…」

 ここに現われる「田租」「雑徭」「庸」「大税」という用語は「養老令」と共通であり、この「詔」時点ではまだ「大宝令」が施行されていない状況であることを踏まえると、これらの用語が「浄御原令」下のものであるのは確実であり、後の「大宝令」などと同様の条文があったことを推察させます。つまり「租庸調」という税制度や「稲」を貸し付ける「出挙」に近い制度があったことが窺えるものですが、これらは「唐代」以前からすでにあったと思われ、それが古典的と思われる「浄御原令」にあったとして不思議ではありません。当然「大宝令」にもあるものであり、それが直接の継受関係を表すことにつながらないのは当然です。
 これらのことから「浄御原令」は「大宝令」と異なり、「顕慶令」や「貞観令」に準拠していないことが推察されるわけです。しかし「永徽令」はその時点で新しくかなり整った形式を持っていたと考えられるため古典的と思われる「浄御原令」の準拠法令としてはふさわしくないように思われ、そうするとさらに時代的に遡上した「武徳令」がその準拠法令として考えられることとなるでしょう。この「武徳令」はそれ以前の「開皇令(律令)」を範としたとされていますから、かなり古典的である可能性があるでしょう。
 既に『日本書紀』の「日本」と『日本書紀』編纂段階の「日本」とは別の国であると指摘しました。後者は「日本」と書いて「やまと」と読むものであり、前者は「日本」と書いて少なくとも「やまと」とは読まず、推測によれば「ちくし」と呼んだかあるいは「ひのもと」と呼んだかです。当然そこで造られた「律令」は「継受関係」にはないということになります。
 「難波日本国」の律令は「難波日本国」の設立時点以降の産物であり、その内容構成が相当程度新しいものであったであろうと考えられるのに対して、「筑紫日本国」の律令は遙かそれ以前から作られていたと推察されます。
 「筑紫日本国」は「倭国王朝」であり、東方統治のため難波に進出する以前から「律令」が造られ運用されていたと考えられますから必然的にその律令は古典的であるはずであり、その構成はかなりシンプルなものであったと思われます。これらを念頭において考えてみると「天智」の「近江令」はその内容が新しいと思われるのに対して「浄御原令」は「持統」の王朝が「筑紫日本国」であったと思われることを含んで考えるとかなり「古い」内容構成ではなかったかと思われることになります。
 そもそも「倭国」は「宗主国」であり、「近畿王権」を根底に持つ「難波日本国」は「旧小国」(『旧唐書』の表現」)であって「附庸国」であったものであり(『隋書俀国伝』の表現によれば「竹斯国以東は俀に附庸している」とされ、当然「近畿」も「竹斯国」の「東」に存在しているわけですから「附庸国」であることとなります)、その「附庸国」よりも後に「宗主国」に律令が作られたとはとても考えられないこととなります。上に見た数々の徴証はまさにそのことを明証するものであり、天智という「難波日本国」の王が作成公布したという「近江令」は「大宝律令」に直結する性格があるのに対して「浄御原令」はそれらとは関係なく存在していたとみられることとなります。これらはそもそも「別の王朝」の律令なのです。
 「天智」が「筑紫」の空白を利用して列島全体を統治する際に「近江令」を公布したものですが、その後「薩夜麻」が帰国し再度「筑紫日本国」が列島全体を支配するに及んで「近江令」は中断あるいは撤廃されたとみられ、その代わり「筑紫日本国」が以前施行していた「律令」を再度施行したものと思われそれが「浄御原令(律令)」であったとみれば実態と整合的です。さらにその後の「元明」時点において「近江令」的なものを復活させたとみればそれが「大宝令」であったとみるのが相当ではないでしょうか。「元明」は「天智」の実の娘ですからその父が一度は作成公布した「近江令」を復活させたと見れば理解できるものです。

※.洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う -『持統周正仮説』による検証」「『新・古代学』古田武彦とともに」 第五集 二〇〇一年 新泉社

近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

2025年03月10日 | 古代史
 以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で「東宮監門郭丈挙」から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。

「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向史玄理。或本云。夏五月。遣大唐押使『大華下』高玄理。大使『小錦下』河邊臣麻呂。副使『大山下』藥師惠日。判官『大乙上』書直麻呂。宮首阿彌陀。或本云。判官『小山下』書直麻呂。『小乙上』崗君宜。置始連大伯。『小乙下』中臣間人連老。老。此云於唹。田邊史鳥等。…」

ここに出てくる冠位の内「大錦上」「小錦下」は『書紀』では「六六四年」に制定されたという「冠位」の中に初めて現れます。

「(六六四年)三年春二月己卯朔丁亥。天皇命大皇弟宣増換冠倍位階名及氏上民部家部等事。其冠有廿六階。大織。小織。大縫。小縫。大紫。小紫。『大錦上』。大錦中。大錦下。小錦上。小錦中。『小錦下』。大山上。大山中。『大山下』。小山上。小山中。小山下。『大乙上』。大乙中。大乙下。『小乙上』。小乙中。『小乙下』。大建。小建。是爲廿六階焉。改前華曰錦。從錦至乙加六階。又加換前初位一階。爲大建。小建二階。以此爲異。餘並依前。…」

 これに対し「大華下」はそれ以前の「大化五年」(六四九年)の冠位制に現れるものです。

「(六四九年)大化五年…二月。制冠十九階。一曰。大織。二曰。小織。三曰。大繍。四曰。小繍。五曰。大紫。六曰。小紫。七曰。大華上。八曰。『大華下』。九曰。小華上。十曰。小華下。十一曰。大山上。十二曰。『大山下』。十三曰。小山上。十四曰。『小山下』。十五曰。『大乙上』。十六曰。大乙下。十七曰。『小乙上』。十八曰。『小乙下』。十九曰。立身。」

 これで見るようにそれ以外の「大山下」以下は両方に現れるため、いずれの冠位かは不明と言えます。本来は年次から言うと「大華下」が正式の冠位と言えそうですが、なぜ後年になって制定された冠位がここに書かれているのが問題となっているわけです。つまりこの冠位の方が正しいとすると遣唐使として派遣された年次が『書紀』に書かれたものとは実際には異なっていたのではないかという疑念につながるものであり、それは即座に「日本国」としての初めての遣唐使の派遣年次につながり、『三国史記』や『新唐書』に書かれた「六七〇年」という年次が「日本国」としての初めての「遣唐使」ではなかったのかという一部の意見の根拠となっているようです。
 これは確かに一見すると「矛盾」であり、無視できない性質のものです。これについての私見は「近畿王権」には独自の「冠位制」があったというものです。つまり元々「近畿王権」は「倭国王権」の直轄統治領域の外であり、「諸国」(附庸国)として存在していたと思われます。このような場合「本国」つまり「直轄統治領域」の内部の「制度」等をそのまま「諸国」で採用しなければならないという制約はなかったものであり、「職掌」や「冠位」などについては基本的にその「諸国」の中である程度自由に決めて良いというものではなかったでしょうか。「封建制」というものはそもそもそういう特徴を持っていたと思われ、「直接」統治するという際の事情とは大きく異なっていたものと思われます。
 「直接統治」する場合は国中が同じ制度の中で行政が執行されるものであり、そのような場合と「封建制」における緩やかな統治とは大きく異なるものであったとみるべきです。すると「諸国」であった時点の「近畿王権」にも独自の制度があり、また独自の冠位制があったとみるのが自然です。それが「倭国」の東方政策により難波に拠点を設け東国を含めた直接統治をしようとした際にそれまで「附庸国」であった「近畿王権」が「直接統治領域」に入ったことから、彼らに対し「倭国王権」の内部つまり以前の直接統治領域で行われていた「官位制」を適用したために改めて冠位が与えられたとみられ、それが「大華下」という「冠位」であったと思われるわけです。
 この「冠位」は「大錦上」に比べ一段階低い冠位となっており(「大錦上」が七番目なのに対し「大華下」は八番目)、「新たに「版図」つまり直接統治領域に入った勢力に対し彼らの内部で行われていた冠位よりも意図的に低い冠位を与えたことが推定できます。これは「近畿王権」の冠位が最高位のものが「倭国」では二番目であったことの反映と思われます。つまり近畿王権№1は倭国王権№2というわけです。当然ともいえるものですが、「倭国」(筑紫王権)の近畿王権に対する一種の差別的政策でもあったことを示すとも言えるかもしれません。(このあたりもこの時の倭国王の政策に対して反感を買う一因であったかもしれません)つまりこの段階で「旧近畿王権」の関係者は二種類の冠位を持っていたという可能性が考えられるわけです。
 つまりこの「大錦上」という「冠位」がここに書かれているのはこの段階ですでに彼らが保有していたものだからだと思われます。これを示すのが「六五九年」に派遣された伊吉博徳」達の遣唐使達であり、彼らは「小錦下」「大山下」という冠位を持っていたことが『伊吉博徳書』に書かれています。

(六五九年)五年…秋七月朔丙子朔戊寅。遣『小錦下』坂合部連石布。『大仙下』津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。『小錦下』坂合部石布連。『大山下』津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。…」

 彼らはこの時唐皇帝から「日本国天皇」について消息を聞かれており、そのことから彼らは「日本国」つまり「難波日本国」の関係者と推定しました。つまり「博徳」達旧近畿王権関係者はすでにこの「六六四年」以前から「大錦上」のような冠位を授与されていたと思われるわけです。その後「天智」つまり「難波日本国」が「倭国」つまり「筑紫日本国」のいわば「滅亡」により政治的・軍事的空白となった「筑紫」地域(つまり「倭国」)を含む列島を統一したことから改めて本来の自己の制度である「大錦上」を含む制度を列島全体に(というより「旧倭国」領域に対し)敷衍したのが「六六四年」であったと思われます。

 「大華上」等が「倭国」つまり「筑紫日本国」の制度であると思われるのは「百済を救う役」で派遣される軍の第一陣が「大華上」等の冠位を持っていることから言えると思われます。

(六六一年)七年…八月。遣前將軍『大華下』阿曇比邏夫連。『小華下』河邊百枝臣等。後將軍『大華下』阿倍引田比邏夫臣。『大山上』物部連熊。『大山上』守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使『大山下』狹井連檳榔。『小山下』秦造田來津守護百濟。

 このうち「阿倍引田比邏夫」は『公卿補任』によれば「斉明朝で筑紫大宰」であったとされており、まだ「倭国」つまり「筑紫日本国」が健在時点で「大宰」とされていますから、明らかに「倭国」側の人間であり、その彼が「大華下」とされていることからもこの「大華下」という冠位が「倭国」の制度であったことが知られます。

慶雲二年条 中納言 従四位上  阿倍朝臣宿奈麿 四月廿日任。不経三木。/後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子。」(『公卿補任』より)

 ただしここでは「大錦上」という冠位であったと記されていますが、彼はこの「百済を救う役」で戦死したと考えられていますから、このような死後追贈の場合は最終冠位より高くするのが通例ですから、「大華下」より一段高い「大錦上」として「難波日本国」の制度を適用したものと推測します。
 他にも『公卿補任』からは「難波朝」において「大華上」という冠位が行われていたことが覗えます。

大宝元年条 大納言 正三位 石上朝臣麿   三月廿一日任。元中納言。同日叙正三位。/雄略天皇朝大連物部目之後。難波朝衛部『大華上』物部宇麿之子。

大宝二年条 参議 従四位上 高向朝臣麿   同日〈五月十七日〉任。/難波朝刑部卿『大花上』国忍之子。

 ここで言う「難波朝」が「倭国」の東方進出に伴うものであり、近畿を含め東国を直接統治しようとした「朝廷」を指すものであるのは明白で、その「難波朝」において「大華上(大花上)」という冠位制が施行されていたのは、それが「倭国」の制度であったことを示すものです。

 ちなみに先の記事で「大華下」という冠位を持っていた「安曇比羅夫」が次の記事では「大錦中」と言う冠位に変わっているのが注目されます。

(再掲)
(六六一年)七年…八月。遣前將軍「大華下」阿曇比邏夫連。「小華下」河邊百枝臣等。後將軍「大華下」阿倍引田比邏夫臣。「大山上」物部連熊。「大山上」守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使「大山下」狹井連檳榔。「小山下」秦造田來津守護百濟。

(六六二年)元年…夏五月。大將軍「大錦中」阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。

 すでにこの時点で「倭国王」たる「薩夜麻」が捕囚の身となっており、彼に指示を下せる立場の人間が「倭国」内にはいない中で誰の指示により出撃するのかと言えばそれは「筑紫」に出張ってきていた「難波日本国」の「天智」以外なく、また「天智」にしても自らの支配下にないものに命令を下すことはできないわけですから、「阿曇比邏夫連」も「天智」の指揮下に入ることを選んだものと思われ、「天智」により冠位を授与して出撃させたとみれば矛盾はないと言えます。
 ちなみに「大華下」と「大錦中」は同じく上から八番目であり、冠位の高低がありませんが、これは一つに「天智」が自らとその王権をすでに実体がなくなった倭国と同等の地位に立ったという意識からのものと思われます。また、とりあえず冠位を付与したという体の緊急的措置としても首肯できるものです。

 このように「近畿王権」には「倭国」の直接統治領域に入る前から「冠位制」が独自に敷かれていたと考えられるわけですが、そのことは即座に「官位令」的なものの存在を措定させます。つまり「官位令」に基づき「冠位制」が敷かれていたのではないかと考えられるわけであり、そのような「令」の集大成としての「近畿王権の制」というものがあってしかるべきではないかと思われるわけです。ちなみに「倭国」側にも全く同じことがいえ、「倭国律令」とでも言うべきものがこの時点であったとして何も不思議ではないといえるでしょう。

「諱字」と『書紀』編纂(改)

2025年03月02日 | 古代史
以下は以前投稿したものを微修正したものです。趣旨は変わりありません。

 唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点(六四九年)以降「戸部」と改められたものです。

『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍郎各一人。都官尚書統都官侍郎二人,刑部、比部侍郎各一人,司門侍郎二人。度支尚書統度支、戸部侍郎各二人,[一]戸部侍郎「 戸部 」當作「民部」,唐人諱改。下同。…』(「隋書/志第二十三/百官下/隋」より)

「…大業元年,遷大理卿,復為西南道大使,巡省風俗。擢拜戸部尚書。[一] 戸部 據本書煬帝紀上當作「民部」,唐人諱改。…」(「隋書/列傳第十六/長孫覽 從子熾 熾弟晟」より)
 
 その後「戸部」は「度支」「司元(太常伯) 」「地官」と変遷しましたが、結局「戸部」に戻りました。(七〇五年)
 しかし、我が国では「民部」は「戸部」等に変えられることなくそのまま使用され続けました。「民部省」や「民部卿」「民部」という呼称が『書紀』にも『続日本紀』にも出てきます。(『持統紀』『天武紀』『天智紀』等)また「養老律令」においても同様に「民部省」等の用例が多数確認できます。
 また、「唐」では「世」の字も「代」に変えられたものです。
 以下の例では「世」がそのまま「世」と表記されていて、それは「諱」を避けて「代」と表記する例と違うというわけであり、それは「唐」以降変えられたものと解釈しているわけです。

「閏月辛巳,皇太后竇氏崩。丙申,葬章德皇后。 燒當羌寇隴西,殺長吏,遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世等討破之。越騎校尉趙世等討破之 按:集解引錢大昕說,謂趙憙傳、西羌傳「趙世」並作「趙代」,蓋章懷避唐諱改之,此作「世」,又唐以後人回改。 」(「後漢書/本紀 凡十卷/卷四 孝和孝殤帝紀第四/和帝 劉肈 紀/永元九年 [底本:宋紹興本])

 この「代」と表記するものが「李賢」による注が施された『後漢書』であり、これが『書紀』には引用されていないという訳です。(これが引用されるようになるのは「平安時代」であり、その時点までには『李賢注後漢書』が伝来し利用されるようになったと見られます)
 そもそも『書紀』には「世」字は頻発しており、枚挙に暇がないほどです。「観世音経」「観世音菩薩」という呼称などの他多数の「世」の例が確認できます。ここでも「世」の字が避けられていないことがわかります。つまりこれらのことは『書紀』の編纂において「李賢」が注を施した『後漢書』を見て書いたというわけではないことを示すものであると同時に『書紀』全体を通じて「唐代」の「諱字」は全く避けられていないと云うことを示します。(ただし、「武則天」時代には「李王朝」から「武王朝」に代わったことを受けて「世」も「民」も諱字とはしなかった事実があります。そのことが反映しているという可能性はあるかもしれません。(ただし上に見たように「民部」が元の「民部」に戻ったというわけでもないわけです)
 このようなケースがどのような理由によるか想定すると、「参照」されていたのは「李賢」が「注」を施す以前の『後漢書』か、あるいは『後漢書』によく似た文章を持つ別の「書」(『東観漢紀』など)であったと考えるわけですが、それがどちらであってもそれが「倭国」に伝来したのはかなり早い時期を想定しなければなりません。
 たとえば「范曄」が表した『後漢書』についていえば『隋書経籍志』に既に『後漢書』が含まれており、(当然「李賢」の注が施されたものではない)『書紀』編纂時点で『隋書』を参照していたのは確かですから、その時点で『後漢書』も参照していたと考えても不思議はないわけです。『隋書』伝来時点(これがいつかは不明ですが、『書紀』編纂時点よりは以前であることは間違いありません)で『後漢書』だけは伝来しなかったとも考えにくいものであることは確かです。
 また『東観漢紀』という史書は「范曄」が『後漢書』を書く段階で参考にしたと見られる書ですから、その『後漢書』が伝来していたなら当然『東観漢紀』も伝来していたと思われることとなります。そしてそれは「李賢」が注を施す「高宗」の代以前のこととならざるを得ません。『日本国見在書目録』にも「范曄」の『後漢書』が記されていますから、かなり早い段階で入手していたのは間違いないでしょう。
 これについては「類書」の使用が有力視されており、『後漢書』や『東観漢紀』などから集められた文章で構成された『華林遍略』という類書からの引用が考えられていますが(これも『隋書経籍志』にも『日本国見在書目録』にも記されている書物です)、これであっても「南朝」(梁)の時代のものであり、その伝来がかなり早かったと想定しなければならないのは同様です。
 「李賢」が注を施した『後漢書』が注目されたのは「開元年間」のこととされていますが、当然「李賢」在命時には重要視されていたものであり(「則天武后」以降無視ないし否定されていたものです)、それが「倭国」に伝来していたとして不思議はないわけですが、実際にはそれは『書紀』の編纂には使用されなかったわけです。
 これは『書紀』編纂に何が使用されたかという問題と共に当時の倭国王権の意識がどこにあるかが問われるべきものと思われます。

 「諱字」が避けられていない史料によって『書紀』を書いたということと、『書紀』編者がそもそも「諱字」を意識していなかったと見られることは軌を一にする出来事と考えられます。依拠した「史書」に「諱字」があった場合、「諱字」の存在を知っていたなら書き換えて当然のはずが、そうしていないのは「諱字」を知らなかったか、あるいは「無視」ないしは情報が「視野に入っていなかった」かではないでしょうか。しかし、知らなかったというのは本来は考えにくいわけです。それは『書紀』の編纂に「唐人」が関わっていたと云う説があるからです。(森博達氏の議論)
 彼らは「百済を救う役」の際に「捕虜」となった「唐人」であるとされますが、それは「六六〇年代」のことであり、「顕慶二年」(六五七年)にはすでに「世」と「民」を諱字とするという高宗の「詔」が出ているわけですから、彼らがそれを知らなかったとは考えられないでしょう。それは彼らが「朝廷内」にその居場所を見つけたことにも通じています。そのことは彼らが一介の兵士ではなく「唐」本国から派遣されていた官僚であった可能性が高いことを示すものですが、もし彼らがそのような身分であったならら当然「諱字」について承知していたはずですから、彼等が編纂に携わったなら避けるべき「諱字」が実際には使用されている理由が不明となります。
 これについて整合的説明をしようとすると、「李世民」の「諱字」が避けられていないのは、「高宗」が「通達」を出す以前の史料によって『書紀』が編纂されているからと考えられることとなるでしょう。
 ところで『書紀』が参照したと思われる『隋書』の『俀国伝』が含まれている「列伝」の成立は「唐代」の「六三六年」ですから、当然『書紀』の編集はこの時点付近以降で行われたこととなります。
 上に見た「六五七年」の「「世」と「民」を諱字とする」という通達以前であるという推定と重ねて考えると、「六四〇年付近」がもっとも『隋書』のもたらされた時代として措定可能でしょう。私見ではこの時「高表仁」が派遣されたと見ていますが、この来倭の際にはもちろん「高表仁」だけが来たわけではありません。(記事でも「高表仁等」と表現されています)

 この時随行したのが誰で総員が何名であったかは不明であるわけですが、唐代における一般論から云うとこのような海外へ派遣される使節の場合、正使・副使とその各々についての判官、書紀(史生)など(状況によっては「軍関係者」も)総勢十数名はいたはずです。「隋代」の「裴世清」の来倭の際にも十数名が来たとされます。(以下の記事)

「推古十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。『下客十二人。』從妹子臣至於筑紫。」(推古紀)

 しかしこの「高表仁」の来倭の際には「高表仁」本人が倭国王子(史料によっては倭国王)と「礼」をめぐって対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。その時全員が「高表仁」と一緒に帰国したのでしょうか。
 「高表仁」がその勅命を果たせなかったということは甚だ不名誉なことであり、「失態」といえるでしょう。(史料では「無綏遠之才」と酷評されています)そのため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないかと想像します。
 通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合、彼らは「唐」の法律に従ってそれを指摘し是正させる役割があったと思われます。
 「高表仁」が「表(国書)」を提出せず帰国したということは、このときの判官はそのことを阻止できず、是正できなかったこととなるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。
 そのため責を咎められることを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国する事を選択せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたということも考えられるでしょう。
 「倭国王権」としてもこれはやはり「失態」であり、「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。そう考えれば、この時残留した唐人が律令策定に参画したと見れば「諱字」を避けていないのも当然となるでしょう。そしてそれが「續守言」「薩弘恪」の両名ではなかったかと考えられるわけです。
 彼らは後に律令策定に参画しているところを見ても、それほど下級の出身であったとは思われず、その彼らが参加したとされる「白村江の戦い」はその「高宗」の「詔」から数年を経ているわけですから、彼等のような唐人がそれを知らなかったはずがないと思われます。にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる『書紀』で「世・民」という「諱」が避けられていないこととなります。上に見たように可能性としては「世・民」の諱を避けていないのはその様な通達(「詔」)を知らないからであるという可能性が考えられ、その場合、彼ら唐人は「高宗」の「詔」以前から倭国にいたということとなりますから彼らは「戦争捕虜」ではなかったとは考えるべきこととなります。そうであれば戦後も帰国せず政権中枢にいる理由も納得できるでしょう。

「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について(改)

2025年03月01日 | 古代史

 以下は以前投稿した記事を微修正したものです。趣旨は変わりありません。

 『旧唐書』等中国側史料によれば「六三二年」に唐皇帝「太宗」(二代皇帝)が倭国に使節「高表仁」を派遣したとされます。(これは私見では実際には「六四一年」ではなかったかと考えていますが)この時「倭国王」あるいは同席した「王子」と「高表仁」が「礼」を争い、それに気分を害した「高表仁」が「朝命」を果たさず帰国する、という事件があったとされます。
 この「高表仁」という人物は『旧唐書』という史書の中では、以下のようにかなり明確に「けなされて」います。(「遠方の国を安んずる才能がない」という言い方をされています)

「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」(『旧唐書』東夷伝)
 
 ここで「高表仁」の役職として書かれている「新州刺史」の「新州」とは現代の香港よりさらに南の地域を指すものであり、彼は言ってみれば「左遷」されてここにいたものと考えられます。(それ以前は一旦「蜀」の地域にいたとされますからいわば「飛ばされていた」ようです)
 彼は「隋」の高祖(文帝)の時代、「尚書左僕射」という宰相的地位にあった「高熲」の子息(三男)であり、当時「皇太子」であった「楊勇」の娘を妻に迎えています。そのような生い立ちが彼自身の評価に影響している可能性はあるでしょう。
 彼を含む一族は「楊勇」と関係が深かったことから「煬帝」とは対立関係にあったものであり、そのため「唐」の時代になっても失脚というほど地位低下はしていなかったようですが、やはり旧王権に近かったことは確かであり、傍流的地位に落とされていたもののようです。
 彼は「刺史」というかなり地位も高い人物であり、またある意味「重要人物」でもあったと思われます。そもそも唐代においては「刺史」の選定はかなり慎重に行われたとされますから、その意味で「高表仁」もその力量についてはそれなりに高い評価がされていたと思われますが、「唐朝」の意図として、真に有能な人物であったなら、重用、つまり「唐中央」で働いてもらうという意味合いから「試験的」に倭国への使者として選抜したのではないでしょうか。(ただし、「航海」が危険を伴うことからわかるように失っても政権にとって痛みの少ない人物が選ばれていたことも否定できず、その意味で「高表仁」はあまり期待されていなかったのかもしれませんが)
 このような人物が使者として派遣される場合は「国書」が持参されていたとして不思議ではなく、「唐皇帝」の特命全権として「倭国王」との会談に臨もうとしたものと見られます。というより「国書」を読み上げ、倭国王に渡すことが「朝命」そのものであったでしょう。

 「唐皇帝」がこのように「倭国」との国交に取り組もうとした最大の理由は「半島情勢」と深く関連しているものと思われ、「高麗」との対決姿勢を強めるための「前提条件」として、その背後にいる「倭国」との「友好」が不可欠と考えたからではないでしょうか。(ここに至って始めて倭国の地政学的重要性に気がついたのではないでしょうか)
 「高表仁」は「外交実務」を試す意味で使者として選ばれたものと思われ、「ある意味」「優秀」と思われる人材発掘の場として「倭国」が選ばれているわけですが、そのことは、「唐」にとっての「倭国」というものが、「隋」以来の一種「宿題」となっていた国として映っていた事を示すものと思料されます。
 つまり、「倭国」は「前王朝」である「隋」に対して「対等性」の主張を盛り込んだ国書を出すなど、「問題」のある国と認識されていたことは確かであり、そのような国への「人材」派遣という事業は、その人物の問題処理能力を試すには絶好であったと言えます。しかし、この時派遣された「高表仁」は中国皇帝の代理としての意識が強すぎたことと、「前王朝」の「皇帝」の「身内」という意識があったためか、せっかくの与えられたチャンスを何とかものにして「失地回復」を図ろうとして「意識」過剰であったという可能性などがあるでしょう。
 『旧唐書』の記述によれば、「禮」を争ったとありますから、正式な外交儀礼を「倭国王」ないしは「王子」に要求し、その「厳格」な執行を求めたものと思われます。
 後の「開元礼」の中の「嘉礼」には「皇帝遣使詔蕃宣労」の礼というものがあり、これによれば「蕃主は唐の使者を迎えるにあたり、使者が詔有りと称したら蕃主は再拝し、使者が詔を宣したら改めて再拝し、その後北面して詔書を受け取る」とされています。
 彼(高表仁)はおそらくこの時このような「禮」を「倭国(王子)」に要求したものと見られますが、「王」ないし「王子」はこれに従わなかったという可能性が高いものと見られ、それに立腹した「高表仁」は「不宣朝命而還」ということとなったとみられます。これに関しては『善隣国宝記』の記事が参考等なります。 
 この『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって室町時代(15世紀の終わりごろ)書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。ここでは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた内容が書かれていますが、その中に以前に国書を持参した際の文言についての記述があります。
『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
宋國附商客孫俊明鄭清等書曰、矧爾東夷之長、實惟日本之邦、人崇謙遜之風、地富珍奇之産、襄修方貢、皈順明時、隔濶彌年、久缺来王之義、遭逢凞且、宣敢事大之誠、云云、此ノ書叶旧舊例否、命諸家勘之、四月廿七日、従四位ノ上、行式部ノ大輔、菅原ノ在良、勘隋唐以来献本朝書ノ例曰、推古天皇十六年隋ノ煬帝遣文林郎裴世清使於倭國、書曰、皇帝問倭皇、云云、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務そう等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務?等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、又大唐ノ皇帝勅日本國使衛尉寺少卿大分等、書曰、皇帝敬到書於日本國王、承暦二年、宋人孫吉所献之牒曰、賜日本國大宰府ノ令藤原ノ経平、元豊三年、宋人孫忠所献牒曰、大宋國ノ明州牒日本國
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 これを見て気がつくのは、「鳥羽院」の指示に対応して検討した「菅原在良」が「隋唐」以降の例だけを挙げて検討していますが、「隋唐」以降と言いながら「唐」の「太宗」が派遣した「高表仁」が持参したはずの「国書」については全く言及されておらず、「不宣朝命而還」という『旧唐書』の記録が正確であることを示しているようです。
 このような場合、上に見るように「禮式」としては「詔」つまり「国書」を「宣」する、つまり読み上げた後に渡す手はずであったものと思われますが、そもそも「不宣」ということですから「国書」を渡さずに帰国したこととなります。当然どのような文章であったか知るよしもないということでしょう。そのため例として挙げていない、というより挙げられなかったということだと思われます。
 この時「王子」が「詔書」を受け取る立場であったとすると「倭国王」の代理(摂政か)であったものとみられますが、彼は「唐皇帝」に対抗して「天子」として振舞おうとしていたものと見られ、「皇帝」の代理としての「高表仁」と正面からぶつかった可能性が高いと思われます。
 このことはまた「倭国王」(王子)の「気位」(プライド)の高さが知れる話でもありますが、また当時の倭国王権が「唐王朝」に対し「尊崇」する立場をとっていないともいえます。単に「外交儀礼」に関して「無知」であったというわけではないと思われるのです。
 この事件は従来「軽視」されているようですが、私見では「倭国」はこの前年に「伊勢神宮」の式年遷宮の第一回を迎え、新生「日本」として生まれ変わったという意識があったものと考えており、いわゆる「国風」文化の端緒の時期であったと思われますから、自国の特殊性、優越性について意識過剰であったという可能性があるでしょう。
 このときの「日本国」王朝は、「隋」から「訓令」を受け(つまり「古典的」祭祀を停止し仏教を受け入れた)、さらには「天子」を自称したことにより「宣諭」されるという事態に対応できなかった旧政権に対し、「距離を保とうとした」というより「反感を持っていた」と思われますから、それが「唐」との間にも現れてしまったという可能性があるものとみます。これが「構造的」なものなのか、「王子」の個人的感情の末のことなのかというと、やはり「倭国」と「倭国王」としての「公的なもの」とはいいにくいでしょう。遣唐使を派遣したという中に一定の友好関係は築いておこうという計算はあったものと見られますが、その計算を「王子」が壊したということではなかったでしょうか。彼自身は「唐」王朝に対し「蕃国」としての立場で振る舞うことが我慢ならなかったものとみられ、そのプライドが「高表仁」のプライドと衝突してしまったと見られるわけです。
 これについて「唐」朝廷としては「高表仁」からの報告内容を苦々しく聞いたこととは思われ、「高表仁」個人への評価もそうですが(史料によれば帰国した「高表仁」はペナルティーとして二年間「俸禄」が没収されたとあります。)「倭国」に対する印象もかなり悪くなったものと思われます。

 このとき「唐」は歴代の中国王朝が継続して交渉してきた「倭国」と改めて皇帝と臣下の関係を構築しようとしたものとみられます。
 「倭国」も「唐」の前代には「遣隋使」を送るなど「南朝」一辺倒の政策から転換していたものであり、「隋」王朝成立時に朝鮮半島各国が「柵封」された際にも、「遣使」はしたものの「柵封」されることはなかったものですが、これはあまりにも遠距離であったためという地理的理由によるものと思われ、特に「隋」に対して強圧的であったとは思われません。
 また「隋」に対し「天子自称」により「宣諭」されるという失態を演じていたわけですから、「裴世清」の帰国に併せ使者を派遣していますが、当然「謝罪」の目的であっただろうと思われます。それ以降も外交儀礼には気を使っていたはずであると思われますが、国内体制が変更となって以降はその方針が撤回され、「唐王朝」の権威に唯々諾々とは従わないという空気が醸成されていたと見られ、そのことが唐使に対し蕃国としての立場を認めないという振る舞いをとらせてしまったものと思われるわけです。

 ところで、上のように『旧唐書』では「高表仁」の派遣記事の最後「不宣朝命而還」の後に「至二十二年~」という記事につながるわけであり、これはこの遣使が「失敗」に終わったその「直後」、一時的に国交が絶えたことを示していると考えられます。
 また『唐会要』でも「不宣朝命而還。由是復絶」とあり、「国交」が途絶えたことと「不宣朝命而還」が「因果関係」があるように書かれています。このことは「国交」が途絶えた時期が、この「高表仁」の遣使の「直後」であった事を示すものでしょう。唐にとって積極的に友好関係を確立する必要はなかったものであり、倭国側から積極的なアプローチがない限り「放置」でよいと見たものではないでしょうか。そしてそのとおり倭国側からの働きかけはなかったものであり、それは上に見たように「日本国王権」の姿勢そのままであり、「対等外交」が拒絶されたなら当然断絶状態となるということではなかったでしょうか。

 この後は「貞観二十二年」(「六四八年」)になって「附新羅奉表、以通往起居」というように「新羅」を通じて「国交」を回復させたとされています。この「国交回復」の試みについては、「高表仁」と「礼」を争った当事者と思われる人物(これは「利歌彌多仏利」か)が死去した後の「後継者」によるものであったと思われ、ここにおいて方針の変更が行われたものと思われます。これについては新政権は実際には「旧王権」派ではなかったかと思われ、以前の勢力を回復していたものではなかったでしょうか。
 『旧唐書』によれば、新政権は「利歌彌多仏利」の葬儀に際して来倭した「新羅」の「金春秋」と友好関係を結ぶ事を画策し、まず「新羅」に友好関係回復のメッセージを送り、なおかつ唐との橋渡しを頼んだものとみられます。またそれとともに「唐」との関係が回復しないことを想定して「筑紫」に都を構えている場合の「リスク」を分散させる意味において「複都制」を企図し、「筑紫」からかなりの距離離れていて、「安全地帯」と思われた「難波」に遷都することにしたものではないでしょうか。
 「難波」は「阿毎多利思北孤」以来「東国支配」の「拠点」として重要視されていたものであり、ここを「本格的」な「京師」として整備し、「副都」から「首都」へという形で「対外防衛」と「東国支配強化」といういわば「一石二鳥」を狙ったものと思われます。


「軍制」と「百済を救う役」

2025年02月23日 | 古代史
 「冠位制」が「冠位令」のもとのものである可能性があることを踏まえると、軍隊組織においても同様のことが考えられます。つまり「軍防令」的なものが存在していた可能性です。
 既に指摘していますが「百済を救う役」における軍隊構成において「軍防令」的なものの存在が推定されます。
 そもそも軍隊への兵を徴発しようとした場合、最も合理的で確実な方法は一つの集落や一つの地域から必要な人員を徴発することです。それは一定の人数が確保できるという点で優れています。任意にあちこち徴発して回るより下部組織に向けて徴発指示を出し、その指令により各地域で必要な人員を選出し供出するのが最も確実と言えるでしょう。これら一つの地域から選抜した人員により一つの部隊を構成すると各人共通の意識形成が容易であり、また言葉の問題も解決しやすいと思われます。つまり方言」の違いを吸収できるからです。
 軍隊という重要な組織において言語によってコミニュニケーションがスムースにとれないとすると大きな問題になる可能性があり、部隊を構成する人員が一つの言葉一つの方言でまとまっていた方がずっと「制御」しやすいのは当然です。これらのことを考えると「百済を救う役」において各地域から徴発された部隊で全体が構成されていたことまちがいないものと思われます。その部隊構成の人数が「二万七千人」という数字が現われる理由として、それが選抜された地域の数と関係していることとなるのは必然です。
 もともと、各地域にはその地を牛耳る権力者がおり、彼とその地域を防衛するための兵力は以前からあったものと思われますが、「評制」の全国的施行により(それは「官道整備」と関わるものと思われますが)「倭国王権」の支配が全国に透徹するようになったものと思われ、中央から諸国への軍事力の展開が可能となったことと、それとは逆に諸国からの農作物を始めとする物品の徴収あるいは搾取が可能となったほか、「直接」的兵力調達が可能となったものと思われます。これらは「直接統治体制「の構築と関係しています。
 それまでの「地域的ボス」(これを一般には「在地首長層」という言い方をするようです)だけが「兵力」保持できるものであったものが、この「評制」施行により「倭国王」が直接的に「兵力」を確保することが可能となったものと考えられます。そして、これらの兵力のうちの一部は「筑紫」(=畿内)の外部防衛線を形成するものとして徴発されたものであり、このような人々が「防人」(戌人)と呼ばれた人たちです。 
 この「兵力」確保については、この「評制」施行時点ではまだ「八十戸制」であったと考えられ、その時点ではまだ本格的な「軍制」は定められていなかったと見られますが、「遣隋使」が派遣されて「隋制」が導入されて以降「五十戸制」に変わったものと見られ、それによって「戸制」が「軍制」に関連させられることとなったと見られます。
 つまり「後の」『養老令』によると「軍隊組織」の基本である「隊」(一隊)の人数は「五十名」であり、これは「一戸一兵士」で選出するのが「基準」とされていたのではないかと推測されるものであり、それは「二〇一二年六月」に「大宰府」から発見された「戸籍木簡」でも「兵士」と書かれた人物は一名だけであったことからも理解できると思われます。つまり、この事はこの時点以降「評」や「評督」そして、その頂点にいたと考えられる「都督」など「軍事的組織」と「戸制」とが強く結びつくこととなったと考えられるものです。
 当時「一隊五十人」を基礎単位とする「軍制」があったと考えられるのは、『書紀』で「蘇我入鹿」についての描写で「五十人」の兵士に警護されている様子が描かれていることからも推測できます。

「(皇極)三年(六四四年)冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。稱大臣家曰宮門。入鹿家曰谷宮門。谷。此云波佐麻。稱男女曰王子。家外作城柵。門傍作兵庫。毎門置盛水舟一。木鈎數十以備火災。恒使力人持兵守家。大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。『恒將五十兵士続身出入。』名健人曰東方■從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」

 この記事の「五十」というものが「多数」を意味するのか「実数」なのか微妙ですが、「兵士」の数として書かれており、「軍制」と「五十」という数が関係しているように見えることを考えると、「五十戸制」と「軍制」との関連の中で考慮すべきものと思われ、そうであれば、この「年次」(六四四年)において(後の「軍防令」のような)「軍制」に関するルールが既にあったらしいことが推定されるものですが、それはこの年次に先行する時点である「七世紀前半」において「五十戸制」がすでに存在していたことを強く示唆するものです。
 このように「蘇我氏」は「私兵」を所有しており、それは国家の軍隊と同様「五十戸制」に則っていたことが推定され、自家の領地とされる場所から「私兵」を徴集する権利を有していたものと見られます。
 「評」の戸数については、『常陸国風土記』に「評」の新設を上申した文章があり、その記載から「七百余戸」程度であったと考えられ、それは『隋書俀国伝』から推測される当時の「軍尼」の管轄範囲の戸数が「八百戸」程度になる事とも大きく異ならないと考えられます。
 その「評」の戸数が「七百五十~八百」程度であることと、「唐」で設置されたという「折衝府」の平均的兵員数(八百人)とがほぼ等しいのは偶然ではなく、「評」に「折衝府」的意味合いが持たされるようになったということではなかったでしょうか。
 また、この「軍制」では「正丁三人に一人」程度の割合で徴兵するとされていたようであり、国内的にはそれがそのまま行われたものかは明確ではありませんが、「大宝二年戸籍」の中の「三野国戸籍」では多くの「戸」において「正丁六人以上」の「戸」からも「兵士」は「一名」だけしか「徴発」されていないことが確認されることから、「唐制」をやや「緩和」して「一戸一兵士」という基準が国内に適用されていたと考えられるものです。
 また、『持統紀』に記された「点兵率」(正丁の中から兵士を徴発する割合)として考えられる以下の記事については、「正丁四人から一兵士」ということが書かれているとされ、この基準はそのまま『大宝令』にも受け継がれたものと考えられているようです。

(参考)「持統三年(六八九年)潤八月辛亥朔庚申。詔諸國司曰。今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者毎於一國四分而點其一令習武事。」

 そして「軍防令」の「正丁三人から一兵士」という基準は「唐制」の模倣そのものであって、実質的には「最低基準」として機能したと考えられるとされています。
 このように「正丁四人に一人」という基準が「難波朝」でも実施されたとみられますが、それは上で見たようにほぼ「一戸」から「一兵士」を徴発する事と「大差ない」ものであったと見られ、それは「評」の戸数とその「評」から徴発される「兵士数」がほぼ等しいことを推定させるものです。
 以上のことを想定すると前述した「百済」を巡る戦いへの派遣軍について「不審」とすべき事があると思われます。それは「白村江の戦い」への派遣の人数として「二万七千人」という数字が見えていることです。
 前述したように「三軍構成」で組織され、その各々が「九千人」程度であったと考えられるわけです。しかしそれがなぜ「三万人」ではないのか、なぜ一軍一万人で構成されなかったのか。そう考えた場合、「折衝府」たる「評」に集められた「兵員数」が「平均七五〇」名であったとすると、それを足していくと「一万人」にはなりにくいことが分かります。
 「軍」が「評」単位で編成されたことは「軍防令」(兵士簡点条)にも「兵士を徴発するにあたっては、みな本籍近くの軍団に配属させること。隔越(国外に配属)してはならない。」という意味の規定があり、そのことからも明確となっていますが、その「評」に集められた「人数」が「七五〇人」程度であったとすると「軍」の兵員数も「七五〇」の倍数になるという可能性が高いと思料され、「切り」のいいところ(千位のフルナンバー)になるのは「九千人」(七五〇×十二)であると推定されます。つまり、この「九千人」というのが「原・軍防令」とでもいうべきものの中に「定員数」の基準として存在していたものであり、そのため「三軍構成」の場合の「一軍」が「約九千人」なのではないかと推測できくす。つまり、後の「軍防令」では「軍団」は「千人単位」ですが、「原・軍防令」では「七五〇人」つまり「評」単位で「軍団」が形成されていたのではないかと推定されるます。
 つまり「五十戸制」が「軍制」と関連していると考えられるわけであり、そのため「里」の戸数として「五十戸」を大幅に超えるような「里」編成は想定しなかったし、実際にも行なわれなかったと見られます。つまり「一隊」が「一里」に対応していると思われ、「一里」に五十戸以上戸数があるとその分は「別の隊」に組み込まざるを得なくなって、その結果他の「隊」の編成に影響を与える可能性が出て来かねません。
 多分もっと重要なことはすでに述べたように「言葉」の問題もあったと思われます。つまりその隊のリーダー的存在を彼等の中から選抜していたとみられますが、その場合指示号令を理解できる集団でなければならず、別の「里」からの人が混在していた場合、言葉(方言)が異なってしまう可能性があり、コミュニケーションが不十分となったとすると軍隊として統一的行動をとるのに支障が出る可能性があるでしょう。そう考えると一隊が一里である必要があることとなりますから、必然的に隊の構成人数と戸数とは関連が深いこととなります。
 上の推定の傍証として以下があります。
 『天武紀』には「防人」の遭難記事があります。

「天武一四年(六八五)十二月乙亥四条」「遣筑紫防人等飄蕩海中 皆失衣裳。則爲防人衣服以布四百五十八端 給下於筑紫。」

 この記事の中では「防人衣服」として「布四百五十八端」が支給されたと書かれていますが、「衣料」としては「一反」(端)がおよそ「一着分」と考えられますから、この数字はそのまま「四百五十人分強」のものであることとなります。「船」の「乗員」の数としては、『書紀』に記載された「白村江の戦い」などの際の推定される「船の数」と「兵員数」から考えて、一隻当たり「一五〇-一八〇人」ほど乗り込んでいたのではないかと考えられますから、三隻分の兵士の数に相当すると思われます。
 後の「防人」に関する「駿河国正税帳」などの史料によると、「防人」として「徴発」され「帰国」する人数は計「十一国」の約「二千名」とされています。その内訳を見るとたとえば「常陸」において「二六五人」とされています。病気や死亡、あるいは帰国の費用捻出ができなかった(往復に要する費用は全て自前ですから)などの理由により当初徴発した人数よりも減少していることが推定されますから、実際にはこりよりかなり多くの人が防人として徴発されたと思われます。
 この「常陸」の国は当時(七三八年)「十一」の「郡」から構成されていたと考えられ、この当時の「郡」の戸数は「評」時代よりは増加していると考えられますが、上で推定した「評制」下の「軍団」の「単位」が「評」を構成する「戸数」と等しい「七五〇人」であったと推定すると、その類推として、「軍防令」に示された「千人単位」の軍団というものが、当時の「郡」の「上限」の戸数を示すと考えられ、これは「郡」の戸数において以前の「評」の時代の「七五〇戸」程度から約「千戸」ほどに増えた事を意味すると考えると、「防人」の徴発の割合は「四~五十戸」に対して「一名」の「防人」を出したものと計算されるものであり、「五十戸一防人制」つまりひとつの里(さと)から一名の「防人兵士」を徴発する制度とされていたらしいことが推定できます。つまり「倭国王」の周辺地域を防衛するシステムとしてはその選抜される兵士の数はそれほど多くはなかったとみられますが、上に見たように「戦闘」に参加するという事態が発生した場合はそれが徴発される割合は一気に「一戸一兵士」と増加するわけです。いずれにしても推定によれば一つの「国」から一つの軍を構成していたものと思われ、『持統紀』などに見える「唐」に捕囚の身であった人が帰国した記事などに反映していると思われます。

(六九六年)十年…
夏四月壬申朔…
戊戌。以追大貳授『伊豫國』風速郡物部藥與『肥後國』皮石郡壬生諸石。并賜人■四匹。絲十鈎。布廿端。鍬廿口。稻一千束。水田四町。復戸調役。以慰久苦唐地

ここでは「伊豫国」と「肥後国」から徴発された人がいたことが窺えますが、彼等は「伊豫軍」と「肥後軍」として編成された部隊の一員であったと思われます。それを示唆するものが「伊豫軍印」というものです。これは「愛媛県四国中央市土居町天満」という地に所在する「八雲神社」の伝来品です(いつどのような経緯でもたらされたものかは不明)。素材は「銅製」の鋳造印で、サイズが一辺が36.9mm、全高24.6mm、重さ50.8g、背面中央部に直立した楕円形の穴がある把手がついたものです。字体は「六朝風」であるとされています。
 この「印」は国内では他に例を見ないものであり、通常「律令制」下の諸国の「軍団」に支給された「軍団印」の一種と考えられているようであり、「健児の制」が採用された平安時代のものとするようですが、同様に「健児の制」が布かれた他の地域で「軍印」があるというわけでもなく、それほど確証のある議論ではありません。
 実際には他に現存する軍団印とは様式を全く異にしています。他の例では「団印」となっており「軍印」というのは確認できません。
 たとえば「筑紫」地域には「御笠團印」と「遠賀團印」という銅印が現存していますが、あくまでも「團印」であって「軍印」ではありませんし、つまみ部分には「穴」がなく「環鈕」とはなっていません。またサイズについても全く異なりそれらは一辺が40mm、高さが高51mmとなっています。(これは「天平尺」つまり「唐大尺」」によるとされます)このような「印」が律令に基づいて作られたとするとそれとは別の「規格外」のものが造られたはずがないともいえるでしょう。
 この「伊豫軍印」の規格はその寸法から考えて「南朝」の規格によったものと思われ、(南朝では歴代にわたり一寸が24.5mm程度であったと推量されます)、各々一寸五分(辺)と一寸(高さ)ではなかったかと思われます。
 「伊豫軍印」がこのような「南朝」(中国)の規格に沿っていたとするとそれが作られ、配布(授与)された時期として「遣隋使」以前が想定されるでしょう。なぜなら「遣隋使」以降「隋制」が多く導入されたとみられるからであり、南朝の規格は「隋」において暫時廃止されていったとされます。(当初は並行的に使用されたらしい)
 このような「銅印」について中国の史書を見てみると以下の例がありました。

「…超武、鐵騎、樓船、宣猛、樹功、剋狄、平虜、稜威、戎昭、威戎、伏波、雄戟、長劍、衝冠、雕騎、佽飛、勇騎、破敵、剋敵、威虜、前鋒、武毅、開邊、招遠、全威、破陣、蕩寇、殄虜、橫野、馳射等三十號將軍,『銅印環鈕,墨綬,獸頭鞶』,朝服,武冠。并左十二件將軍,除並假給章印綬,板則止朱服、武冠而已。
建威、牙門、期門已下諸將軍,並『銅印環鈕,墨綬,獸頭鞶』,朱服,武冠。板則無印綬,止冠服而已。其在將官,以功次轉進,應署建威已下諸號,不限板除,悉給印綬。
千人督、校督司馬,武賁督、牙門將、騎督督、守將兵都尉、太子常從督別部司馬、假司馬,假『銅印環鈕』,朱服,武冠,墨綬,獸頭鞶。
武猛中郎將、校尉、都尉,『銅印環鈕』,朱服,武冠。其以此官為千人司馬、道賁督已上及司馬,皆假墨綬,獸頭鞶。已上陳制,梁所無及不同者
陛長、甲僕射、主事吏將騎、廷上五牛旗假吏武賁, 在陛列及備鹵簿 ,服錦文衣,武冠,毼尾。陛長者,假『銅印環鈕,墨綬,獸頭鞶。』」(隋書/志 凡三十卷/卷十一 志第六/禮儀六/衣冠 一/陳)

 これは「南朝」「陳」の例ですが、「銅印環鈕」(他に「黒綬」「朱服」「獸頭鞶」など)は将軍や司馬、都督など軍を率いる立場の者達に授けられており、それはこの「伊豫軍印」も同様であったという可能性を示唆するものです。(この伊豫軍印も「銅印環鈕」に該当します。)
 ただしここでは「印」の規格について触れていませんが、北朝の「(北)周」では「皇帝」の「印璽」について「蕃國之兵」に供するものを含めて「方一寸五分,高寸」であったと書かれており、これと同一規格であることが注目されます。

「皇帝八璽,有神璽,有傳國璽,皆寶而不用。神璽明受之於天,傳國璽明受之於運。皇帝負扆,則置神璽於筵前之右,置傳國璽於筵前之左。又有六璽。其一「皇帝行璽」,封命諸侯及三公用之。其二「皇帝之璽」,與諸侯及三公書用之。其三「皇帝信璽」,發諸夏之兵用之。其四「天子行璽」,封命蕃國之君用之。其五「天子之璽」,與蕃國之君書用之。其六「天子信璽」,徵蕃國之兵用之。六璽皆白玉為之,『方一寸五分,高寸,螭獸鈕。』」(隋書/志第六/禮儀六/衣冠 一/後周)

 これは「北朝」の規格であるわけですが、「北朝」では「北魏」以来「漢化」政策を実施していましたから、「北朝」は基本的にその制度や朝服等を「魏晋朝」及びその後継たる「南朝」に学んだと考えられます。このことは「伊豫軍印」が「北朝」の規格に準じているように見えるのは実際には「南朝」の規格に沿ったものということを意味する可能性があることとなり、「百済」等を通じて「北朝」系の規格を学んだというより、直接「南朝」との関係として考えるべきことを示すものかもしれません。
 ちなみに「軍団」という印は日本独特のもので中国では例外なく「軍印」です。多く確認できるものが「将軍印」であり、これを保有しているものが「将軍」であることを保証するものです。(印は元々それを保有している人物や組織の権威を保証するものですから)
 さらにここに書かれた「印」という字の書体が「楷書」であるとして後代のものという議論もあるようですが、「楷書体」は「六朝」時代からあり「伊」「豫」「軍」という他の字の書体も併せて全体として「六朝風」と言う評価が妥当すると思われ、後代のものと断定するには疑問が出るところです。
 このような「軍印」が各地の「国」の軍事的最高権力者に授与されていたとみれば、少なくとも「倭国」つまり「筑紫日本国」の統治範囲の中には(「伊豫」は確かに統治範囲に入っていると推測できます)この「軍印」を所有する「将軍」(或いは「司馬」「都督」など)がいたこととなり、また彼等の配下に各「評」から選抜された「兵士」がいたということとなるでしょう。(ちなみに「中国ではこのような「印」は帯に「綬」でぶら下げられていたものであり、常時身につけていたとされます。そしてその「印」がそれを所有する人物の地位と権威を保障するものであったものであり、当時の倭国においても「威信財」として機能したとみるべきでしょう。)
 このような体制が存在していたとするとそこに「軍防令」的な制度がすでにあり、「冠位令」と共にそれらを包含する総合的な「令」があったことが窺えるものです。