2011年11月12日(土)
前回が10月9日だったので、ほぼ一ヶ月余りウォーキングをお休みしてしまった。休日の度に野暮用ができたり、用事のない日は天気が悪かったりだったが、ようやくのことで今日は歩き始めることができた。
前回の続きで船木(茶屋)からスタートし、国道2号を行ったすぐ先の新川交差点から左の旧道へ入る。雑木林の手前右手に、資料によれば厚狭毛利家儒医であった長谷川家の立派な門があることになっているが、写真(上左)のように藪と雑草に覆われて見る影もなくなっていた。このような歴史的な建造物だけでなく、普通の一般の民家でも、どんどん無人・空き家化が進んでいるのを目にするのは、何とも切なく寂しいものだ。
すぐに国道2号に合流し、小さな峠を越えると県道349号との銭ヶ原交差点だが、この交差点の左側を、国道に沿うように僅か100m位だけ旧山陽道の残骸を見ることができる(写真上右)。標識も何も無いので、意識せずに国道を歩いてしまうと見落としてしまう程だ。その少し先にも、同じような旧道が左手の田圃の中を抜けている。
やがて逢坂バス停からは今度は右手の登り坂に旧道が続いていて、「千林尼の石畳路」「山陽街道」と書かれた案内板が建っている。ここの石畳は今はもう僅か5m程しか残っていなくて(写真下左の中程に僅かに見える)、その他の部分はご覧のようにアスファルト舗装されてしまっている。当然、住民の生活道路だろうから舗装することは致し方ないとは言え、これもまたやるせない。この石畳ができたのは慶応年間と言うから幕末の時代だが、千林尼が悪路に難渋する人々を見かねて、自ら托鉢した浄財を注いで600mもの石畳を造成したとのことだが、現代ではもう忘れ去られようとしている。
その先に、千林尼が住んでいたという逢坂観音堂と千林尼の墓石があり、その脇から藪の中に旧道は続く(写真上右)。写真左側の暗く見える入口がそれで、入口左には写真のように「史跡 山陽街道の一部(残存)」と書かれた案内標柱が建っている。
ここから国道に合流するまでの道は、途中までは下刈りがしてあって歩き易いのだが、後半はほぼ藪の中で、高く生い茂った雑草と蜘蛛の巣を払い除けながらの歩行になる。
国道に合流した地点は、近年開通した「厚狭・埴生バイパス」と旧国道2号(現県道225号)との分岐点になっていて、旧山陽道は暫くは県道225号を西見峠に向けて登って行く。西見峠で宇部市(旧厚狭郡楠町)から山陽小野田市(旧厚狭郡山陽町)へ入る(写真下左)。
峠の頂上から少し下ったところで左に分かれて下るのが旧道で、その分岐点には目立たない小さな道標が建っている(写真上右)。道標には「左 旧山陽道」と彫られていることから、それほど昔のものではなさそう。
旧道は道標から更に左に下り、FDKの工場正門前を過ぎて、いよいよ厚狭の旧市街へ入って行く。厚狭川の少し手前左に、前回歩いた時にも立ち寄った「もりなが松蔭堂」があり(写真下左)、ここで自家焙煎のコーヒーと「玄米おはぎ」を美味しくいただいた。念入りにいれていただくとても香ばしいコーヒーと玄米おはぎの組み合わせは絶妙だし、気さくなお店のおねぇさんは、オイラが前回歩いて立ち寄った時のことを覚えていて、逆に感激してしまった。厚狭の街並み全体は既に、昨年の大洪水被害からは立ち直っているように見え、ここのお店もお客さんが次々に来られる程に繁盛していたのが何となく嬉しい。
厚狭川を渡ったところの左角に、「右 あつ」「左 はぶ下の関」と書かれた道標が建っていて(写真上右)、旧道はここから厚狭駅新幹線口方向へ左折する。つまり、ここを直進して現在の厚狭駅在来線口に続く駅前商店街は、山陽本線の厚狭駅ができて以来のものということになる。
新幹線と山陽本線の高架を潜って厚狭駅の南側に出ると、所謂「条理遺構」と呼ばれる整然と区画整理された田園地帯と、近年再開発されて建てられた住宅や文化会館などの施設が建ち並ぶ。が、道はあくまでも「条理」の名の通り、真っ直ぐに真西へ延びて行く。
小さな川を二つ渡った辺りから、再び旧街道らしい雰囲気の道に戻り、やがて小さな峠を越えて下ったところで道が二手に分かれ、そこにも「右 吉田道」「左 はぶ道」と彫られて少し右に傾いた道標が建っていた(写真下左)。ここを、写真の右に伸びる方向へ進み暫く行くと、少し先に山野井八幡宮の社が見えてくる。
山野井八幡宮に参詣し、例の如く今日の無事を感謝して、更に県道225号(旧国道2号)を横断して、長閑な木立の間を抜けて往くと、道の左手に曰くありげな祠が見えてくる(写真上右)。資料によれば、「山野井お駕篭立場跡」らしいのだが、案内板も何も無いので推測するしかないのは残念。どのような由来でここに駕篭立場が作られたのか、そしてどういう役目を負っていたのかなど、何らかの説明書きが欲しいところだナァ。
この先暫くは山陽本線の線路を右に見たり左に見たりしながら、山陽国際GCの北側を通って福田地区へ向かう。
福田八幡宮の前から一旦県道232号を歩くが、200m位先で大きく左に曲がるカーブの所に、「右 吉田道」「左 埴生道」と彫られた小さな道標が建っていて(写真下左)、ここから右へ入る。
そして右折したらすぐに、今度は左の民家の間の小径の方へ入って行く。写真上右の左端に見える小さな路地がそれだ。この路地に入り損ねてちょいと行き過ぎたところに「旧山陽道 左 吉田へ」と書かれた案内板が建っているが、ちょっと位置的には微妙(遅い)と思われる。
ここからは蓮台寺峠へ向けてひたすら山道を登って行くことになり、今日のコースの中でも一番の難所でもある。用心の為に熊避け鈴を取り出し、道に転がった枯れ枝を手にしてザッザッと、わざと音をたてながら藪の中に入って行く。
とは言え、前回歩いた時はかなりの藪道だったのが、今回は結構下刈りがしてあって、思いの外歩き易かった。ただ一箇所だけ、山からの清水が旧道に常時浸水している所があって、長靴でないと歩けないのは前回と同様だった。今回も、スーパーのレジ袋を二つ用意していたので、これを靴に巻き付けて難無く踏破できた(写真下左)。
蓮台寺峠を越えると下関市に入り、道もアスファルト舗装されていて、ほっと一息つける。坂を下っていると、ドイツのビール祭りに出てきそうなやたら恰幅のいいおじさんに、『旧道を歩いてきちゃったかいのぉ』と声を掛けられた。オイラは『きれいに下刈りがしてあったので、歩き易かったです』と言うと、『そうじゃろぉ、一昨日ワシが刈ったばかりじゃけぇ』と言われ、心の中で「ビール祭り云々」を返上して、丁寧にお礼を申し上げた。
『ワッシャァ、毎日ここで山仕事をしちょるがのぉ、まぁ月に何人かは、あぁたみたぃに旧道を歩いちょる人に出会うぃのぉ。中にゃぁ東京から来たちぇな人もおるけぇ、そねぇな人に申し訳ないからたまに下刈りをしぉる』と言われて、何と有り難いことだと感激すると共に、このおじさんが急に大好きになってしまった。
その先の川久保方面からの市道(?)と合流する地点には、「右 蓮台寺」「左 川久保」と彫られた小さな道標が少し右に傾いて建っていた(写真上右)。
山陽自動車道を潜り、県道260号をそのまま吉田地区へ向かう。ちょうど突き当たりになるところが赤間関街道中道筋との合流点になり、ここには、「右 上方道」「左 萩道」と彫られた大きな道標がある(写真下左)。更にそのすぐ後側には「吉田旧街道」と彫られた比較的新しい道標も建っているが、写真のようにいずれも電柱の支えワイヤーとその黄色い保護材が見事に邪魔をしているという、悲しい風景ではある。
ここから先の赤間関までは、旧山陽道と赤間関街道中道筋は同じ道となり、今日の歩行予定もここまでの積もりだったのだが、歩き始めてまだ4時間半程だったので、ついでに小月まで行ってみることにした。
また、吉田集落には、高杉晋作を始め奇兵隊隊士の墓がある東行庵や多くの史跡があるが、前回と赤間関街道を踏破したときに既にゆっくり回っているので、今回は素通りすることにした。吉田大橋を渡ってからは、県道33号の木屋川西岸土手をゆるゆると下って行く。
新幹線高架のすぐ手前に、右の山手に入る旧道が300mばかり残っていて、山側からの急斜面伝いに県道を足下に見下ろしながら、用心深く山道を行く。
旧街道は小月製鋼所の少し先から県道を離れて右へ逸れ、二つの堤を左下に見ながら小月小学校の正門前を抜ける。正門前の路傍には「旧国道」と彫られた立派な道標が建っているが(写真上右)、なぜ「旧国道」なのかの意味を、ここの小学生達はきちんと理解しているだろうかネ。そして先生達は、この道標と街道に纏わる郷土の歴史的な意味を、ちゃんと子どもたちに伝えているだろうかが、何となくちょっと気がかりではある。
その先を右折して小月八幡宮の前に出、今日のウォーキングもどうやら無事に終われそうであることを感謝して参詣し、国道491号を横断する。まもなく、小月八幡宮の御旅所が右手にあり、そこには「日本一」と説明板に書かれた巨大な庚申塔がデンと鎮座している(写真下左)。何が「日本一」なのかと言うと、何でも、この庚申塔に彫られている文字の中に、米二升が軽く入るとか、確かに、オイラが県内でこれまでお目にかかった百余りの庚申塔の中では少なくとも一番デカい。
小月本町で三叉路に突き当たり、これを左折して南下する。三叉路から100mばかり行った交差点をを右折するのだが、この交差点には「右 かみがたへ」「左 とよたへ」と彫られた大きな道標とその説明板が建っていた。前回歩いた時はこの説明板は無かったので、最近整備されたものと思われる。ただ、小月宿の歴史が的確に記述されているのはいいのだが、旧山陽道と赤間関街道中道筋との合流点であることも明確に記して欲しかった。
交差点を右折した後は、江戸時代の小月の歓楽街である「見廻り通り」を抜けて小月駅へ向かい、ここからJRで帰宅することにした。5時間半の歩行で40,759歩だった。次回は、清末から長府を抜けて壇ノ浦に至り、終点の赤間関を目指すことにする。
★今回の道程では、「道標」が小さな物から大きな物まで結構沢山あったので、それを全部掲載しようとして写真の枚数が多くなってしまった。そのため、前回までと違って、写真のサイズを小さくして横に二枚並べてみたが、ページ全体の見易さはいかがでせうか?
1.今までの写真のサイズ(800×450ピクセル)の方が見易い
2.今回のサイズ(400×225ピクセルの二枚横並び)の方が見易い
3.今までのサイズで、写真の枚数が多くてもよい
などなど、是非ご意見を書き込んでください。
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『全く知らなかった情報ばかり…』ってあぁた、ま、そんなもんかなぁ。かく言うおいらも、歩いてみるまではなぁ~んも知らんかったんじゃけぇ、ひとのことは言えんがの…ハハハ。
またちょくちょくコメントをくらはいぃ~
いつも楽しく読ませてもらってましたが、船木は通った高校も近くて、仕事でもよく行ってたので、初コメです。
ただ地名こそ懐かしいですが、あとは全く知らなかった情報ばかり…。
o(^▽^)o楽しいっす。
また来るけー。